カイロはこの頃、原理主義、怒り、憎悪、それに類したものの評判がある。政治的理由でノーベル賞受賞の小説家の首を刺して、象徴的に1994年に要約された。それで、タウリス・パークからトレバー・モスティンによる新着のペーパーバックの題目『エジプトの良き時代:カイロと享楽主義者の時代』には、私は軽いショックを受けた。その本は、元来1989年に英国で出版されたのだが、(大凡)1863年のイスマイルの即位と1952年の孫ファルークの転覆の間、エジプトの首都の生き生きした喚起を提供する。モスティンは、ジャーナルや旅行談や報道抜粋やその類からの引用によって、その90年間、欧州人の壮大な生活感覚を与えている。
1971年に尋常ならぬ都市に初めて到着した元カイロ住民として、私は都市の歴史のこの層に非常に気づいている。私は、イスマイルが建設した町の一部で暮らし、衰えたがまだ認識可能なあの期間の建築を享受し、フランス語を話すトルコ系エジプト人エリートと少し親しく交際し、午後はゲジーラ・スポーツ倶楽部で過ごし、君主制を想起した古参から思い出を聞いた。
エジプトのフェミニストのフダ・シャーラウィ(1879-1947年) |
今まで、これは消滅した世界を除く全てである。だが、モスティンの本と私の記憶は、両者とも、歴史の旋回は決して変わるのを止めないということを指摘しつつ、現在と関連する。
- 一世紀前、欧州文化が行進し、カイロで大聖堂、英国式倶楽部、イタリア風パラッツォ、フランス庭園を建てた反面、今日では、モスク、イスラーム文化センター、マドラサ、無利子銀行が西洋中で建っている。
- 私は、フェミニストのフダ・シャーラウィ(1879-1947年)にちなんだカイロ通りで暮らした。1923年に、顔覆いを公に廃したことで有名で、それは国のスキャンダルの原因になった。今、エジプト女性はしばしば自発的に顔を新たに覆っている。
- カイロで今日それほど蔓延っているイスラーム主義は、35年前には全く欠けていたので、あと35年で弱くなるであろう。
教訓は明快である。何がそうでなければならないかを憶測しつつ、上辺で現在の状況を取り、未知の事柄を推定することほど、大きな誤りはない。
(2006年10月12日記)