パーシー・ビッシュ・シェリー |
英国のロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792–1822年)は、好運にも私の題辞として役立つ表現の中で、二つのテーマを捉えた。「内面に平和なく、周囲に平穏なし」[1]。確かに、シェリーはこの詩『ナポリのほとりにて失意の歌』で、内面の騒動について書いたのであって、中東とイスラームに関する省察ではない。だが、以下の研究を通して繰り返されるように、内部と外部の不穏に関して、本書のキャッチフレーズとして役立つかもしれない二つの鍵となる論点の主張が正しいことを、彼もまた簡潔に示したのである。
題名『万事流転』は、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831年)の歴史哲学に関する講義に由来する。ムスリム政体を巡って、彼は述べた。「その普及の途上で、ムハンマド主義は多くの王国や王朝を建設した。この境界なき海で、継続的に前進する動きがある。確固として留まるものはない(nichts ist fest)」[2]。ほぼ二世紀後に、不安定さ、揮発性、永久の動きが、ムスリム共同体を特徴し続けている。
高名な政治分析家のサミュエル・ハンチントン(1927–2008年)は、1996年にある句を造語した。この現象の外部次元を捉える「イスラーム流血の国境」[3]、つまり、イベリア半島のクリスチャンからバリのヒンドゥ教徒までの非ムスリムに対して、ムスリムが行う止むことなき戦争である。合わせて、この三つのフレーズが、1989年から2014年までの四分の一世紀以上で発表した、以下の章のトピックをカバーしている。
この期間中の私の探究は、史的観点から理解されたものとして、中東と政治におけるイスラームの役割に集中してきた。本書は五区分を含む。
I. アラブ・イスラエル紛争
アラブ・イスラエル紛争は、過去の世紀で、中東政治を巡って最も集中して精査され、同時に単独の最も永続する話題である。外交的には、初期に欧州の国政術に付きまとった、オスマン帝国の将来に関する東方問題に擬えられる。両者とも一世紀以上の間、持ちこたえ、地域的、国際的な当事者の大きな運試しに従事し、不相応な量の留意を消耗した。アメリカ外交政策への二つの最も重要な貢献の一つ(他方はイスラーム主義の扱い方)として、アラブ・イスラエル紛争の解決に関する、私の識見を考慮する。
第一章「和平プロセスか、戦争プロセスか?」は、アラブ・イスラエル紛争を解決するために必要とされた三点を論ずる。「過去のイスラエル・パレスチナ交渉は失敗してきた。その失敗は、戦争回避に関するイスラエルの幻想の結果であった。そして、交渉に先立つには、ワシントンはエルサレムを促すべきである。その代わりに、勝利のために戦う、もっと初期のもっと成功する政策に戻る」ことの認識である。勝利は鍵概念である。一方が明確な勝利を勝ち取る時のみ、戦争は終結できる。そして、その側はイスラエルでなければならない。このアプローチは、少なくとも無関係、最悪でも逆効果だとして、1973年に101キロメートルで始まった外交を却下する。
ユダヤ人のエルサレム要求はよく知られているが、その対抗である「ムスリムのエルサレム要求」はどうか? 史的論評が示唆するのは、ムスリムは、彼らにとって政治的に重要性を持つ時のみ、その都市に価値を置き、そうではない時、興味を失うことだ。「このパターンは、七世紀初期の預言者ムハンマドの人生の間、初めて浮上した。それ以来、それは五つの出来事で繰り返されてきた。七世紀末、十二世紀の対十字軍、十三世紀の十字軍、英国支配時代(1917–48年)、そしてイスラエルが1967年にその都市を取ってからである」。それほど何世紀も巡る一貫性と、それほど多くの様々な状況下で、エルサレムがイスラームにおいて宗教的重要性を持つという断言に挑戦する。
顕著な対照が、イスラエルに関する大半のパレスチナ談話の悪質さの間で存在する。例えば、ナチのドイツに擬えたり、イスラエルに関して、パレスチナ人が生きるための実際の場だとする、全く反対で、素面で、識別できる声明である。私は後者に焦点を当てる。「イスラエルの地獄はアラファトの天国よりもましだ」。パート1は、イスラエル支配下に留まるパレスチナ人の好みを論評し、パート2は、アラブ体制とは対照的に、イスラエルへの賞賛を含む。イスラエルに友好的なこれらのはっきりした声明は、ユダヤ人国家にとって策術的な防御手段以上を差し出す。アラブ・イスラエル紛争全体にとって、解決のための潜在的な基礎を提供する。というのは、もしムスリムのアラビア語話者が、それによって最も影響され、イスラエルについて物知りであるならば、その少なからぬ美徳を理解し、コミュニケーションを取るからである。耳を劈くような同僚の毒性が、ある日、顧客なしにそれ自身を見出すかもしれないからである。
「パレスチナを発見したアラブ人の年」で、私は論じる。広まった信念とは反対に、ヨルダン川と地中海の間のパレスチナ国家という案は、陳腐な古代に遡るのではなく、むしろ、「その起源は、驚異的な正確さで、単一の年、1920年に辿れる。1920年1月、パレスチナ人の民族主義はほとんど存在しなかった。重要なその年の12月までに生まれたのだった」。一年という空間におけるこの変化は、「幾つかの永続するテーマ、急激な変化にとって、このような潜在性と西洋パワーの主要な役割」を予示し、我々の時代の「最も広く支持されたが、恐らくは最も成功しない民族主義者の原因」への洞察を提供しつつ、一世紀近く前に、パレスチナ民族運動にとって多くの含みがあったのだった。
「鏡のイメージ:どのようにPLOがシオニズムを物真似するか」は、シオニズムの'Doppelgänger'としてのパレスチナ経歴が続く。ドイツ語の意味は、大雑把に「邪悪の双子」である。シオニスト運動は民族主義運動の中でも特殊だった(顕著なところでは、イシューヴという「形成中の国家」の樹立によって、1948年に公式国家のための道を準備した、非公式の政府がある)。多くの意味で、パレスチナ運動は、これらの特徴を物真似したのだ。(PLOは「形成中の国家」である。) 例えば、パレスチナ人のエルサレムの中心性の強調、ヤーセル・アラファトのグローバルな地位、そして、外国支援への依存である。「シオニストのインスピレーションへの参照と共にのみ、PLOは理解され得る。模倣こそが、パレスチナ解放機構の将来の行程に重要な洞察を差し出すのだ」と私は論じた。
「ダマスカスへの道:ネタニヤフが1998年に逸しそうになったもの」は、1998年8月と9月のイスラエル・シリア交渉に関するスクープを含む。完全に秘密だったが、これらの談話は、あり得ないペアのアマチュアのアメリカ人-ビジネスマンと元大使ロナルド・ラウダーと『中東洞察』というジャーナルの編集者ジョージ・ナダー-によってなされた。彼らは、ある合意に近づいたが、イスラエルの国防大臣と外務大臣によって最終的に妨害された。その異議は、ある取引のため、ビンヤミン・ネタニヤフ首相の希望を覆したのである。2011年以来、シリアで起こってきたことを考慮すれば、その異議が蔓延ったイスラエルは、非常に幸運である。アラブ・イスラエル外交、イスラエル政治、当時も今もイスラエルの政府を率いる男についての洞察のために、この事例研究は関心を維持している。
Ⅱ. 中東政治
「中東の陰謀論を理解する」は、陰謀心性の性質を精査することによって、拡大した主題を紹介する。イラクとイランの事例研究で結論したことは、それを持つ人々や指導者達の騙されやすさである。この章は、どのように諸政府が陰謀論という非合理な世界に応答すべきかを問う、次章のための文脈を提供する。どのようにこれらが操作するのか説明するよう、中央情報局が私に委託した。後に「中東の陰謀論を扱って」として、私は発表した。ワシントンにその傾向があるように、陰謀主義という現象を無視することは、中東の鍵となる諸側面を無視することだと、私は論じる。それ故に、この思考型を理解するために、政府当局は真剣な留意と寛大な資源を献げるべきだ。それらに心を留めることを越えて、当該地域の陰謀心性に対する特別な気づきで政策を展開することを、私は提案する。順にこれは、興味深い問いへと導く。合衆国政府は、陰謀主義によって提示された傷つきやすさに利点を取るべきか、あるいは、この危険な態度を縮小するために働くべきか?答えは、自明でない。
シリア内戦が爆発する前、地域専門家は一般に、支配者のアラウィ派のアイデンティティがシリアの地を定義するものだと考え、地理的あるいはイデオロギー的な特徴を強調することをより好んで、嘲笑した。私は異議を唱え、その代わりに、シリアの多数派スンニー共同体とアラウィ派の緊張に集中した。拙論の目玉は、1989年の分析「シリアで権力を捕獲したアラウィ派」に現れた。アラウィ派と、1920年までのシリア社会における見下げられた場の背景を、私は提供した。その後、次の50年という行程を巡って、1970年にハフェズ・アル・アサドの権力奪取で頂点を極めた、劇的かつ予期しなかった彼らの上昇を追跡した。この分析の最も印象的な側面は、アラウィ派がムスリムではないことである。本来的に何世紀も引き続く、スンニー派とのひどい関係へと導いたのである。二つのアラウィ派の捕獲に関する19世紀半ばの観察では、積年の特徴は「情熱が興奮するか、疑念が上る時、略奪し、流血さえすることを考えると、荒っぽく、幾ばくか獰猛な民族である」。そして、アラウィ社会は「地上で完璧な地獄である」。西洋人は、1966年から2011年までの45年間のアラウィ支配を通して、現代中東の最も凶暴な内戦で、恐ろしい突発が噴出するのを見るだけで、これらの緊張に専ら無関心なままだった。
政府改革に関する下院委員会への証言として最初に提出された「合衆国とサウジの関係のスキャンダル」は、エネルギー、安全、宗教、王国でのアメリカ人の扱いの領域における、公私両方のアメリカの追従性パターンを記述する。次から次へと事例は提示する。サウジの意志と対決する時、どれほど弱くアメリカ側が振る舞うか。通常の論理とは反対に、リヤドはこの双務関係の期間を設定する。「両サイドが、どちらが大権力で、どちらが小さなものかを忘れて」変化が起こったのだ。この章は、その主張を記録し、説明し、問題を修正するための特別な政策勧告を差し出す。
ニザル・ハムドーン |
「ニザル・ハムドーン(1944-2003年)の訃報記事」を、私は二つの理由で書いた。第一に、1984年から87年までワシントンでサッダーム・フセインの特命全権大使を彼が務めた時、私は全く彼のような外交官に会ったことがなかった。二国間の十全外交関係がまさに復帰した時、イラク・イラン戦争が絶頂に達した時、ハムドーンはアメリカ支援を展開するという仕事を真剣に受け取り、極悪非道の暴君のために働いた時でさえ、最も印象的にそうしたのである。第二に、彼は2003年5月に連絡をくれた。サッダーム崩壊後の数ヶ月後、彼自身の死のちょうど数週間前のことだった。準備しておいた集中質問を彼に何とか問うことはしなかったが、ニューヨーク市のスターバックスで彼と座っている間、私は幾つかの価値ある情報を本当に得たのだ。その幾つかを、この訃報記事で記録した。
エジプトの大統領アブデル・ファッター・アル=シッシは、2014年6月に就任したのだが、不可解であり続けている。彼は根本的にホスニー・ムバーラクと違うのか?あるいは、長期独裁者の若年のクローンに過ぎないのか?「エジプトの新大統領が本当に考えていること」に対する答えを決定するために、2006年に合衆国でシッシが一年を過ごした間に書かれた学生論文を、私は見る。結局のところ、「59歳でもまだ、8600万人の国を支配する時でさえ、自分が何者で、何を考えているかを発見しようとしている、進行中の仕事であるとわかった。実地訓練は文字通り、彼の事例なのである」。これは、彼が影響され得ることを意味するが、そのことは外国政府に機会を提供する。
Ⅲ. 現代生活におけるイスラーム
最後の三つの区分は、他の中心的な私の関心事を取り上げる。公共生活におけるイスラームの役割である。ここで二つのテーマが繰り返される。ムスリム生活の時と場所に関わらず、似たようなリズムを与えつつ、ムスリム生活の上にイスラーム法の適用という夢がぼんやりと現れることを認識し、ムスリム経験を考慮する必要性が、啓典の静的な権威を単に当然のことと決めてかかるよりも、むしろ、時が経つにつれて諸変化に気づくことを意味する。
「イスラームは現在、後進的で攻撃的で暴力的な勢力を体現している。イスラームはこの方法であり続けなければならないのか?それとも、改革されて穏健で現代的で良き隣人になれるだろうか?」増加しつつある能弁な分析家の集団が、その特徴は不変なのでムスリム信仰は前進できない、と答えるのに対して、より良い方向への変化は可能であると、「イスラームは改革できるか?」で私は論じる。その中で、イスラームが本質的な不変の核を持たないことを論争する。ムスリムと非ムスリムは同様に、二百年前まではイスラームを融通の利く信仰にした「中世の統合」を築くことによって、宗教改革に向けて働くべきだ。
近代化に必要だったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン |
モダンになることは西洋を競って真似ることだと論じる人々と、近代性が存在するために代替のルートがあると述べて、それに同意しない人々の間で、大討論が存在する。「近代化にはベートーヴェンが必要」という題が含意するように、私は西洋化の重要性の側に降り立っている。充分にモダンであることは「西洋音楽を習得するという意味だ。西洋音楽の能力は、事実、国の富や権力と平行関係にある」と私は思う。二つの文明、ムスリムと日本人を見ることによって、私はこの点を立証する。「ムスリムが西洋音楽の受容を躊躇することは、近代化に伴う一般的な困難を予示する。クラシックからジャズまでのすべての型を日本人が習得したことは、強い円から制度上の安定までのすべてを説明するのに役立つ」。ベートーヴェンの音楽は、それ自体、機能的ではないが、それを習得しない限り、近代性の内部聖域に入れないのである。
イスラエルのヘルツリヤのテロ対策研究所で、「テロにおけるイスラームの役割を否定して:なぜ?」を私は演説した。その中で、好奇あるパターンを記録し、説明する。(政治家、警察、報道、教授職を含める)西洋の体制派は、さもなければ、他の誰もが知っているとしても、イスラーム主義が主導的なグローバルなテロ原因を体現することを、定期的に否認する。9.11以来、イスラームの名における、日に約五件の襲撃にも関わらず、イスラーム動機はめったに気づかれない。婉曲表現、臆病、政治的公正さ、宥和の全てが、このパターンに貢献する一方で、他の二つの全くもっともな理由が最重要である、と私は論じる。ムスリムに礼を失することによって、さらなるトラブルさえ作り出したくないことがある。そして、どのように世俗的な西洋社会が現在命じられているかから離れて、主要な移行をイスラームが含むことを暗示しているという、広まった気づきである。イスラーム主義者のテロの多数の負傷者が実質的に増加しなければ、現行の否認状態に対する変化はないと、私は予測する。
サルマン・ラシュディに対するアヤトッラー・ホメイニーの1989年の勅令は、近年で最もオリジナルで重要な結果となった政治展開の一つとして、傑出している。国際的な国境と樹立された自由を無視して、『悪魔の詩』と呼ばれた小説の著者と、「出版に関与した(承知の上で)全員に」、イランの専制君主は死刑を宣告した。品行方正な西洋人がこの絶対命令に対して抵抗を差し出した反面、「ラシュディ規則の優勢」では、時の経過が、特にリベラル派の意志を弱体化させてきたと、私は論じる。なぜならば、今「西洋文明の防衛者は、イスラーム主義者のみならず、彼らをいたぶり、同盟する左派である多文化主義者とも戦わなければならないからだ」。これは、西洋で伝統的な自由を継続して維持するには、ひどい前兆を示す。
Ⅳ. 合衆国におけるイスラーム
社会学的な調査「ムスリム移民:アメリカのイスラームの顔」で、故ハリッド・デュランと私は、幅広い話題をカバーした。人口動態、地理、歴史、動機、宗教、社会経済学、子ども、性、機関である。我々は結論する。改宗者ではなく移民が、合衆国における重要なムスリム主唱者である。はっきりとしたアメリカのイスラーム型の発展は、大きな挑戦であろう。「合衆国とイスラームの両方は、恐らくは相互の遭遇によって深く影響されるはずである」。これらが(中国文明と並んで)世界で最も勢いある二つの文化勢力であることは、交流の結果が予測不可能であるばかりではなく、非常に重大である。
最終章の壮大な強い流れとは対照的に、シャロン・チャダと書いた「CAIR:体制派を馬鹿にするイスラーム主義者」は、アメリカ・イスラーム関係協議会の詳細を調べている。最も攻撃的で、最も効果的だとされるアメリカのイスラーム主義集団である。我々のすっぱ抜きは、CAIRのテロとの関連が、対テロを困った位置に追い込む努力であると同時に、非ムスリムの過激主義者との政治的な結びつき、資金に関する不規則性、その本当の目標、萎縮への依存を暴いている。チャダと私は結論する。この2006年の分析は「体制派が最終的にCAIRを認識し、あるがままのため主流の合法性を否認するまでに、どのぐらいかかるだろうか?」と問うている。9年後、その認識はまだ協議される必要があり、我々のデータは、その妥当性を保持する。
「ムスリムとしてのバラック・オバマの子ども時代」で、バラック・フセイン・オバマがムスリムとして生まれ育ったと私は立証し、このために、近年からの確証ある証拠や、ムスリムとしての彼の認識を巡る調査を提供し、この欺瞞が、オバマの他の自伝的フィクションをもっと大きな文脈の中に置く。要するに、記録はオバマが「ムスリム男性の系統で、ムスリム名を与えられ、ムスリムとしてインドネシアの二つの学校に登録された子ども」であることを指し示す。さらに「コーランを宗教の授業で読み、イスラームの信仰告白を今でも唱え、仲間の信仰者のようにムスリム聴衆に話しかける。非実践のムスリムの父、ムスリムの養父、ムスリム環境で4年間暮らした間、彼は他人によってもムスリムと見なされ、自分自身でも見なした」のである。この欺瞞が、深い人格欠陥を指し示す。
Ⅴ. 個人とアメリカのイスラーム
合衆国のイスラーム主義の促進者はムスリムと非ムスリムの両方だが、アメリカのイスラームの将来を形成する、大きな重要性を持つ。彼らは、何とか過激な解釈者を優勢に保持しようとするのだろうか?あるいは、他のムスリムの信仰の再要求として地盤を失うのだろうか?
報道は、カリフォルニア大学ロサンジェルス校のエジプト生まれの法学教授が穏健だと物惜しみなく賞賛するが、私はそうではないと感じた。「お忍びのイスラーム主義者:ハレッド・アボウ・エル・ファドル」で、メディアの秘蔵っ子が実はイスラーム主義者であり、潜在的な批評家を誤導しているために、なおさら一層、危険なのだと、私は立証する。英語で利用可能な長い参考文献表にも拘わらず、この二枚舌で彼がやり通したことは、「穏健だと自己提示するイスラーム主義者の識別方法という難題」と、誰かを改革者として聖別する前に真剣な背景作業をする必要性を、指し示す。「適切な調査に失敗して、イスラーム主義者は西洋の諸機関を押し分けて行き、究極的には転覆するだろう」。さらに彼のような人が何人、その制度を掘り進んでいるだろうか?
「アメリカの法廷を通してジハードを遂行:イクバル・ユヌス」。多くのイスラーム主義組織と密接につながっている地域のワシントンD.C.で、パキスタン由来の核物理学者がどのように暮らしているかを語る。合衆国政府と私的な対テロ研究者のリタ・カッツの両方に対して、法的挑戦を通して対テロ作業を妨害したのだ。彼の法的事例は、決して成功するチャンスがなく、そして事実、議長を務めている裁判官によって先入観だと却下されたものの、言うまでもなく、一般の同情を勝ち取るために台無しにすることから落ち穂拾いの情報作業まで、ユヌスと多数の同僚に利益をもたらした。応答として、人を食い物にするこのような法的策術を防止するために、法制度における変化を私は要求する。
第三の個人と私の関連は、露骨にテキサスで連邦法廷に出頭することを私に書簡で召喚したことで始まった。その発狂した法的行程をより耐えられるものにするために、彼について私が発見したことを公表する意図で、告訴人をリサーチした。しかしながら、寝返った彼の側の大切な同盟が重要な情報を持ってくるまで、私は延期した。その結果は、「テキサスのパレスチナ人:リアド・ハマド」という「暴君的な政治と過激なイデオロギーに吹き込まれた悪習をもたらす移民」の訓戒物語である。
最後に、私はイスラミストの旅連れを見る。「過激なイスラームにとっての左派:デニス・クシニッチ」における、クリーブランド出身の8期の議員である。2004年の大統領選の努力の中で、コーランをオフィスに保持することを主張し、アッラーフ・アクバルを宣言するよう聴衆を目覚めさせ、ムスリム組織を訪問しつつ、ムスリム票にアピールして、クシニッチは多くの先行を設定した。彼のキャンペーン旅行の間、「2004年にイスラーム主義者の投票を求めたことは、ホワイト・ハウスに至るための確実な道ではなかった」ものの、彼の優しいイスラミストの扱いは、他の民主党の政治家が恐らくは採用するであろう、革新的な方法を差し出した。
シアトルのモスクを訪問中のデニス・クシニッチ |
© Transaction Publishers.
[1]パーシー・ビッシュ・シェリー『西風の賦』(ドーヴァー新報社 ニューヨーク2012年)p.15。著述を編集する寛大な助けのみならず、この詩を指摘してくれたアンネ・マンデルバウムさんに感謝する。
[2] J.シブリーによる英訳『歴史哲学講義』(ジョージ・ベル&サンズ社 ロンドン1902年)p.454。ドイツ語では"Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte"の'Viele Reiche und Dynastien hat der Mohammedanismus bei seiner Ausbreitung begründet. Auf diesem unendlichen Meere wird es immer weiter, nichts ist fest.'(シュルンプ社 フランクフルト・アムマイン1970年)p.431。
[3]サミュエル・P・ハンチントン『文明の衝突と世界秩序の再創造』(サイモン&シュスター社 ニューヨーク 1996年)p.254。
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