ムスリム諸国のユダヤ史は、西洋人の心の中で二つの相対するイメージを呼び起こす。一方では、詩や哲学や科学における中世スペインの栄光に輝く達成、他方は、近い時代の低落だ―イエメンからの逃避、イラクの公開処刑、ホメイニーのイランの迫害の可能性である。これら両極を超えて、イスラーム下のユダヤ人の物語は曖昧なままである。標準的なユダヤ史は欧州以外の最も例外的な出来事をほとんど軽んじる傾向にあり、いずれにせよ1350年間ユダヤ人が暮らしてきたイスラーム環境に関する理解をほとんど示さなかった。十字軍に対する11世紀と12世の展開、あるいは欧州の啓蒙主義という背景に対する19世紀のユダヤ人の知的世界における大変化を、歴史家達が説明するのに注意深くある一方で、ムスリム諸国におけるユダヤ人の暮らしは、あまりにもしばしば、行き当たりばったりの不可解な勢力によって影響された、恣意的な出来事の結果だったようだ。
ノーマン・A・スティルマンは、明確な知性と広い見識で、ムスリムの間のユダヤ人生活の一般的な姿を本書で描くことによって、顕著な貢献をしている。彼は二つの方法で話題を扱っている。『アラブの地のユダヤ人』の四分の一は、スティルマン自身のものを含む最新研究と連動した史的概略である。残りの部分は、大半がアラビア語とヘブライ語のみならず、アラム語、ペルシャ語、トルコ語、幾つかの欧州言語から翻訳された文書記録と文学テクストの魅力的な大収集に捧げられている。優れた翻訳と役立つ脚注が、英語話者の読者にイスラーム下でのユダヤ人経験の多様性という正真正銘の意識を与える。(しかしながら、本書の題目にある「アラブ」という語はひどく誤導している。20世紀前以来、「イラクからモロッコまでのアラビア語話者」は、事実上、言語に関わらず、スティルマンが扱っている中東と地中海地域におけるムスリムの土地のユダヤ人という共通アイデンティティの感覚を持たなかったからだ。)
歴史部門は、スティルマンの師S. D.ゴイテインによって確立されたものから密接に生じる時代区分に従っている。(この概略が、元来はユダヤ人の過去を理解するために作り出されたという、非西洋地域に関する学術状態の悲しい反映である。)その概略は、ムハンマドの預言という短くも重要な時期(610-32年)で始まる。クルアーンの空間とムハンマドの行動が、ユダヤ人や他の非ムスリムに対する原理主義ムスリムの態度を決定する時だ。だが、ユダヤ教を除き、ユダヤ人に対する敵対的な師の融合を聞くだろう。常にユダヤ教の存在の継続によって困らされてきたキリスト教とは違って、イスラームはユダヤ人達を改宗させる必要がなかったが、彼らを一神教的な啓典宗教の一員として特別の権利を与えた。だが、それはまた、神のメッセージの欠けた版を信じていると主張して、見下げた。ユダヤ人は友人にもなれず、信頼もされなかった。むしろ、劣位にある宗教の残存として自尊心を傷つけられた。続く何世紀もの間、ムスリムはこれらの要因の一つあるいはその他を強調することによって、情け深いか厳しいユダヤ人の扱いを正当化できたのだ。
第二期は632年から900年頃で、イランからスペインまでのユダヤ人はムスリムの統治下に落ちた。アラビア語のイディオムをますます頻繁に使用することによって特徴づけられる新たな文化形態を展開した。(10世紀初期のサアディア・ガオンの聖書翻訳は、紀元前3世紀のアレクサンドリアの七十人訳聖書あるいは18世紀のモーゼス・メンデルスゾーンのドイツ語翻訳の衝撃にほぼ近かった。) そして、ムスリム領主の要請に従って暮らした。最も重要なことは、「この時期に、大西洋の東にいた多数のユダヤ人が...農業の生活様式から空間が徐々に変化した...もっと国際的なものへと」。彼らは都市へ移り、その後は貿易や産業の収入で大半を得た。小貿易を去って、商業、銀行業、手工業、製造業、そして専門職へと、ユダヤ人は8世紀と9世紀の「ブルジョワ革命」で重要な役割を果たした。
「最高の年」の900年から1200年までは、最高のムスリムの富と文化的達成の世紀と一致した。(ムスリム事項のように)ユダヤ事項におけるイラクの指導者性は、安定して豊かなエジプトの共同体と北アフリカとスペインの文化光沢に置き換えられるために、この時期に終わった。スペインは、ユダヤ文化の最も華々しい人物の何人かを生み出した。詩人のソロモン・イブン・ガビロール(1070年逝去)やユダ・ハレヴィ(1141年逝去)そして宗教哲学者のモーゼス・マイモニデス(1204年逝去)は、恐らく最もよく知られている。二つの要因が、その世紀間のスペインその他におけるユダヤ文化の活力を説明する助けになっている。第一に、ムスリムの富と創造性は当時最高潮にあり、恐らくは全ユーラシアで顕著だろうが、確かにキリスト教の欧州のレベルを凌駕する。第二に、ムスリムの間で暮らすユダヤ人は主流文化に参加した。彼らは、キリスト教諸国で暮らす同胞によって、もっと一般的に耐えた社会文化的孤立をほとんど経験することさえなかった。
「最高の年」の間、ユダヤ人とムスリムは文化的相利共生を作り出すことができた。ある程度の寛容と関心事の共有は、(今日の西洋の知的生活の多くと類似している方法で)異なる見解から類似の問題を扱ったことを意味した。(ほとんど常にヘブライ語だった詩を除いて) ユダヤ人はアラビア語で書き、ムスリムがしたように、同じ倫理的、哲学的、科学的な問いを考え、ムスリムの法制度と比肩できる制度の下で暮らした。900年から1200年の期間中、ユダヤ人迫害が起こったこともあったが、「格別に宗教的ではなかった活動領域では、もし完全に平等な間柄でないとしても、少なくとも平等性に近く、通例、ムスリムと非ムスリムが参加できた比較的開かれた社会が、特に市場で、ある科学的知的サークルで、ある程度までは政府官庁で(存在した)」。イスラームは、ユダヤ人が充分過ぎるほどその文化に参加することが許された唯一の一神教である。対照的に、何世紀もの後の欧州の啓蒙主義では、ユダヤ人が共通のディスコースで参加できる前に、文化の中心的要素としてキリスト教は取り除かれなければならなかった。
スティルマンは、ユダヤ人の社会的地位と文化が崩壊した間の1200年から1850年の第四期を「長い黄昏」と名付けている。十字軍として、キリスト教のスペイン人、ムスリムに軍事的に挑戦したモンゴル人、「この期間までにイスラーム社会で優勢な文化勢力であったヘレニズムという世俗的でヒューマニスティックな傾向が衰え始めた(一方で)、イスラームの宗教要素が最も厳しい形式で、これまでになく、より強力になり始めた」時期だ。ここでの不幸な含意は、初期ムスリムの創造性と寛容を説明したものが、ヘレニズムであってイスラームではなかったことだ。そのことは、ムスリム文化の良きもの全てをギリシア人に帰していた19世紀の一定の努力を呼び起こす。もっと説得力ある説明は、経済的堕落、法定時効のより大きな強調、神秘主義の広まり、文化的内向性を考慮する。スティルマンは正しく指摘している。ユダヤ人は「長い黄昏」というものにも耐えた周囲のムスリムの運命を共有した。
初期には非ムスリムにめったに適用されなかった、個人と社会の習慣を規制する不愉快な贅沢規制の法律が、今ではますます強制されている。キリスト教共同体が幾つかのムスリム諸国(北アフリカとイエメンの全部)で死に絶えたので、ユダヤ人は嫌がらせにもっと曝されるようになった。ゲットーは15世紀初期のモロッコで、「孤立と境界性」というユダヤ人の意識を強めつつ出現した。この内的亡命に苦しみつつ、カバラ主義やメシア主義を含む熱烈な宗教性やアルコール依存が、ますますユダヤ住民を特徴づけた。オスマン帝国が16世紀に中東の多くに善政と寛容をもたらした間、その権力は急速に低下し、政策は悪化し、ユダヤ人は初期の悲惨さに回帰した。
スティルマンは、一般読者に最も知られていない前近代期に正当にも集中しているが、19世紀には軽く触れているのみで、20世紀にはもっと少なく触れている。欧州帝国主義の影響は、1800年以降、大いに増加したが、それは事実上、ユダヤ人にとって経済的、教育的な利益をもたらし、ムスリムにイスラーム法を放棄するよう強制することによって、社会的地位を大きく改善した。イスラーム法はユダヤ人とキリスト教徒に劣位の地位を割り当てたからである。だが、これは短期間の獲得だった。というのは、19世紀におけるユダヤ人の「著しい予想以上の達成」は、ムスリムが自分達の国々の管理を取り戻した20世紀には破滅へと導いたからだ。ムスリムは、ユダヤ人が欧州との同一化を広めたことに深く憤ったのみならず、アラビア語話者のクリスチャン達による近代の政治的な反セム概念が、ユダヤ教に対するムスリムの態度を転換したのだ。今日では、多くのムスリムは、サウジアラビア、リビア、イランの指導者達を含めて、世界のユダヤ陰謀という概念を吸収してしまっている。そして、それに沿ってイスラエルとユダヤ臣民を扱っている。
古い秩序の変化によって、欧州人はムスリムの土地のユダヤ人の地位の改善を付随的に望んでいたが、結局はそれを傷つけた。宗教的な勧告によって、ある程度は保護されながら、ユダヤ人は、20世紀の新興独立国家におけるよりも、イスラーム法の下でよりよく暮らしていたのだった。欧州勢力の副作用は―新たな法制度、政治的な反セム主義、万国イスラエル同盟、シオニズムのような異種かつ相互矛盾する現象を含めて―ユダヤ人を強制的に去らせつつ、あまり耐えられない状況を作り出す働きをした。将来の著作で、スティルマンが初期に捧げた同じ知性と注意深さで、この現代史を取り上げることが望まれる。
1992年9月21日追記:スティルマンには、ちょうど私が望んでいたように、新著『現代におけるアラブの地のユダヤ人』がある。『オルビス』誌に簡単に拙評を掲載した。