彼は、イスラーム恐怖症、新たな宗教裁判所の攻撃犬、その危難を西洋世界が無視する声だと呼ばれてきた。著述家ダニエル・パイプスは、9.11後の世界と戦うアメリカの苦闘において、避雷針となってきた。
2001年9月11日の何年も前に、過激なムスリムが合衆国に戦争を宣言してしまったと、パイプスは警告した。彼は、その脅威をイスラーム主義だと同定した。世俗社会をムスリム法と諸原則に服従させるために働いているイデオロギーである。当時も現在も、彼の多くの批評家は、パイプスが反ムスリム偏向を煽っていると咎めた。ニューヨークとワシントンでの攻撃後、彼らの恐れは高まった。パイプスは、今ではもっと可視的な討論の場を持つだろうと、彼らは心配した。
パイプス自身は血気盛んだった。「言うことがたくさんあります」と宣言する。「これは私の時です」。
53歳のパイプスは、二つの極端さに対する当意即妙の対案だと自分の見解を見なしている。邪悪なカルトとしてのイスラーム攻撃と、平和の宗教としての促進という二つである。「私は宗教そのものについては語りません」と、設立したシンクタンクである中東フォーラムのフィラデルフィア・オフィスでの面談中に彼は言った。「イスラームが問題ではないからです。テロも問題ではありません。問題なのは、イスラームのテロリスト版です。最も人気のあるものと人気のないものとの二つの間で、ある位置を切り開いているのです。でも、それが広まるでしょうね」。
パイプスは、刺し通すような黒い目を持ち、6.4フィートの印象的な風采である。CNNやフォックスやMSNBCその他のケーブル・ニュース・ネットワークのレギュラーゲストになった。主要な新聞は彼のことを真面目に扱い、最新の書『戦闘的イスラームがアメリカに到着』を論評した。『ニューヨーク・ポスト』紙や『エルサレム・ポスト』紙は、週刊コラムを印刷している。見逃した人々は、パイプスの公式ウェブサイトで目録を見つけることができる。
この暴露全部が、ワシントンに基盤を持つアメリカ・イスラーム関係協議会(CAIR)に率いられた、彼の批評家を困らせる。
「パイプスは、第一のムスリム叩きです」とCAIR広報官のイブラヒム・フーパーが言った。「私はその用語を使うのが大嫌いですが、彼には本当に合致します。彼自身の政治的、明らかに宗教的な議題項目のために、共同体全体を完敗させ、合衆国の宗教少数派に向けての恐怖や懸念や猜疑を作り出すことが、基本的に彼の仕事なんです」。
しかし、パイプスには、ムスリム指導者の中でさえ、今でも直面することをためらう脅威を暴くために、感謝する称賛者がいる。「彼はムスリムを叩いてはいません」と、カリフォルニア州フォンタナに基盤を持つ『今日のパキスタン』紙の編集者兼発行者のタシュビー・サイードは言った。「彼が攻撃するのは、イスラームの狂信者の解釈です。ダニエル・パイプスは、私にとって理性の声です。時のみが語るでしょう。そして、もしダニエル・パイプスのような声を我々が無視するなら、何が起こるか、神は時が語るのを禁じます」。
一世代前に同一のことが、冷戦の闘士で、今では79歳のパイプスの父親リチャード・パイプスに関して言われた。ソヴィエトとロシア史に関して世界一流の権威の一人である彼は、尊敬されたハーヴァードの教授である。彼は、1981年から1982年まで国家安全保障会議に仕えた、レーガン大統領のトップ補佐官だった。そこで彼は、ソヴィエト連邦に宥和するのではなく、対決する政策を打ち立てた。
父と息子は、驚くほど似た道を取ってきた。ダニエル・パイプスは、歴史学でハーヴァード大学の学士号と博士号を持っている。11冊の本を書き、ハーヴァードとシカゴ大学で教え、国防総省で短期間、勤務した。ちょうど、リチャード・パイプスが対決し打ち負かすべきイデオロギーとして共産主義を糾弾したように、ダニエル・パイプスはイスラーム主義を探し出すべき脅威だと同定している。そして、ちょうど父親が一群の先頭にいて、突出して批判したように、息子もそうである。
「息子は自力で考えます。そして、世論が間違っていると思えば、それを取り上げます」と、リチャード・パイプスは言う。「それは正しいことです。物事が違う方法でわかるなら、これを表現するのは義務ですから」。
1990年に、パイプスは非営利の中東フォーラムを立ち上げた。2001年の国税庁の損益計算書によれば、他の活動中、96ページの『季刊中東』誌を出版する間に260万ドルを得ている。
『季刊』誌は親米の論調を帯び、特に、イスラエルやトルコとの強い絆や二つの地域の民主主義を唱道する時、他のジャーナルでは聞かれない執筆者達を公表しようとしている。パイプス氏のように、その出版物は、イラクとの戦争についてタカ派である。
パイプスの専門は、夏の旅行にルーツがある。18歳の時、アフリカのニジェール国でボランティアをし、砂漠に魅了された。翌年、中東の砂漠を旅行し、そこで、西洋とはあまりにも異なるイスラーム世界について好奇心が芽生え始めた。これが事実上、アラビア語の研究へ、後に博士論文の焦点となるイスラーム史へと導いた。
カイロでの3年間、しばらくはムスリム家庭で暮らし、イスラーム文化や政治や社会について、じっと長く観察した。それが全てどこに結びつくのか、定かではなかった。特に西洋では、他に誰もイスラームについて気づき、気に懸けるような人はいなかったようだったからだ。その後、1979年にアヤトッラー・ホメイニーがイランで権力を取り、西洋を糾弾するイスラーム革命によって力を得、テヘランのアメリカ大使館を包囲し、人質を取った。「突然上ったこの新たな問いがありました。それが私の論点でした」と、パイプスは言った。「私の経歴の転機でした」。
イランでの出来事もまた、現代的なイスラーム主義における道標を示したと、彼は論じる。「イスラーム主義者というのは、問題が何であれ、イスラームが解決だ、と言う誰かです」と、パイプスは言った。「アメリカでは、憲法をクルアーンに置き換えたがっている人でしょう。イスラーム主義は過激で、ファシズムやマルクス・レーニン主義と多くの共通項を持つ、ユートピア運動です」。
パイプスは、世界中の12億のムスリムの10パーセントから15パーセントがイスラーム主義者だと推測する。全体的にその人数が熱心に論争されているが、同じ比率が合衆国のムスリムに当てはまると、彼は言う。
批評家達は、彼の手法と用語法の両方に挑戦する。「彼の単純な分析の中で」とロサンジェルスに基盤を持つ雑誌『ミナレット』の編集者は書いた。「活発に公共生活に関与するムスリムは、生活を形成しようとする反面、信条によれば、イスラームの信奉者ではない。むしろ、彼らはイスラーム主義者なのである」。
フーパーとその他は、パイプスが自分の信仰に動機づけられていると、しばしば憶測する。友人達はパイプスがユダヤ系であると言うが、それはパイプスが議論しないであろう主題である。「私はそれを否認しません。もし私の連携を見るなら、そうです。でも、私が語らないプライベートな生活に関する、例えば私の三人の子ども達のような、あらゆる種の事柄があります。これらの事柄の周囲に壁を置くことは、私の特権です」と、パイプスは言った。
CAIRは、パイプスの批判者からの引用をウェブサイトの拡大ページに献げている。議題項目に動かされた論争家だと彼を特徴づけるのだ。CAIR はまた、パイプスからの係争コメントを掲載する。以下を含む。
- 潜在的な「テロ関連」のため、政府のムスリム職員の宗教プロファイリングの呼びかけ。
- 「アメリカのムスリム存在、達成の増大、裕福さ、選挙権付与」が「アメリカのユダヤ人にとって、真の危険を表す」だろうという心配。
- 西洋の欧州社会は、「ムスリム習慣は大方よりもっと厄介な」ので、イスラーム系移民を受け入れる用意ができているかどうかという問い。
CAIRの攻撃は「私の名を毒して」きたと、パイプスは言う。彼自身のウェブサイトで、CAIRが文脈からコメントを捻っていると論じつつ、彼は逐一論駁を提供する。例えば「CAIRは、イスラームの偉大な文明ではなく」合衆国に「その道を強制することを求める、中東起源の過激なユートピア運動を体現している」と、彼は追加する。
CAIRとパイプスの確執が何年間も続いてきた一方で、中東フォーラムが去る9月に「キャンパス・ウォッチ」を立ち上げた時、パイプスは新たな敵を引き受けた。ウェブサイトによれば、キャンパス・ウォッチは「北米の中東研究を改善する目的を持って査定し批判する」。当初、それは学生による報告に基づく教授個人の「一件書類」を含んだ。
一つのターゲットは、イスラエルを「テロリスト国家」やイスラエルの「赤ちゃん殺人者達」と呼ぶのでパイプスが非難した、オレゴン大学のダグラス・カードだった。彼はまた、カードの社会学の試験について、イスラエルは「土地を盗んだ」という見解に学生達が同意しなければならないと断言した。その断言は、公表される前に連絡されなかった、とカードは言い、学校調査では、その主張を実質化する何物も見出さなかった、と大学広報官は述べた。「私は67歳です」と、カードは電話インタビューで言った。「私は、マッカーシーズムがどのようだったか知っていますし、1950年代以来、私が見てきた中で、これは最悪のことです」。
ミシガン大学の学者アントニー・サリヴァンもまた、キャンパス・ウォッチに名指されたが、パイプスの「目的は人格殺人です」と言った。国中の教授達は、抗議して、パイプス・ウォッチに自分達を追加するよう要請し始めた。一件書類は事実上、落とされた。
ひるまずに、パイプスは書き続けている。コラム、長い論説文、書籍の一部を書きながら、週に70時間以上は働く。時には、頒布の機が熟す何年も前に書く。
『コネティカット・ユダヤ原簿』の発行者で、昔からの友人であるリッキー・グリーンフィールドは、旅に出ている時は、ラップトップがパイプスのお気に入りの同伴者だという。「『ディナーはいかがですか』『カクテルでもどうですか』『コーヒーの時間がおありですか』と皆は言うでしょうが、答えはいつも『いえ、ホテルの部屋に戻らないと。仕事がありますから』ですよ」と、グリーンフィールドは言った。
リチャード・パイプスも一致した。息子は、と氏は言った。「もっと若い頃でさえ、全く趣味もなかったですね。いつも知的な作業に集中していて、いつでも頭が働いていて、自分の知的な焦点から離されることには何にでも、もどかしさを表現していました」。
パイプスが大好きな書く場所は、機内である。エンジンの騒音が、どういうわけか留意に集中させるのだと言った。2002年だけで講演の約束が143あるので、この頃では、普通ファーストクラスに乗るが、彼は最も頻繁な搭乗者の中にいる。姿を現すのは、多くは、CAIRの非難が支配し、ムスリムの学生集団が抗議を計画的に実施している大学町である。
だが、批判者が何を言おうとも、テロに関する警告で、主に「私はあなた方にそう言いましたよ」というパイプスを、誰も否認できない。1997年の世界貿易センターの初の攻撃の4年後、似た考えの著述家のスティーブン・エマーソンをパイプスはインタビューした。その結果として生じた記事の題目は『季刊中東』誌の「二十の世界貿易センター爆破に備えよ」である。
1998年に、パイプスは『欧州版ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に書いた。「 (ムスリム原理主義者)と、主にアメリカという西洋の間に戦闘状態が存する。アメリカの応答のためではなく、過激なムスリム原理主義者が西洋の価値との長期に及ぶ葛藤」を見ているからである。
先見の明ある分析?そうかもしれない。だが、フロリダ州オーランドのソフトウェア・エンジニアのオマール・ダジャニは「パイプスや彼のような人々」が、ムスリムに対する差別が決まり切ったことになるという雰囲気を作り出すことを恐れる。もし本国で別のテロ攻撃があれば、ダジャニは自分や妻や15ヶ月の息子が強制収容所にいると見る。第二次世界大戦中に日系アメリカ人達が耐えたものに似たものだ。「ダニエル・パイプスは、その道を率いているでしょう。こうするのは好きではないが、選択がないのだ、と言いながら。私達はこの国で、あらゆるムスリムが猜疑にある必要があります」と、ダジャニは言った。
ニューヨーク市に基盤を持つアメリカ・シオニスト組織の会長モートン・クラインは、異なった恐れがある。遅過ぎるまで国が目覚めないだろうというものだ。「これに極端に走りたくはありません」と、パイプスの友人のクラインは言った。「でも1930年代には、ウィンストン・チャーチルのように、野蛮なドイツ体制の真実や、どのように彼らと平和をつくることが可能ではなかったかを語る人は、ほとんどいませんでした」。
「パイプスは、非政治的な方法でイスラーム急進主義の話を語っている、稀な声の一人です。政治的公正さが、敵対させ、真実の声を黙らせる悪い時代です。ダン・パイプスは、あまりにも長い間正しかったので、私達は彼に耳を傾ける必要があるのです」。