中東における国家社会主義の衝撃は、短期で表面的なように見えたものだった。ソヴィエト圏を経由して現地政党と外部影響が何十年以上も続いた共産主義とは違って、ナチの時期は1939年から45年まで約六年続いた。そして、北アフリカでのロンメル軍やイラクでのつかの間の親ナチ政権を超えた地域プレゼンスを、殆ど持たなかった。
だが、強力で重要な二冊の本が誤解を正してきた。マティアス・キュンツェルによる2002年出版の『ジハードとユダヤ人憎悪』(Djihad und Judenhass)を英訳した2007年の『ジハードとユダヤ人憎悪:イスラーム主義、ナチズム、9.11の根源』(Jihad and Jew-Hatred: Islamism, Nazism and the Roots of 9/11)は、イスラミスト達にナチの着想が継続して影響していることを示している。ジェフリー・ハーフの『アラブ世界向けのナチ・プロパガンダ』(Nazi Propaganda for the Arab World)は、もっと早い1930年代から40年代という時代と、ヒトラーやその寵臣達によって中東に着想を伝える主要な努力に焦点を当てている。現代中東に関する自己教育にはナチという重大な要素が欠けていたと、キュンツェルとハーフを読んだ後、私は悟っている。
メリーランド大学の現代ドイツ史の専門家であるハーフは、新たな情報総体に光をもたらしている。カイロのアメリカ大使館で三年以上生じた、アラビア語でのナチのラジオ短波放送の要約説明である。初めて、ベルリンがアラブ人(と、より少ない程度でイラン人)に何を言ったかを、この貯蔵物は充分に暴露している。『アラブ世界向けのナチ・プロパガンダ』のページを繰るにつれて、ドイツ人がとりわけ二つのテーマを追求したという、極端に退屈でつまらないが必要な詳細が確立されている。つまり、シオニズムを止めてイスラーム主義を促進することだ。各々は詳しい考察に値する。
アラビア語によるナチ・プロパガンダは、史上最大で最も破壊的な戦争である第二次世界大戦を、地中海とヨルダン川の間の細長い土地にまず焦点を当てて描写した。ユダヤ人がアラブ諸国と事実上全世界を乗っ取りたがっていたこと、このシオニスト陰謀において同盟権力が抵当以外だったこと、ドイツが彼らに対する抵抗を導いていたこと、というこの解釈は、アラブ人にお世辞を言い、ヒトラーの壮大な理論を延長する両方だった。
これらの放送によれば、パレスチナが鍵だった。もしシオニスト達がパレスチナを乗っ取ったならば、「欧州、アジア、アフリカの三大陸を管理する」ことだろう。「それ故に、彼らは全世界を支配し、ユダヤ資本主義を広めることができるだろう」。このような万一の場合は、アラブ人の抑圧とイスラームの消滅へと導くことだろう。「ボルシェヴィズムと民主制が勝利的であるならば」と、ナチ・ラジオはアナウンスした。「アラブ人は永遠に優勢であろうし、イスラームのあらゆる形跡はぬぐい去られるだろう」。この運命を回避するために、アラブ人は枢軸国に参加しなければならなかったのだ。
ジェフリー・ハーフ |
戦争が進むにつれて、ベルリンの煽動は更に一層、煽動はより一層、怒り狂うようになった。「お前達に火を付ける前に、お前達がユダヤ人を殺さなければならない。ユダヤ人を殺せ」と1942年7月の放送は行なった。ハーフは「完全にユダヤ人が無力だったこの時、ベルリン発のアラビア語放送は、反ヒトラー連合のユダヤ優勢に関して、過激なアラブとイスラームの見解についての一般的なナチ・プロパガンダ路線にうまく適応した」と、苦い皮肉を記す。
同時に、ナチ体制は専ら『シオン賢者の議定書』や『我が闘争』や他の欧州資料を無視し、コーランの選択箇所を味方にして、ムスリムに対するアプローチを展開した。
ヒトラーの宣伝者はムスリムに確証した。第一に、枢軸諸国は「コーランを尊重し、モスクを聖別し、イスラームの預言者を栄光化する」。それは善意の重要な印として、ドイツの東方学者の尊敬すべき仕事を引用した。第二に、ハインリッヒ・ヒムラーがイスラームと国家社会主義という「共有された目標と共有された理念」だと呼んだもののために、論じた。これらは、一神教、敬虔さ、従順、修養、自己犠牲、勇気、名誉、寛大さ、共同体、統一、反資本主義、労働と戦闘の祝賀を含んだ。
加えて、ムスリムとナチは両者とも、中東で最も重要な植民地勢力である英国に対する「自由のための偉大な闘争」を目的を持って戦っているのだと、ムスリムは言われた。体制は、ムハンマドとヒトラーの間の並行を引き、自己概念にとって全体主義的な「民族共同体」(Volksgemeinschaft)のほぼ類似として、ウンマを提示した。
ナチはイスラームを同盟として描き、それに応じて、敬虔に行動し、ムハンマドを熱心に見習うようムスリムに促す一方で、そのリバイバルを呼びかけた。アラビア語のラジオ・ベルリンは「アッラーは偉大なり!アラブ人に栄光を、イスラームに栄光を」と宣言までした。充分に正義ではなかった(換言すれば、ナチのイデオロギー的なモデルに従わない)ムスリムは、ウンマが衰える原因になっていると、ドイツ人は考えていた。「ムスリムよ、汝らは今遅れている。なぜならば、汝らは神に適切な敬虔さを示してこなかったし、神を恐れないからだ」。そして、遅れているのみならず、「無慈悲な暴君に侵略され」てもいる。特にシーア派のために、反キリスト(つまりユダヤ人)と戦い、終末の日をもたらすであろう、待たれた十二イマームあるいはムスリムの終末的なイエス像がヒトラーだと、ナチは仄めかした。
コーランからの言い伝え(スーラ5章82節「汝らはユダヤ人ほど激しい信仰者の敵に会うことはないであろう」)と、ヒトラーの言葉(「どこでもユダヤ人に抵抗することによって、私は主の業のために戦っている」)の間の並行にナチは気づいており、コーランを、その主目的が永遠のユダヤ人憎悪を呼びかけることだった反セム的なトラクトに変えた。彼らは、ムハンマドがムスリムにユダヤ人が「絶滅するまで」戦うよう命じたと、誤った主張さえした。
ナチの語りで、ユダヤ人とムスリムの敵意は七世紀まで遡った。「モハメドの日々以来、ユダヤ人はイスラームに敵対的だった」と、ある放送は行なった。「アラブ人に対するユダヤ人の強い憎しみがイスラームの曙にまで遡ることを、全モスレムは知っている」と、別の放送は宣言した。「古代以降、アラブ人とユダヤ人の間に敵意が常に存在してきた」と、第三の放送は主張した。ナチは「一人もユダヤ人が...アラブ諸国に残らないように、あらゆる可能な努力をする」ことをアラブ人に指示しつつ、中東で最終解決の基盤を樹立するための前提を作り上げた。
ドイツと中東の要素の顕著な共生を、ハーフは強調する。「共有された情熱と権益の結果として、各集団が勝手に生み出すことができなかったテクストと放送を生み出した」。特にアラブ人は「反セム的な陰謀思考のより優れた点」を学び、一方でナチはパレスチナに焦点を当てる価値を学んだ。ベルリンでのナチとイスラームのテーマを一緒にして、「二十世紀で最も重要な文化交換の一つ」だと、彼は描写する。
アラビア語のナチ宣伝を詳述したので、その後、ハーフはその衝撃を跡付ける。これらのメッセージに捧げた大きなエネルギーと費用-献げた人材の質、高レベルでのナチの後援、何千時間ものラジオ送電、何百万ものパンフレット-を記録することで、彼は始める。
彼はその後、その成功を全て指し示しつつ、枢軸国の衝撃の査定を寄せ集める。連合国側は1942年から推定する。例えば「モスレム世界の四分の三以上は枢軸国を贔屓にしている」「政府を含むエジプト人の90パーセントが、欠乏と必需品の高価格は主にユダヤ人に責任があると信じている」という「枢軸国の談話が染み込んでいた」と見出した。1944年からの報告では「実際にラジオを持っているアラブ人全員は...ベルリンに耳を傾ける」とわかる。
ナチ宣伝との矛盾に対する連合国側の躊躇もまた、枢軸国の成功を指し示す。中東人を疎遠にすることを恐れて、ユダヤ人に対して発生したジェノサイドについて、連合国側は屈辱的に沈黙を保った。ロンドン、ワシントン、モスクワで優勢なユダヤ人についての、証拠なき申し立てを論駁することに失敗した。歪曲されたコーラン解釈を論争しなかった。シオニズムに賛同することを避けた。単にナチ非難を論争することは、ユダヤ・パワーの引き立て役であるという英国、アメリカ、ロシアに関するナチの主張をただ確証することだろうと、連合国側は懸念した。1942年末に内部の米国指令は認識した。「シオニスト情熱の主題は、言及されるはずがない。(これが)東地中海での我々の戦略を危険に晒す限りは...」。
それ故に、二人の主導的な合衆国の上院議員であるオハイオ州のロバート・タフトとニューヨークのロバート・ワーグナーが1944年にパレスチナのユダヤ民族郷土に賛同する決議を提案した時、この試みをアラビア語のベルリン・ラジオは「イスラーム文明を消すため」で「コーランを根絶するため」と呼んだ。パニックになり、行政部門の全体の重みが、決議を引っ込めるよう強制されたと感じた上院議員に降りて来た。明らかに、ナチの提供は、深く中東で共鳴したのだ。
ナチ崩壊と戦争の結末の後、彼らはうまくやり続けた。ナチ将校アーウィン・ロンメルの北アフリカへと攻撃的に押す敗北は、特に百万人ほどのユダヤ人を絶滅させる最終解決という中東におけるナチの野心が、一度も施行されなかったことを意味した。しかし、ラジオとパンフレットからの憎悪とその繰り返しの年月は、グロテスクで野心的で反セム的で、イスラームに基づいたメッセージが根付いていたことを、ハーフは詳細にした。中東のナチは、告発をほぼ論破できないほど浮上したのみならず、繁栄し、祝宴を祝われもしたのだ。一例を挙げよう。1946年に、ムスリム同胞団の設立者であるハサン・アル・バンナは、ヒトラーのお気に入りのアラブ人であるハジ・アミン・エル=フサイニについて「英雄...奇跡の人」と呼んで、賞賛を惜しまなかった。バンナは良い方法のために付け加えた。「ドイツとヒトラーは行ってしまうが、アミン・エル=フサイニは闘争を継続するだろう」。エル=フサイニの高い地位を認めて、1948年にある英国将校は「アラブ世界の一人の英雄」だと描写した。
中東でナチが広めた識見は、永続する二倍の遺産を持った。第一に、欧州でのように、存在するユダヤ人に対する偏見を、遙かにもっと偏執狂的で攻撃的で殺人的なものの偏見へと転換した。ある合衆国の1944年からの諜報報告は、反ユダヤ資料が中東に向けてのドイツ宣伝の充分に半分を構成したと見積もった。ナチは、実質的に当該地域における全ての展開を、ユダヤ人のプリズムを通して見、この執着を輸出したのである。
この努力の実りは、怒り狂ったムスリムの反シオニズムの数十年後に、アラファトやアフマディーネジャードによって擬人化されたのみならず、エジプトやイラクのような国々でほぼ絶滅へと今では萎びてしまった古代ユダヤ共同体の迫害においても見られる。加えて、政府の重要な地位にあるヨハン・フォン・レーアスやアロイス・ブルンナーのようなナチの雇用がある。それ故に、ナチの遺産は、1945年以降に中東でユダヤ民族を抑圧したのだった。
第二に、イスラーム主義はナチの性質を引き受けた。識別できる二つの現象を謂われなく合成するという理由でイスラモ・ファシズムという用語を批判してきた者として、ハーフの証拠は、今やイスラーム主義における深いファシストの影響を認識するように自分を導くと、私は報告しなければならない。これは、民主主義や自由主義へのイスラーム主義者の憎悪、多政党への侮り、分裂よりも統一を好むこと、青年カルト、軍事主義、権威主義的な道徳主義、文化抑圧、狭量な経済を含む。
特異性を越えて、その影響は「なお深化し過激化し、既に存在している感情と共鳴した方法で、過激なメッセージを導入する能力」とハーフが呼ぶものへと拡大する。訓練された欧州研究の学者であるけれども、合衆国文書館でのハーフの探偵的な仕事は、もっと広く現代中東の理解にとっての顕著な貢献をしたと同時に、アラブ・イスラエル紛争やイスラーム主義に関する新たな展望を開いてきたのである。
2010年4月1日追記:ナチとイスラミストの連携を生き生きしたものにするビデオには、英語字幕付きの『ターバンと鍵十字:大ムフティとナチ』(Turban und Hakenkreuz; Der Grossmufi und die Nazis)を参照のこと。
2010年9月1日追記:ユダヤ人を殺すようムスリムに指示したのは、第二次世界大戦中のドイツ人のみではなかった。ビルケント大学の国際関係の助教授であるショーン・マクミーキンは、有害なマックス・フォン・オッペンハイム(1860-1946年)の主催で、ドイツ政府によって一文書が書き上げられたこと、そして、クリスチャンに対して対抗させる意図で、第一次大戦中にムスリム間でそれを配布したことを発見した。
コーランからの引用で意気揚々とし、血も凍るような三十ページ以上に達しているこの尋常ならぬ記録文書は、(オスマン帝国の合衆国大使ヘンリー)モーゲンソーが「膨大な聖バルトロマイのクリスチャンの虐殺で、三億人のムハンマド教徒達を失わせるカイザーの願望」と呼んだものの詳細な展望をスケッチした。「イスラーム世界が到達した堕落状態」を嘆き悲しみつつ、パンフレットは、全体的に欧州のクリスチャンに、この情勢の非を責めた。
インド、エジプト、スーダンで、「数億人のムスリム」が「神の敵で不信仰者の英国人の捕えに」落ちてしまった。マグレブ諸国は「神と使徒の敵」であるフランス人による支配の侮辱に苦しんだ。クリミアからコーカサスから中央アジアまで、ムスリムはロシアの軍靴下だった。中立的なオランダでさえ、「四千万人のムスリムは...監禁の束縛で拘束されてしまった」対象とされた。それでまた、一般的な聖戦のためではなく、トリポリでの砂漠闘士サヌシによって戦われた「小ジハード」あるいは「地元ジハード」において、イタリア人もだった。
イスラームに対する犯罪のために、欧州の不信仰者は今や死刑を受けることだろう。ムスリムはどこでも、オッペンハイムのパンフレットが宣告するように、「今日から聖戦が聖なる義務になったことと、イスラームの土地の(ムスリム・パワーの保護を享受する者達、安全を与えられてきた者達、共謀した者達以外の)不信仰者の血が免責で流されるかもしれないことを知るべきだ」と主張した。その上、「イスラームの土地を支配する不信仰者の殺害」-つまり英国、フランス、ロシア、そして恐らくオランダかイタリアの国民-が正当化されるのみならず、「密やかであれ公であれ、偉大なコーランがその言葉の中で『横切る時はいつでも、彼らを取り、殺せ』と宣言するように、聖なる義務となった」。
正義でも義務でもない場合、不信仰者を殺戮することは、ムスリムにとって充分に誘導だった。オッペンハイムは彼らに絶妙な補償を差し出した。「イスラームの土地を支配する者達のたった一人の不信仰者さえ殺す誰にとっても」ジハード者は長たらしく、熱心に「イスラーム世界で暮らしている者全員のように報償がある」と約束した。それでも、たった一人のクリスチャンを殺すことは、真のジハード戦士にとって充分ではなかった。...オッペンハイムは、各ムスリム信仰者が「支配している不信仰者、神の敵、宗教の敵の少なくとも三人か四人を殺すことを誓う」よう頼んだ-イスラーム同胞の死の報復ではなく、単に当然のこととしてである。
簡潔に言えば、ここに、ジハードという古来の教義へのドイツ貢献があった。不信仰者に対して戦った戦争行程で兵士を殺すよりも、むしろムスリムは、ある指名されたクリスチャンを、何処でも彼処でも、兵士であれ市民であれ-少なくとも「三人か四人」を殺すために、殺戮することを押しつけられたのである。
オッペンハイムの指示は、カリフに率いられた伝統的な「キャンペーンによるジハード」よりも、異なった種の聖戦に関連したと、パンフレットは説明する。オスマン軍が戦いにおける敵に関与したように、この種の聖戦は続くであろう。だが、ムスリムはまた、今もオッペンハイムが「切りつけ、殺す道具」(すなわち、剣あるいはナイフ)で協商国の官僚の暗殺を意味したものによって「個人ジハード」を配備することを余儀なくされたのである。恐らく、なおもっと重要なことは「一隊によるジハード」だった。ここで、オッペンハイムは「秘密編成」あるいはジハード・テロ細胞の広がりに言及していた。エジプト、インド、中央アジアのような場所での敵路線の背後で、これらもまた「敵の通商の継続的な全滅」に向かっても努力している一方で、殺害のために政府官僚を対象とするであろう。
(ショーン・マクミーキン(著)『ベルリン・バグダッド急行:オスマン帝国とドイツの世界権力への勧誘』(ハーヴァード大学ベルナップ出版 マサチューセッツ州ケンブリッジ 2010年 135-36ページからの引用)
マクミーキンは、オッペンハイム文書を「ジハードというドイツの暗い中心への貴重な瞥見」だと、正しく呼んでいる。