2003年8月にムスリム公共問題協議会がしたように、公共政策タイプが厳しく宗教問題に意見し始める時、それは驚きである。今、遅ればせながら私は、アラブ・アメリカ機関の所長ジェームス・J・ゾグビーが似たようなことをしたと知った。イスラーム・オンライン・ネットの2002年2月の『ライブ対話』交流の一つで、クルアーンが「あまりにも人種差別的」な箇所を含むかもしれないことに悩んだ「ムハンマド」に対して、彼は答えた。
西洋においてイスラームを説明し、西洋で厄介だと思っているクルアーンの中のそのような箇所を扱うために、充分なことがなされてこなかったと、私は考えている。これをする一つの簡単な方法は、クルアーン全体を読み、トーラー全体を読み、その後、どちらがもっと血なまぐさい聖典か、質問者達を招待することだ。
ゾグビーは不誠実だ。トーラーの火と硫黄の箇所は、全体として全く聖書なのだが、何世紀も前に、寓意あるいは再解釈されたものに転換された。対照的に、多くのムスリムにとって、クルアーンは文字通りの命令であり続け、彼らは日々、アルジェリアや西岸やカシミールのような地で、そのように行動を規制する。会員が不信仰者を殺すよう促されているシナゴーグや教会はない。ゾグビーがこの鍵となる相違を無視する選択は、彼がイスラミスト達のための給水船だという、もっと多くの証拠を提供する。
彼の意見に関する私の不機嫌を払いのける機会を彼に与えつつ、私は丁重な短信をゾグビーに書いた。彼の回答は、この頃の左派にあまりにも典型的な中傷で始まった。(「あなたは馬鹿げた点に取り憑かれています…現実を直視しなさい。そうすれば助けを得ます」。) 彼はその後、暴力を促す傾向を共有している他の聖なる書について、その点を繰り返し拡張した。「暴力行為を正当化するためにクルアーンを使うかもしれない極端なムスリムもいる反面、同じ事をする極端なユダヤ人もいます。もちろん、聖典と同一のことをする極端なクリスチャンやヒンドゥ教徒などもいます」。
ゾグビーに私は問う。もしユダヤ人その他が、ムスリムのように聖典と「同一のこと」をするなら、なぜ彼らは、自分の体に自殺ベルトを結びつけたり、摩天楼に飛行機で飛び込んだりするような同一のことをしないのか?私はゾグビーの返事を待っている。
この事件の倫理は?それは雇われ政治家が、まずい神学者をつくることだ。