[注:(1) 以下の二本のトランスクリプトは、二つのビデオに対応している。最初はパイプス氏の導入コメントを含んでいるが、少し文体を編集している。二番目は、オランダのヘルト・ウィルダースとのやり取りを含む。(2) 行事はデンマーク議会の建物で行われた。(3) 導入講話の第四段落の説明について、パイプス氏は、特にウィルダース、ロバート・レデケル、ラース・ヴィルクス、クルト・ヴェステルゴー、ラース・ヘデゴーに言及した。なぜならば、全員が出席しており、その行事で演説したからである。実際のところ、六人のパネリストの中で、パイプス氏は警察保護下で暮らしていない唯一人だった。]
導入講話
どうもありがとうございます。ここにいることは、大きな喜びでございます。
2004年11月2日を思い出すことから始めさせてください。たまたま合衆国では選挙日でした。ジョージ・ブッシュがジョン・ケリーを破った時で、非常にわくわくする日でした。私はカリフォルニアにいて、午前6時頃、この殺害を知らせてくれた友人によって、目が覚めました。その後、アル・ジャジーラに行き、テオ・ファン・ゴッホが従事していた挑発のために、この行為を正当化していた一人のイスラミストと討論しました。それは、とても忘れられない、恐ろしい日でした。
私がしたいことは、あのひどい日以降の10年のみならず、『悪魔の詩』をサルマン・ラシュディが出版して以来の25年もです。あの年を皮切りに、何度も何度も繰り返してきた一つのパターンがあったのです。
最初は1989年で、サルマン・ラシュディと『悪魔の詩』でした。2004年には、テオ・ファン・ゴッホの殺害とヘルト・ウィルダース保護が来ました。2006年には、ロバート・レデケルが隠れなければなりませんでした。2007年には、ラース・ヴィルクスが同様になりました。クルト・ウェスタゴーが2010年に攻撃されました。ラース・ヘデゴーが2013年に攻撃されました。同じことが、この部屋にいない他の多くの人々に起こりました。
これらの攻撃が発生すると、何度も何度も、我々は一つのパターンを見ます。まず、西洋人がイスラームに批判的なことを言ったりしたりし、その後、ムスリムが、言葉による辱め、激怒、撤回要求、訴訟や暴力の脅し、実際の暴力で応答します。最終的に、西洋人は躊躇し、言葉を濁し、討論し、結局は折れるのです。
二点論じます。第一に、これは本当に究極的に、自由言論に関してではありません。えぇ、戦場は自由言論ですが、問題は西洋文明です。自由言論は、戦場に他なりません。問題は、西洋文明が生き延びるかどうかなのです。第二に、ラシュディ規則と私が呼ぶもののために、イスラームに関して、批判的で挑発的なことを言う西洋人の権利が、過去25年で低下してきたことです。
「ラシュディ規則」によって、1989年2月14日のアヤトッラー・ホメイニ-の勅令に私は言及します。パキスタン人達がラシュディの小説『悪魔の詩』の出版に対して暴力で応答したのを、イランの最高指導者がテレビで見た時です。見たものによって激怒し、ホメイニーはラシュディの命に対して勅令を発しました。
一政府の長が、別の国で暮らしている一小説家の処刑を呼びかけるとは、誰もそれまで、このようなことをこれっぽっちもしたことがなかったので、この行為は先例なきものでした。これは、イランの政府官僚からラシュディ自身まで、誰をも驚かせました。飛行機から落ちてくる人々が生き残り、話す動物など、魔術的なリアリスト小説というものが、イランの支配者の激怒を招くかもしれないと、誰も想像しなかったのです。誰も、これを予期しませんでした。
この勅令は、イタリアやノルウェーや合衆国の書店、そして『悪魔の詩』の数ヶ国の翻訳者への物理的な攻撃につながりました。最大の暴力はトルコで、翻訳者への攻撃も含めて、36名が殺害されました。ムスリム諸国での他の暴力は、20名への死へと導きました。
ホメイニー勅令は、四つの異なった要素を含みます。
まず最も重要なことは、ムハンマドを巡るラシュディの描写に気を悪くすることで、「イスラームや預言者やコーランへのラシュディの反対」と呼ぶものの中で、ホメイニーは、死の宣告の呼びかけなしには議論されないかもしれない幅広い聖なる話題を、言葉で生き生きと描写したのです。
第二に、「その内容に気づいている出版に関与した全ての人々」を彼は対象にしました。そして、こうすることによって、彼はラシュディを攻撃するのみならず、これと幾ばくか関与を持った、文化エスタブリッシュメント、編集者、広告主、頒布者その他の皆を攻撃すると言ったのです。ですから、一人のみならず、文化活動の全体もなのです。
第三に、ラシュディの処刑を命ずることによって、「他の誰もムスリムの神聖な義務をあえて中傷しないため」というホメイニーの目的が、一人の著述家を罰することのみならず、そのような中傷やあざけりを将来防ぐことも明確にしました。
最終的に、ラシュディ自身を処刑することが不可能な人々に「報告せよ」と要求することによって、世界中の全ムスリムがイスラームの価値を遵守するために献身的であるよう、非公式な諜報ネットワークの一部になり、潜在的に攻撃するよう、ホメイニーは呼びかけました。
それで、四つの特徴があります。特定の主題に触れるな。その政策に関与した誰をも傷つけられるであろう。これは、二度と起こるべきではない。そして、非公式なムスリム・ネットワークがあります。これらがラシュディ規則なのです。 それ以来、何度も何度も適用されてきました。
今、二点、申し上げることがあります。第一に、西洋人は一般的に、自己表現の権利への挑戦として、ラシュディ規則を認識します。そして実に、それはそうなのです。ですが、イスラーム主義者の現在の大騒ぎのパターンは、もっと深い目標を達成するために存在します。必ずしも明確に表現されてはいませんが、イスラーム批判を禁止することを充分に超えています。
第一の目標は、イスラームの優越的な地位を樹立することです。他宗教を批判することはできるかもしれませんが、イスラーム批判はしてはなりません。アイデアの自由市場は、どの他宗教にも存在します。例えば、それらに批判的な演劇、オペラ、書籍、小説を持つでしょうし、持つことができますが、イスラームに関しては、ありません。イスラームに関するアイデアの自由市場はないのです。
第二に、ムスリムは優越しており、西洋人あるいは不信仰者(kafirs)は劣っています。イスラーム主義者は定期的に、西洋人にとって不快なことをしたり言ったりします。それは大丈夫なのですが、その反対はダメです。もし、ムスリム出版物で、ある種の漫画を見るならば、ユダヤ教、キリスト教、ヒンドゥ教、仏教にとっての言語道断な中傷を見出すでしょう。それは素晴らしいのですが、その逆はだめなのです。
頂点のムスリムから下位の非ムスリムというこの不均衡が継続されるならば、ズィンミーと呼ばれる地位に到達します。これは、経典の民、特にユダヤ人とクリスチャンに、ムスリム支配下で宗教実践を許すものですが、多くの制約の影響下にあります。順に、ズィンミーの地位を樹立することは、第三の、最終的なラシュディ規則の野心へと導きます。ちょうどラース・ヘデゴーが語っていた、イスラーム法のシャリーアを樹立することです。
シャリーア法は、私的公的生活の両方を規制します。私的次元では、個人的な事柄、体の清潔さ、性行為、出産、家族関係、衣服、食事を著しく含みます。公領域では、シャリーア法は、社会関係、商業取引、犯罪罰則、少数派の地位、奴隷制、法の本質、司法組織、納税、戦闘を規制します。要するに、トイレのエチケットから戦闘行為までの全てを含むのです。
ラースが指摘したように、シャリーア法は、西洋文明の最も深い前提と矛盾します。男女、ムスリムと非ムスリムの間、所有者と奴隷の間の不平等な関係は、我々の文明にとって、貴重で本来備わっている平等性や権利と和解できません。ハーレムは、一夫一婦制と和解できません。イスラーム至上主義は、信教の自由と矛盾し、神の主権は民主主義を許せません。
イスラーム主義者が、シャリーア法秩序に到達すべきならば、彼らは実際上、文明をイスラーム文明で置き換えることでしょう。イスラーム議論を閉鎖することは、この目的へ逆に道を開きます。イスラームに関する自由言論を保持することは、イスラーム秩序のペテンに対する批判的な防衛を体現するのです。
つまり、我々の文明を保つことは、開かれたイスラーム議論を要求するのです。 イスラーム主義者達は、これを閉鎖したがっています。なぜならば、彼らは我々の文明を閉じたがっているからです。それで、ただ表現の自由に関してのみならず、ずっとずっと大きなものに関しても、なのです。
私の最後の論点は、1989年以来、何が起こったかについてです。回顧すれば、知識人や政治家達の間での1989年のラシュディ勅令の応答、危険に晒された小説家に与えた支援は、特に左派で顕著でした。右派知識人よりも左派知識人は、ラシュディ側に立つ傾向がもっと強くありました。部分的には、自己定義ではラシュディが左派の人だったからです。
ただ知識人のみならず、当時、社会主義者のフランス大統領だったフランソワ・ミッテランも、ラシュディへの脅威を「絶対的な邪悪」と呼びました。ドイツの緑の党は、イランとのあらゆる経済合意を破ることを求めました。欧州連合の決議は、ラシュディを「文明と人間の価値の保持を保証するためのシグナル」として支持しました。合衆国上院は満場一致で、「強迫や暴力の恐れなしに、誰もが本を書き、出版し、売り、買い、読む権利を保護する」関与を宣言した決議を通しました。
時代は変わりました。ポール・バーマンという名のアメリカ人知識人による最近の『知識人の飛翔』という本は、「イスラーム主義者の識見や暴力と取っ組み合う努力において、ひどくへまをやっている」ために、仲間のリベラル派を激しく非難しています。要するに、左派はイスラーム主義に関して思い違いをしているのです。
1989年以来の自由言論におけるあらゆる実践にとって、デンマークのムハンマド戯画のような執筆家、出版社、イラストレーターの無数の群れが、自分を表現することを避けてきました。「イスラーム主題に近寄りたくない」と言う芸術家、脚本家、著述家、小説家の事例を、次から次へと出せるかもしれません。
1989年以来の変化は、主に三つの「イズム」の増大の結果です。三つの新たな政治勢力です。多文化主義、左派ファシズム、そしてイスラーム主義です。
多文化主義の衝動は、何ら格別な生活様式、信条制度、政治哲学を、他のどんなものよりもましだとか、もっと悪いと考えません。今晩のディナーをどうしよう、和食かイタリアンにしようか、という議論を思い出させます。両方とも、とても素晴らしく、両方とも、とてもおいしく、本当には相違がない、ですよね?そうですね、それが、ディナーよりももっとずっと深い事柄をどのように多文化主義者が見るかなのです。それは、本当に相違がありません。
環境主義あるいは魔女崇拝(Wiccism)の間に、本当の相違はありません。それらは、ユダヤ・キリスト教文明にとって完璧に有効な代替です。なぜ、他のどんなものよりも何ら優越性の主張を持たない時、その生活様式のために戦うのでしょうか?
第二は、左派ファシズムです。それが言っていることは、西洋文明をよく見るならば、実際に、他のどれよりももっと悪いとわかります。西洋の人種差別主義、帝国主義、ファシズムの組み合わせは、非西洋人にとって、暮らしをひどくしてきました。ベネズエラの故ユーゴ・チャベスのような人物に導かれて、この左派ファシスト運動は、西洋権力を帝国と呼ぶのですが、その主要な無礼者の合衆国とイスラエルと共に、世界の主要な脅威だと見なします。
そして最後に、もちろん、イスラーム主義、過激なイスラーム衝動があります。1989年以来、膨大に増大してきたシャリーア法の適用です。見渡せば、ISIS、モハメド・モルシ、レジェップ・タイイップ・エルドアン、そして他のこのような現象が、どのように今日の見出しを占めてきたかに気づきます。ムスリム多数派諸国の中を見る度に、イスラーム主義者のうねりは進行中です。世界中で、最も強力な、過激なユートピア主義の型になってきました。ファシズムや共産主義はほとんど見られなくなっていますが、イスラーム主義は、ほぼどこにでもあります。
それは、市民社会を威圧し、多くの政府に挑戦し、他者を乗っ取りつつ、左派との同盟関係を形成しています。西洋で足掛かりを樹立してきました。そして、国際機構でその議題項目を前進させています。例えば国連は、諸宗教の名誉毀損、換言すれば、イスラームの名誉毀損に反対する決議を通過させてしまいました。
西洋の弱さという陰は、つまり、結論として、イスラーム主義者の断言という陽と出会ってきました。西洋文明の防衛者は、イスラーム主義者のみならず、彼らを可能にし、彼らと同盟する左派である多文化主義者とも戦わなければなりません。
ダニエル・パイプスとヘルト・ウィルダースのイスラーム議論
ダニエル・パイプス:ご存じのように(ヘルトさん)、勇気と明晰な分析を私は称賛しております。でも、ご存じのように、おっしゃっていることで異議もあります。穏健なイスラームというものは決してないだろう、とおっしゃいました。どのようにそれがわかるのか、私にはわかりません。イスラームは変化してきました。私は歴史家で、歴史家というものは、時を経た変化を研究します。人間の全ては、時を経て変化します。45年前の1969年に、私はイスラーム研究を取り上げました。イスラームは、1969年よりも非常に異なり、ずっと悪化しています。もし、それが悪くなれるのならば、ましにもなれます。イスラームは変化します。私は、費やすことができ―それに関してサミットが持てるかもしれません。どのようにイスラームが変化してきたか、申しましょう。ましになれないと、どのように知るのですか?穏健なイスラームというものがあり得ないと、どのように知るのですか?なぜ、この可能性を前もって拒絶なさっているのですか?ラースさんは懐疑的です。私は受け入れています。でも、「絶対に、いいえ、それは起こり得ません」とおっしゃっています。
ヘルト・ウィルダース:そうですね、ダニエルさんと私は、長い間、お互いを知っています。尊敬し合っているし、以前、何度も議論をしてきました。時々、我々は意見の相違に同意できます。しかし、本当に、イスラームがいずれ変化するだろうと、私は信じていないのです。イスラームは言葉です。コーランを見なさい。コーランは、ハディースやムハンマドの行跡(Sira)と共に、コーランは、道、イスラームの基盤なのです。そして、コーランは、ムスリムが信じているのは、神の言葉です。変化できないのです。そしてもちろん、人々は変わりますよ、ダニエルさん。私はそれを信じます。私が信じないのは、イスラームが過去に変化してきたということです。それがもっと悪くなった時、そして実際にそうだったのですが、日毎に悪化しています。なぜならば、人々が変化したからです。そして、不幸にも人々は悪い方に変化しました。より良い方ではありません。だから、えぇ、私は今日でさえも、毎秒悪化していると信じています。イスラーム国を見なさい。お宅の国や私の国で何が起こっているかを見なさい。それは変わらないでしょう。でも人々は変われます。私は神学者ではありません。私は信じているのですが、もう一度、なぜ人々が、なぜイスラームを信じる人々が、私の関心事ではないのか。でも、私は政治家です。議員です。それで、以前も申し上げたように申しますが、彼らが変わるか変わらないかに、私は興味がないのです。私は、人々には関心があります。そして、もし我々の価値を信奉するならば、歓迎されますし、もし我々の価値を信奉しないならば、行かなければなりません。去らなければなりません。変わるか変わらないか、私は構いません。私の社会の人々を世話しているのです。コペンハーゲンやアムステルダムの女性達が、街道を自由に歩くだろうか?または、虐められるだろうか?子ども達は、街道を自由に歩くだろうか?アムステルダムで同性愛者がモロッコ青年に殴られるだろうか否か?これが、我々が答えるべき問いですし、もしその(答えが)「否」ならば、我々は彼らを送還し、この攻撃を持つ国々からの移民を止めるべきです。それが、私が答えたい唯一の問いなのです。
司会者:ダニエルさん、それにコメントは?
ダニエル・パイプス:えぇ、我々は、これを十年以上(訳者注:字幕とトランスクリプトの「数十年」は誤り)論じてきました。そして、受け入れられない活動と変化している人々に、私は同意します。それで、我々はそのことに同意しています。まだ、イスラームや穏健なイスラームができると冒頭の挨拶で非常に明確になさいました―決して穏健なイスラームというものはないだろう、と。それで、人々の行動は脇に置きましょう。なぜ穏健なイスラームというものがあり得ないのですか?それは、コーランは同じであり続けますが、その解釈は変わります。一例を出させてください。コーランには短いフレーズ'la ikraha fi'd-din'があります。意味は「宗教に強制があるべきではない」です。これは、千年紀以上、その理解やその解釈において変化してきたフレーズです。私は、この用語が意味するものの異なった歴史的理解を一ダースほど示した論考文を書きました。最も硬直化して限定的なものから、最もリベラルなものまでです。さて、コーランの各側面は、この同じ方法で取り扱われることができます。例えば、コーランにおける矛盾です。今そうであるように、受け入れられるものはより厳しいものであり、拒絶されるものは、あまり厳しくないものだという傾向です。それは変わり得ます。これは人間です。これは神性ではないのです。これはコーランの解釈です。コーランの解釈は変化してきたし、変化しています。そして、より悪い方へ、もっと厳しい方へと変化してきました。なぜ、ましな変化というものの可能性を認めないのですか?
ヘルト・ウィルダース:そうですね、ご存じのように、コーランは、イスラームでは「廃棄」と呼ばれる規則があります。そして、廃棄はコーランの最新の節が有効で、以前に書かれた全てを無効にします。それが、イスラームにおける穏健派でさえ同意する規則なのです。ですから、本当に、えぇ、コーランには、ある箇所があります。ひょっとしたら最もどぎつい事柄ではないことを言っているかもしれませんが、最後の日に、コーランの多くの部分によって、廃棄を通して置き換えられるのです。それは、私が信じないものですが、多くのムスリムは信じています。これが今日の事実です。第二の点は、それは神の言葉だということです。それは神の言葉で、今日の解釈ではありません。今日、活発なアラブやイスラームのイェシヴァはありませんが、人々がコーランを研究し、解釈する場で非存なのです。ですから、お願いです、もう一度、見解の不一致に同意いたしましょう。決して起こらないであろうと私が信じるものに、ただ焦点を当てないようにしましょう。そして、五千年にそれが起こるかもしれないと信じていらっしゃいます。でも私は、今日、そして明日、あさって、起こるであろうもの、我々の国々が安全であること、イスラームの暴虐性からの安全に、興味があるのです。