この研究の題目が示唆するように、ムスリム同盟としてユダヤ人を見る中世のクリスチャンの傾向は、反セム主義の発展において決定的な要因だった、とアランとヘレンのカトラー夫妻は信じている。この主張の正しさを順序立てて説明することにおいて、カトラー夫妻は、反セム主義が(ユダヤ人はイエスを殺したという)決定を担ったことと、欧州におけるユダヤ人の変則的な社会経済地位に起源があると考える一般通念に挑戦する。カトラー夫妻の研究は、まずく書かれ、あまりにも長過ぎるものの、興味を引き、最終的に説得力ある議論を提供している。
彼らの事例の論理は、三段論法へと縮小できる。(1)中世のクリスチャンはムスリムを恐れ、憎んだ。(2)中世のクリスチャンはユダヤ人をムスリムの同盟と見た。(3)それ故に、中世のクリスチャンはユダヤ人を恐れ、憎んだ。
第一の点について、カトラー夫妻が、中世のクリスチャンの間で蔓延するムスリム恐怖の現存に注目することは、正しい。その恐怖はイスラーム浮上と共に始まり、19世紀まで続いた。例えば、預言者ムハンマドの死のちょうど2年後の634年には、エルサレム司教が「殺戮と破壊を脅かす神なきサラセン人のヘドロ」だと、ムスリムに言及した。この初期見解は、後に何度も反響した。何世紀もの間、神話や文学における大敵の役割が、ムスリムによって満たされたのだ。
これは理解できる。モロッコからエジプトやトルコやシベリアまで拡大する領域地帯に居住したムスリムにとって、物理的に中世のキリスト教圏を囲んだからだ。ムスリムはまた、最も一貫した敵だった。唯一の例外(モンゴル人)を伴い、十世紀の後、キリスト教の欧州に対する全ての深刻な軍事脅威は、彼らによって始められたのだ。ムスリム危難は、1683年の第二ウィーン包囲後までの一千年期以上、欧州のクリスチャン達を占有し続けた。
ムスリムはまた、軍事的危険と同様に宗教文化的危険を表すことにおいて、ドイツ人、ブルガリア人、ハンガリー人という他の侵略者とは異なっていた。ハンガリー人は事実上、欧州文化を受け入れ、キリスト教に改宗したものだったが、ムスリムは、キリスト教に逆らったのみならず、信仰からクリスチャンを誘惑さえしたライバル文明をもたらしたのだ。これら全ての理由のために、ムスリムはキリスト教圏の卓越した敵だった。
第二は、これがカトラー夫妻の研究の核心なのだが、ユダヤ人は、ムスリムの近しい仲間だと見られた。この見解には幾らか正当性があった。ヘブライ語はアラビア語と多くを共有しており、ユダヤ教はイスラームと多くを共有する。最も抽象的な次元では、キリスト教が信仰の宗教である反面、ユダヤ教とイスラームの両者とも宗教法がある。もっと特徴的には、割礼、食事規定、類似の性規定のような多くの特徴を共有する。さらに、ムスリムが中世期に秀でていたので、「ユダヤ人自身はムスリムと連携していた」。これがクリスチャンの間で知られるようになった時、ユダヤ人の地位を多く傷つけた。あらゆる中で最も損害だったのは、(当初のスペインのアラブ征服のように)ユダヤ人が時折クリスチャンに対してムスリム軍を助けたことだった。また、ユダヤ人の中には、クリスチャンとの戦時下で、ムスリム政府において卓越した地位を持った者もいた。彼らが実際には戦いに参加しなかった時でさえ、「ユダヤ人は通常、イスラームの手にクリスチャンの領土が陥落する時、歓喜した」。
カトラー夫妻は、中世のクリスチャンがユダヤ人とムスリムの深い連携を見たという主張の正しさを説明するために、多様なテクストと絵の証拠を整理する。それぞれの中から一つを取ると、影響ある十二世紀のキリスト教テクストは、「ユダヤ人とは、イスラーム改宗するまではユダヤ人ではない」という異様な声明を含んでいる。1508年に出版された宗教論争の本の木版画には、あるユダヤ人とムスリムの人物の絵がある。"Machometus"(ムハンマド)という名で、そのユダヤ人がムスリムの旗印を運ぶ一方で、ムスリムの旗印はユダヤ人の帽子を描く。カトラー夫妻は結論づける。
イスラーム勃興以来、反セム主義の歴史における(決して唯一ではないものの)主要な要因は、次のようなものだった。ムスリムとのユダヤ人連携、中東起源のユダヤ人を中東起源のムスリムと等しくする長期に及ぶ欧州の傾向、ユダヤ人が西洋に対するムスリムの同盟や連盟や民俗宗教的ないとこだったというクリスチャン感情の激しさ、深く根付いた内部のセム的異邦人であるユダヤ人が、印欧キリスト教圏の事実上の破壊をもたらすために、外部のセム的な敵であるムスリムと手を取り合って働いたという懸念。
第三は、ユダヤ人の見解に影響を与えた、クリスチャンのムスリム恐怖である。この説を証明するために、カトラー夫妻は、クリスチャン・ムスリム関係に応答して、クリスチャンの反セム主義が変化したことを示さなければならない。ユダヤ人の地位は、ムスリムに対するクリスチャンの敵意が増加するにつれて、低下しなければならなかった。逆に、ユダヤ人は、ムスリムに対する戦争が止んだ時、裕福でなければならなかった。著者達は、記録をよく見ることを通してよりも、主張によって、もっと十把一絡げの方法で、この点を実に確立している。ムスリムがまだ程遠い関心だった700年から1000年に、反セム的な勃発は、激しい敵意の犠牲者になってしまった1000年から1300年よりも遙かに少なく起こったと、著者達は論じる。ユダヤ人が、エジプトのファーティマ朝支配者のエルサレムの聖墳墓教会の破壊を助けたという噂がフランス中に広まった時、カトラー夫妻は、1010年頃にその変遷を遡っている。報復として、オルレアンのユダヤ人は、命で支払いをさせられた。
時代という文脈で見ると、中世の反セム主義におけるムスリムの役割は、驚くべきことではない。というのは、ムスリムは中世の欧州文明の多様な側面に深い衝撃を持ったからだ。実に、ムスリムに影響されなかった8世紀から15世紀の間のキリスト教圏では、ほとんど何も発生しなかった。顕著な結果が含まれる。馬の上で鐙を使っているムスリムの勝利は、クリスチャンに社会秩序を模倣し発展するよう強制したが、それは戦っている馬男に大きな強調を置くものだった。要するに、ムスリムの威嚇に応答することは、封土路線に沿って欧州社会の整列へと導いたのだ。地中海のムスリム優勢は、北欧の開拓増加を含めて、伝統的な貿易パートナーから南欧を切った。スペインのムスリム知識人は、ギリシャ哲学を利用できるようにし、そうすることで、ルネッサンスに重要な貢献をした。現代の欧州帝国主義は十字軍に起源があった反面、ポルトガルやスペインの海軍発見は、ムスリムを巧みに回避する望みによって刺激された。オスマン脅威は、カトリック国家を転換し、プロテスタント主義の上昇を軽率に促進した。
ムスリムはまた、より小さな発展に影響を与えた。マフィアは反ムスリム連盟として始まった。ヴァチカンはムスリム攻撃に逆らうために建てられた。そして、アクロポリスは、オスマン軍による軍需工場として使用する行程で廃墟とされた。ムスリムの影響は、食事や衣服や多くのキリスト教文化の芸術に充満した。
このリストは、さらにずっと拡大できた。鍵となる点は、ムスリムが、欧州のキリスト教文明の無数の側面に触れたということだ。歴史家のR・W・サザーンが観察したように、「イスラームの存在は、中世キリスト教圏において、最も遠大な問題(だった)。あらゆる存在レベルで問題だった」。この観点では、ムスリムもまた、クリスチャンのユダヤ人見解法に影響を与えたことは、ほとんど驚くべきことではない。
ユダヤ人とムスリムの同盟がまだ反セム主義を煽っているという概念の中世のクリスチャンの認識は、今日も一勢力であり続けていると、著者達は強く信じている。「アラブ人に対するイスラエルの敵意は、部分的に(多分、意識しているよりももっと無意識的に)ユダヤ人の願望によって影響されているかもしれない」と論じさえするところまで、彼らは先を行く。西洋に対してユダヤ人がムスリムと連盟しているという歴史的なクリスチャンの信念を反証するために、クリスチャンの反セム主義は、クリスチャンの反ムスリム主義が機能し続ける限り、持ちこたえるだろう。反セム主義と格闘するために、カトラー夫妻は、それ故に提案する。「アメリカ人と世界のユダヤ社会は、本物の対話や和解に入るために、クリスチャンとムスリムを促して、時間やお金や想像力をもっとたくさん共同体関係に置く用意をし、喜んですべきである」。
これはラディカルな新アプローチである。それを奉じるか?私の見解では、カトラー夫妻の中世状況の分析は、多大な意味をなす。本当にそれは、発展したクリスチャンとユダヤ人の関係の方法理解に、全く新たな次元を追加する。だが、私は、現在の状況に彼らの洞察を適用することについて、非常に懐疑的である。その理由は明らかである。第一次世界大戦以来、同盟ではなく紛争が、ムスリムとユダヤ人の関係を占めてきた。実に、アラブ・イスラエル論争がムスリムとユダヤ人の初期の結びつきをあまりにも圧倒してきたので、後者は事実上、西洋で見解から消滅してしまっている。この変化は、ムスリムとユダヤ人の古い連合がもはやないことを意味する。
1970年代に石油価格を上昇することにおける、アラブ人の成功事例を取れ。1973年のアラブ・イスラエル戦争の間、アラブ人はイスラエルに対して、武器として石油使用を強調した。その後、他方の価格増加のために、各側は責任義務を置こうと、とても必死になった。この諸条件の下で、キリスト教の西洋が、ムスリムとユダヤ人を同盟だと見ることは、ほとんどあり得ないように思われる。その反対に、二つの派は、事実そうであるよりも、もっと敵対的な敵でさえあるという評判を獲得してきた。学者のみが、過去数世紀に彼らが持った絆を想起するのだ。
さらに、運命のひどい捻りの中で、近年、ムスリムは自ら、キリスト教式の反セム主義の主導的な国際パトロンとなってきた。多くの中からただ一つだけ例を取ると、シリアの防衛大臣ムスタファ・タラスが最近、『シオンのマッツァ』と題する本を出版したばかりだが、そこで彼は、血の中傷という古典的な非難に言及している。タラスは、キリスト教の西洋がまだ自己同一化していない卓越した人物を、誰も地位に採用しなかった。このようなムスリムの反セム主義に直面すれば、ムスリムとユダヤ人の同盟という概念は非常識である。
しかしながらこれは、カトラー夫妻の説には全く同時代的に重要性がないと述べているのではない。というのは、重要性があるからである。反セム主義が、ムスリムとユダヤ人の関係の結果であるという程度まで、それが束の間で、それ故に 融通性が利く。決定の請求にますます批判的でなくなればなくなるほど、ますます、クリスチャンとユダヤ人の和解が容易になることが証明される。もし決定が事実、クリスチャンのユダヤ人迫害の歴史的な核でないならば、反セム主義は、幾ばくか永久ではないもののように見える。
『ムスリム同盟としてのユダヤ人』は奇妙な本である。第二章は、最近の別の学究的な本に関する難解なページ毎の論評である。最終章は、教皇が「ユダヤ人、クリスチャン、ムスリムの新たな精神的および機構的統一を作り出すために...より狭いキリスト教から広くアブラハム的なものへと、職位と使命を転換す」べきだと示唆する。だが、これらの短所は、今では他者にとって築き上げられるのに便宜的な、新たに重要な考えをカトラー夫妻が持っているという事実によって、補ってあまりある。