最近、『カウンター・ポイント』誌の編集者達が以下の発言に対処し、一人の例外を伴い、学生と教授のグループに対して、シカゴ大学で質問をした。
近年、共通して受け入れられた説の一つは、「増大する学生の保守主義」に関わる。これは、勿論、学生の大学政治及び一般的な国家政治への関心の低下を意味する。この現象について語る人々は、通常、一種の反動で、1960年代の大学での激しい政治活動からの後退だと考える。更に、今日の学生は経歴にもっと関心があり、キャリア追求に学問的なエネルギーを捧げるという論がなされている。
これは正確な描写だと感じるか?もしそうならば、これは、アメリカの若者の間の無気力の徴や自己満足の前兆なのか、それとも、60年代の過激派に避けられた、大人の責任感に向かう動きなのか?学生は政治的に関与すべきか、それとも、学術機関の要請が権勢を振るうべきなのか?最も重要なことに、深刻な事柄を巡る希薄な研究は、いかなる種の政治的な行動主義も含むのか、あるいは排除するのか?
以下に、14の応答がアルファベット順で現れる。
ダニエル・パイプス
学生に保守主義の雰囲気はあるが、それは増大していない。今日の学生は、体制秩序を変えるよりも、入ることに遥かにもっと関心がある。だが、この雰囲気は、15年前の行動主義に対する反動というものを体現しない。その反対に、正常化への回帰を合図する。というのは、歴史記録は、アメリカの大学生が通常、政治にあまり関与しないことを示すからだ-他諸国の仲間達より、遥かに少ない。
それ故に、1960年代の過激主義は、最近の静寂主義ではなく例外的で、説明を要する。第二次世界大戦後の「ベビー・ブーム」期に生まれた大学生は、アメリカにおける特殊な経済成長、世界権力、愛国的な理想主義の期間に成長した。その結果、自分のための金銭的な安寧、自国の武勇、そして、しばしば見過ごされるもの-子どもとして教えられた理念の施行の可能性を、当然のことと見なすようになった。
学問に励む学部生としての著者 |
大学に到達するや否や見渡し、期待するようになったものよりも、合衆国があまり完璧ではないことがわかった。失望したが、熱烈に理想主義的なので、その要求と同様に、国を良きものにしようと学生達は努めた。何が誤っていたかに囚われ、活動家達は国の膨大な達成に盲目になった。(部分的には、理念に比べて膨大な他の場所との関係は、取るに足らない。)非現実的かつ性急なので、実現可能性には関係なく、過激な改善を欲した。事実上、理想主義に燃え尽き、疲労困憊したのである。
今日の学生達は、もっとしらふの時代に成長した。子どもの時に経済停滞が始まり、同時に、アメリカのパワーが低下し、地位への高い理念は-戦時期に破砕した。要するに、通常の条件が戻ってきたのだ。学生達は、先立つ学生世代の大半を特徴付けてきた、実際的かつ個人的な野心目標へと戻ることによって、応答したのである。
今までに、あの頃の興奮を思い出す人々、その仲間入りをしてしまった退屈さを後悔するには若過ぎる人々は、1960年代末の向こう見ずな日々への、大変に軽薄な郷愁がある。だが、彼らは大学を傷つけ、社会緊張を作り出し、財産と命の喪失を引き起こした深刻な妨害だったのだ。もっと退屈かもしれないが、学生達が標準的な振る舞いを再び始めた時、学生と社会全体の両方を益した。
学生ジャーナルにこれを書くことは如才ないかもしれないが、学部生だった時と同じことを言っている記録上に、私はいる。ずっと意味をなす政治問題に自らを掲げるために、大学生は滅多に世界的な経験や判断力を持たない。理想主義と責任の欠如と反抗的な態度の混交は、通常、非現実主義的な計画へと導く。勉強と遊ぶことに学生時代を費やす方が、ましなのだ。