アルバート・ホーラーニーは著名なオックスフォードの教授であるが、モロッコからペルシャ湾までの空間、預言者ムハンマドから最近終結したイラク・イラン戦争までの時代、政治から文化までのテーマに伸びるカンバスを、権威的に描くことのできる非常に数少ない学者の一人である。言葉で優雅な方法と事の確信に届く才能は、彼の調査を読むに楽しいものにする。
だが、『アラブの人々の歴史』の明らかな美徳にも関わらず、本書を密接に精査すると、その静的な品質や、諸問題をもっともらしく言い紛らわす傾向や、隠された議事項目と関わらざるを得ない、幾つかの主要な欠陥が暴かれる。
まず、ホーラーニー氏の叙述には、歴史感覚が欠如している。アラビア語の展開する役割、公共生活の中のイスラームの場に関して、あるいは世界のアラビア語話者の場に関して、彼は全く思考を提供していない。どの与えられた箇所も煌めくかもしれないが、全体として本書は、時を経た変化に対する感情を欠く。
抽象思考にとっての最も密接な接近は、前書きに来る。そこでホーラーニー氏は、「単一の枠組みでそれらについて考え、書くことを可能にするために(本書が)カバーする、異なった地域間の史的経験という充分な統一」があることを示すためという意図を書く。だが、ホーラーニー氏は急いで本件を去り、一度もそこに戻らない。その代わりに、事実、事実、そしてまた事実の連続で充満させられる。幾つかの方法で、ホーラーニー氏の作品は、現代の西洋史よりもアラブ年代誌にもっと密接に類似している。
より厳しい問題は、その本の過度にバラ色の状況と関係する。人種差別主義や、女性の地位や、アフリカにおけるアラブ記録のような不愉快さは、軽く触れられるか、砂糖で包まれている。典型的な箇所で、ホーラーニー氏は前近代のイスラームにおける奴隷の条件という奇妙に好意的な状況を描く。それは、詳細に引用する価値がある。
自由人の十全な法的権利を所有していなかったが、シャリーア(イスラーム法)が、正義と親切さで取り扱われるべきだと下された。それは、彼らを解放するための称賛に値する行為だった。主人と奴隷の関係は、密接なものであり得たかもしれない。そして、奴隷が自由にされた後も存在し続けたかもしれない。主人の娘と結婚してもよかったかもしれない。あるいは、彼のために事業を行うこともできるかもしれない。
奴隷化の恐怖、宦官の去勢、女性奴隷の凌辱、農場や鉱山の惨めな状況、あるいは奴隷の地位の終わりなき恥辱に関して、いかなる言及も欠如している。
現代のことになると、ホーラーニー氏はさらにもっと護教的である。例えば、1967年以来の期間を「精神の擾乱」だと特徴づける。過去四分の一世紀のトラウマや鋭い危機を見過ごしつつ、アラブ政権は定期的に戦争に負け、石油歳入を浪費し、住民を残忍に扱った。健康や識字や屋内トイレに関する統計であれ、記録は乏しい。そして、芸術的あるいは宗教的表現のことになると、事柄はただ陰鬱なだけである。
ホーラーニー氏とは違って、アラブ知識人は、この現実を認め、深いメランコニーで応答してきた。例えば、エジプト人のサアド・エディン・イブラヒムは1988年に人権乱用について書いた。「過去十年は、幾つかのアラブ政府によって市民に対して犯された、暴虐の前例なきスケールを目撃した」。精神生活に関する判断は、もはや厳しくはない。ジョージタウン大学のヒシャム・シャラビは、アラブ世界が大半の部分にとって、「文化的に政治的に、暮らし働くには荒れ果てて抑圧的な場所...品格あり人間的な社会を建設する闘争の困難な場所」であると書く。もっとあからさまには、ニザール・カバニが問うている。「我々の文化?洗濯盥や寝室用溲瓶の泡に他ならない」。この絶望の調子は、分離して上流気取りの「精神の擾乱」ホーラーニー氏からは完全に欠如している。
最後に、ホーラーニー氏は、資本主義を論駁し、イスラエルを攻撃しつつ、当世風に左派項目を追求するが、あまりにも見事な微妙さで内密の境界線を引く。繰り返された修飾句の使用(「かもしれない」「かもしれなかった」「多分」「あり得べき」)が、著者に彼自身の主張から距離を置くことを許す。彼は、それによって言えないことを含意する。ここに二つの事例がある。どちらも、1967年のアラブ・イスラエル戦争に関連するものである。
- アラブのイスラエル恐怖を説明するのに、これらは「根拠なきものだったかもしれない」と括弧で認識しつつ、イスラエルのシリア攻撃を予測する報告に、ホーラーニー氏は言及する。事実、今ではそれらの報告は、偽情報で簡素だったと普遍的に認められている。
- ホーラーニー氏は、シナイから国連軍を排斥するというガマール・アブデル・ナーセルの誤った決断を正当化する。もし合衆国政府が「イスラエル政策を巡って充分にコントロール」していたならば、この決心は「正しいと証明されたかもしれない」という観察と共にある。だが、この可能性が無責任であると持ち上げるためでさえ、合衆国政府は一度もイスラエルについて充分にコントロールしたことはない。
この反イスラエル項目もまた、幾つかの奇妙な主張へと導く。彼が観察するように、ワシントンが救済しただろうから、イスラエルは1967年の戦争で「失う物は何も」なかったというのは本当か?合衆国政府によるそのような関与を記録する、評判の良い歴史はない。そして、そのような約束をしたとしても、アメリカ軍がイスラエルを解放するのに必要としたであろう月日は、(クウェートにとっても必要とされたように)イスラエル住民を虐殺し散乱させるために充分な時間だったであろう。イスラエルが「失う物は何も」なかったと言うことは、全く誤っている。
もしアラブ人を理解したいならば、アルバート・ホーラーニーの護教を敬遠せよ。その代わり、バーナード・ルイスの『アラブの歴史』を読め。それは、40年後でさえ、込み入った主題にとっての最善の導入であり続けている。