ここでの私の題目は、マルティン・クレーマーの2003年春号『季刊中東』誌掲載の論文「用語の折り合いをつける:原理主義者かイスラーム主義者か?」に対抗するものだ。その中で、彼は過去二十年の「激論」を検討している。ムスリム原理主義、イスラーム原理主義、政治的イスラーム、戦闘的イスラーム、過激なイスラーム、そしてイスラーム主義と、多様に知られる現象を英語でどのように呼ぶかについてである。「同時代のイスラームにおける変化と折り合いをつける西洋自身の苦闘で、どの用語が広まるかを予測することは不可能である」と記すことで、彼は調査を結論づける。
確かにその通りで、私自身もこの用語の話題には彩り豊かな遍歴を持っている。それに関する私の史上初の論文は『オルビス』誌24号(1980/81年)9-41ページ掲載の「この世界は政治的だ!!70年代のイスラーム・リバイバル」だが、「新正統派イスラーム」を使った。その後、私は「原理主義者のイスラーム」と「イスラーム主義」へと連続的に振り替えた。イスラーム主義は私の好みの用語であり続けている(なぜなら、イスラーム主義者自身に使われているし、他のイデオロギー的「主義(isms)」と並行だからだ)が、言うのが重苦しいので、9.11後、私は「戦闘的イスラーム」を採用し、それを本の題目や、多くの論考文やテレビ出演に使った。
そして、クレーマーが論文を書いてから一年半後、「戦闘的」とは、今や「戦闘的イスラーム」が自分にとって耳障りでさえあるところまで、「テロリスト」の主な婉曲表現になってきている。それで、幾ばくかの躊躇を伴いつつ、私は「過激なイスラーム」という新たな用語を取り上げる。この用語が、他の用語よりも長く―その現象そのものよりも長く―持つことを希望する。
(2004年12月26日記)