それは、今週のコラム「愚かなテロリスト達」に関する、何通かの投書やコメント(ここを参照)の執筆者の苦情である。テロリスト達の過ちを指摘することによって、私がテロリスト達を助けているのだという。
この分析と、我々に対する戦争をもっと上手にする方法の手がかりをイスラミスト達に与えるかもしれない(論考文「どのようにテロが過激なイスラームを遮断するか」のような)他の分析の両方を書く前に、この可能性について私は懸念した。
「愚かなテロリスト達」の場合、敵が利益を得られる戦術的な助言を何ら提供しないならばという理由で、私は前に行くことを決めた。「間抜けな過ちをするな」は作戦上、有益ではない。過ちを犯すことを意図するテロリストはいない。過ちは、まさに不安や時の興奮の中で起きるのだ。
「どのようにテロが過激なイスラームを遮断するか」の場合、本当にイスラミスト達に、もっとうまくいく道へと手引きする危険がある。しかし私は続行した。なぜならば、前方に横たわっているものを西洋人達に警告する必要性が、危険を上回ると考えたからだ。
これらは議論の余地ある個人的判断である。相応の警戒で書いていることを、私はただ約束できるだけだ。そして、まさに敵を助けることを懸念したので、公には書かなかった話題があることに気づいている。
(2005年10月6日記)