今では「イスラ―ム=平和」という無意味さを訂正する必要もなかろうと考えるだろうが、私は奨励し続けている―ちょうど昨日、アシュランド大学で私がした講演で、敵対的な質問者に主張されたことが今日の署名入り記事にある。それで、記録として次に掲載する。
大半のアラビア語の語彙は、k-t-bやs-l-mのような三語根に基づく。これらの語根から形成された語彙は、しばしば相互関連を持つ(kataba は書くこと、kitāb は本、maktaba は図書館など)だが、常にそうだとは限らない(katība は騎兵大隊)。換言すれば、語根は核の意味を持つが、関連のない語彙も含むのである。
s-l-m の場合、salām は平和を意味し、salāma は安全を意味する。だが、語根はまた、この核とは関連のない多くの意味を持つ。例えば、salam (アカシアの変種)、sullam (階段)、sulāmā(手か足のデジタル画像)、sulaymāni (塩化水銀)、aslama (裏切ること)そして、islām(服従)である。
salām (平和)とislām (服従)の間に、意味の関連は全くない。これらは、関連のない出会いの二つの識別語彙である。要するに、「イスラームは服従」なのだ。
[コメント] 「平和」と「服従」の事例のように、同じ語根が大雑把に反対を意味することは普通であるのみならず、アラビア語は、それ自身とその反対を意味するという、ヤヌスのような特徴を持つことで有名だ。私が1980年 の論文『保護者:初期イスラームにおける解放奴隷と改宗者』で述べたように、「アラビスト達は、全てのアラビア語彙が四つの意味-基本的なもの、その反 対、性に関連あるもの、最後に駱駝に言及するものを持つという誇張で初心者を楽しませる」。
(2005年10月9日記)
2005年10月19日追記:(フロリダの『ブラデントン・ヘラルド』紙のカール・マリオ・ヌーディによれば)CAIRのアフメド・ベディエールは言った。イスラームは
'As-Salamu'あるいは「平和」という語根から来ている。
その新聞の説明が健全だと憶測すると、尚一層の不正確さでCAIRは有罪である。
2006年12月9日追記:『イスラームは平和を意味する』は、インド人作家のジェイブド・ジャミルによる新品の本の題目で、ミッション出版から出版された。ミリ新聞出版から狂喜の待遇を受けた。
2007年4月8日追記:CAIR全国理事議長パルベズ・アフメドは言う。「イスラームは、ただ平和を意味するのみならず、イスラームは、最高目標として平和共存を強調する」。
2007年6月10日追記:1972年に合衆国に到着し、フィラデルフィアのモスクのイマームであるパキスタン系移民のムジェーブ・チョウダリーは、『フィラデルフィア探究』紙に語っている。イスラームは平和を意味し、もし誰かがそのように見ないならば、「彼はムスリムではない」。
2008年4月1日追記:イスラームは「神への強い関与」を意味しない。それは、『誰がイスラームを代弁するのか?十億人のムスリムが本当に考えていること』でジョン・L・エスポジトとダリア・モガヘドによって提供された奇怪な翻訳である。思うに、西洋の読者層にとって強過ぎる特性を持つ「服従」を避けるために採用されたのだろう。
2014年8月21日追記:マレーシア元首相のマハティール・モハメド「イスラームにおいて暴力のための場はない。イスラームは平和の宗教で、宗教を誤って解釈してしまった人々がいるのだ」。
2014年9月18日追記:オーストラリアの司法長官のジョージ・ブランディスが述べた。「主流のイスラームは平和の宗教以外の何物でもないという提案は、途方もないナンセンスである」。
2014年10月18日追記:フィラデルフィアで見てしまった。
フィラデルフィアのこの家は、正確さよりも熱狂で、側面で「イスラームは平和である」と宣言する。 |