「不安定な文化の品質証明は、噂に依存することと、あらゆる人の目に陰謀を見ることである」フォウアド・アジャミ[1]
1945年以降の陰謀主義の最も肥沃な土地は、西洋の外だった。これは何か驚きのようなものである。というのは、世界陰謀は絶対に普遍的な思考方式ではないからだ。むしろ、西洋における非常に特殊な環境に由来した。この思考方式を自力で発展させた地域は他にないが、それを、あるいはその大半を欧州から輸入することは、多くの人々には充分魅力的だと思った。
これは、共通のパターンに合致する。それによって-芸術品ないしはアイデアであれ-一度以上発明したものは、ほとんどなかった。ちょうど銅や火薬や現代薬やパソコンが原産地から世界の他地域へ広がったように、一神教や恋愛や交響楽団や代表制民主主義や陰謀主義のような概念も広まったのだ。各々は必要条件を持つ。交響楽団はヴァイオリンとフルートを持たなければならないし、陰謀主義はロスチャイルドやロックフェラーを含まなければならない。(この主題に関する学術の欠如において)世界陰謀論は、19世紀にまず非西洋地域へと広がった。そこでは広くアピールしたのである。陰謀主義は、特に民族主義や共産主義に似ている。この三つの識見が全て、西欧に由来したという点においてである。西欧で大悲劇を引き起こし、その後、ちょうど他地域で偉大な経歴へと進んでいった時、出生地ではやせ衰えた。無論、陰謀家の伝統は、どこでも同一のことを受け取ったのではなかった。それは、例えばフィリピンやイランやハイチで、特に繁栄した。
外部世界が西洋から陰謀論を取ることは、二つの一般的な含意を持つ。第一に、非西洋の陰謀家は、西洋の悪霊を自分の悪霊としても受諾することを意味している。それで、彼自身の敵に焦点を当てない傾向がある。それ故に非西洋は、それ自身を重要でないものだと却下する。中国人は日本人の世界覇権を恐れていないし、日本人は中国人の秘密結社を恐れていない。ムスリムはヒンドゥ長老を恐れていないし、ヒンドゥはパキスタン主義を恐れていない。西洋の影響は、世界中の人々に欧州不安を引きつけるのみならず、特に非現実な特徴で非西洋の陰謀主義を吹き込むのだ。論じられるところの敵は、かなり遠方で暮らす見知らぬ者達である。
第二に、西洋から陰謀主義を借用することは、その他のどこでも独創性を欠く。世界中の陰謀家は、十字軍、啓蒙主義、フランス革命、そして二つの世界大戦において、共通の祖先を分かち合う。東条首相とアヤトッラー・ホメイニーは、ロベスピエール、いわんやバリュエルについて一度も聞いたことがなかったかもしれないが、それにも関わらず、二重陰謀家のテーマを含めて、主要な現在のヨーロッパ思考から彼らの思考の多くが派生したのである。興味深いことに、反セム主義や反帝国主義の両方を広めることでリードを取ったのは、(例えば、キリスト教宣教師や白系ロシア人あるいはナチではなく)左派だった。ひとたび非西洋諸国で吸収されると、これらの陰謀家の伝統は、左派や右派との連携を喪失した。
陰謀主義が非西洋世界を害することに気づくと、陰謀家は結論するかもしれない。西洋人は、ライバルを困らせる心を持って、承知の上でこの見地を伝達したのだ、とーそして、もちろん、そうする者もいる。「本当の陰謀は、策略理論の偽造のうちに存する」と、ヨルダンのフセイン王の報道官は書いている[2]。トルコの日刊紙は、「混乱を作り出すために、疑わしく暗い部屋の中で、理論が、策略や陰謀に関して描き上げられる」[3]。
今日の陰謀的な反セム主義は、原産地よりも、それ以外でもっと遙かに劇毒性がある。最も広く利用できる反セム的な出版物の最近の履歴である『議定書』に注目せよ。西洋では視野から大半は落ちてしまったものだが、世界の他の地では重要な情報源になっている。ペルシャ語や中国語を含めて、多くの非西洋諸言語で出版され、ブラジル、インド、オーストラリアでも登場し、日本とレバノンでベストセラーの地位に達した。偽造のもっと別の翻訳や編集が、どの言語よりもアラビア語で現れてきて、サウジアラビアとイランを含めた多数のムスリム諸国で、高位官僚の後援者を享受している。
選別された地域における陰謀的な反セム主義の履歴を瞥見すると、その現在の立ち位置が示唆される。世界的な反セム主義の拡大は、中東で始まった。欧州の最も近い隣人で、ユダヤ人が政治的に活発な非西洋地域の一つである。この型の陰謀主義は1920年代に遡る。バルフォア宣言とアラビア語の『議定書』の利用可能な組み合わせが、ユダヤ人への恐れと陰謀論の両方を促進した時である。私は、中東における陰謀論に関して大きな本を書いてきた。その半分は、ユダヤ人とイスラエルに関するものだが、この現象を理解し、その含意を査定するために試みたのだ[4]。ここで私は、ただどのように特定の欧州テーマが再現する歴史を持つかを記す。時には、中東でマイナーな詳細へと下るものである。
アウグスティン・デ・バリュエルは、1806年に一通の書簡を受け取った。表面上は、J・B・シモニーニという名のイタリア軍将校からで、司教や枢機卿を含めて、イタリアの800名の聖職者が実はユダヤ人だと知らされたのだった[5]。この古い流言は、今日の中東出版でまだ共鳴している。ダマスカスで発行された英語紙『シリア・タイムズ』は、1994年5月14日に発表した。「合衆国のプロテスタント司教の30パーセントは、ユダヤ教をやめなかった元ユダヤ人である」。
ドイツのユダヤ系外務大臣のヴァルター・ラトへナウは、有名なことだが1909年に主張した。「皆が相互に知っている300名の男が、大陸の経済上の運命を導いている」[6]。彼のコメントは、しばしば反セム的なねじりを伴って、西洋と中東で再浮上し続けている[7]。例えば、ガマール・アブデル・ナーセルはかつて述べた。「各々がその他全員を知っている300名のシオニストが、欧州大陸の運命を支配している」[8]。
ネスタ・ウェブスターは学究的な陰謀家だが、反セム主義は「誤った印象を作り出すためにユダヤ人に造語された誤称だ」と、1924年に書いた。というのは、それによって事を混乱させながら、ユダヤ人同様にアラブ人をも不正確に言及するからである[9]。ほぼ半世紀後に、あるスーダン人の学者が同様に論じた。シオニストは、彼ら自身の立ち位置を改善する試みで、「反ユダヤ的」を意味するために「反セム主義」という語を造語した、と[10]。
アドルフ・ヒトラーは宣言した。「英国出版の99パーセントはユダヤ人の手に見出される」[11]。同様に、イランのアリ・ホセイニ・ハメネイ大統領は、シオニストを「世界メディアの首謀者」だと呼び、シオニストは「世界のプロパガンダ・ネットワーク」を運営していると宣言した[12]。
国際的に届くタコとしてのユダヤ社会のイメージは、欧州で発展し、その後、中東で採択された。そこでは今や、政治漫画から『議定書』の表紙まで、至る所に現れている。『シオン賢者の議定書』の1930年代のフランス語版は、地球にまたがったタコを示している。1970年代にカイロで出版された『議定書』の表紙もそうである。
これらの事例が示唆するように、アラブ人とイラン人は、欧州の陰謀的な反セム主義の最も極端な要素の幾つかを吸収してきた。そして、これらは大きな真価のわかる読者層を見つけてきた。西洋では憎悪集団やその他のマイノリティの領域で残っているものが、中東では、大統領演説や国営メディアや専門分析家や大説教の資料なのだ。
ムスリム世界では、影響は慣習上、中東から他の地域へ旅する。この一般的な型を保ちつつ、反セム的な識見がエジプトからイランからマレーシアのようなマイナーな陰謀的反セム主義の温床である国々まで広がってきた。そこでの政府は、ユダヤ人に友好的過ぎると見なされた文化芸術品を禁じる偏向を持つ。それで、ニューヨーク交響楽団はブロッホの『シュロモ』の演奏を禁じられたとわかり、映画『シンドラーのリスト』は上演できなかったのである。ヘンリー・フォードの長らく忘れられた文書である『国際ユダヤ人』は、マレーシアで生き続けている。ちょうど首相マハティール・モハマドが、「ユダヤ人とシオニスト」は彼を職位から取り除き、マレーシアを不安定化させようとしていると強く主張する時である[13]。彼はまた、ユダヤ人のメディア・コントロールのため、彼に関する中国語出版の批判を責めている。反セム主義が、ムスリム世界にほぼ特有である点に到達してしまったのだ。
反セム主義はまた、ムスリム世界を超えて、ユダヤ人との重要な接触を欠いている国々まで広まっている。例えば、タイではラーマ五世(在位1910-25年)が、『東洋のユダヤ人』を書くために、英国で8年間の教育を唆した。そこで彼は、欧州のユダヤ人の事例を引いて、国内の中国系マイノリティを攻撃した。同じ頃、中国系知識人達の間で「ユダヤ人侮辱やユダヤ人憎悪の感情が、何十年間も生き生きと残っていた」[14]。
だが、これらはマイナーで非陰謀的な型の反ユダヤ人感情であった。西洋とムスリム世界の外での真の反セム主義は、ただ日本のみに存在する。そこでは、ユダヤ禍あるいはユダヤ危難への魅了が1920年代以来、存在してきた。二つの出来事-第二次世界大戦期と1980年代半ばから-自由主義を憎む人々の間で、自由主義を代表するためにユダヤ人がやって来たのだ。『議定書』は、第一次世界大戦の余波で日本に到着し、重要性を獲得したナチ・ドイツの同盟関係として国家教義になった。部分的には、その知見が初期の日本人の反キリスト教論争と密接に似ていたので、即座に読者を勝ち取った。日本が超国家主義とナチ・ドイツとの同盟関係に追い込むにつれて、読者は増大したのである。
「グローバルなユダヤ陰謀が日本破壊を定着するという信念」にまで日本の反セム主義が発展したので[15]、当該国で、1937年の中国攻撃が、このユダヤ陰謀に対する闘いとして部分的には正当化された反面、合衆国との対決はユダヤ人「覇権」との闘いだと描写された[16]。ある日本人著述家は1941年に「どの国々が民主的な特徴を保持しているかの程度は、正確には、どの程度までユダヤ系独裁制の支配を受けているか」だと考えた[17]。戦争末期に、反セム主義がそれほどまでに進展したので、主流新聞は、同盟国イタリアの降伏がユダヤ策略だと解釈し、ペリー提督の遠征をユダヤ人の日本侵攻だとみなそうと、遡って歴史を読んだ者さえあった[18]。もっと広範には、キリスト教と同様に、スターリンや蒋介石やルーズベルトやチャーチルの背後の人形遣いだと、ユダヤ人は見なされた。西洋のテーマを単に繰り返すだけでは満足せず、日本人は彼ら自身のオリジナルのものを公式化した。例えば、ある著述家はユダヤ人を日本人の自己像として提示した。
日本ほど、ユダヤ人とより深い関係を持つ国はない。古代にまで形跡を遡れる関係...今日ユダヤ教として知られているものは、実はユダヤ人司祭によって偽造された模造宗教である。シュメールの太陽神やその他の神々の衣装をまとったサタンの神ヤハウェである。ユダヤ文化として知られているものは、日本の天照大神のまがい物の表現として、悪魔的に発展したのだ[19]。
ユダヤ人に関する陰謀論は戦後に衰退したが、数十年後に名声が戻ってきた。日本人のアイデンティティ(最も著名なのは1971年の本『日本人とユダヤ人』)を定義するための道具として役立った時で、合衆国の不安を表明している。反セム主義は、1980年代半ばに深刻な方法で再生した。日本経済の不景気を実質的にアメリカ全企業を経営するユダヤ人のせいにした、宇野正美の1986年の二冊の本である。そして彼は、エルサレムの第三神殿からユダヤ人暴君が世界中を走り回ることを予測した[20]。彼はまた、日本の二政党民主制は、日本を破壊するためのユダヤ策略の一部だった、と論じた。彼の本は百万部以上売れた。
宇野の成功は、反セム的陰謀主義を社会的に受け入れ可能にし、さらにもっと無茶な作品の洪水が続いた。ユダヤ教は、植民地主義やナチズムを含めた西洋文明の邪悪さ全ての原因だった。合衆国政府ではなくユダヤ人が、第二次世界大戦で日本を打ち負かしたのだ。強力なユダヤ人の「陰の政府」が合衆国を運営して、1990年から91年までのクウェート危機を呼び出したのだ。「ユダヤ・マネー」は東京株式市場を1992年に急暴落させた-日本企業を弱体化させ、そのために外国購買を受けやすくするパターンの一部である。日本紙幣上の「ユダヤの」印に反映されているように、ユダヤ人は日本の金融大臣をコントロールする。ある著者は、奈良時代(紀元710-784年)に遡って、日本に対するユダヤ策略を追跡している。反セム理論が人気と売り上げに達したので、書店は、その主題に関する豊富な本を扱う「ユダヤ・コーナー」を立ち上げている。
反セム主義と並び、反帝国主義が非西洋世界で繁栄し続けている。ただ、マルキスト=レーニン主義体制に影響するのみならず、知識人や芸術家や他の疎外された西洋人達の間で実質的な取り巻き団体を勝ち取りつつ、ロンドンとワシントンに対するソヴィエトの扇動もまた、広範囲に及ぶ衝撃を持った。これらは、ソヴィエトのうるさく提唱される主義に雄弁さを付け加え、その結果は、世界中の帝国主義恐怖症の堂々たる拡大だった。
ラテン・アメリカ人は長らく、反帝国主義者の陰謀勢力の下で労した。(世界で有限の富だけがあるという)罪悪感のメンタリティや二十世紀を通した一連の失望に多くを負っている。ヤンキーの帝国主義は、第一次世界大戦が迫るように思われるまで、豊かさを盗んでいると広く非難された。合衆国の裏切りとラテンの失敗の間の連関は直接的である。一方が前進したのは、他方が遅れを取ったからだ。実際に、ラテンの豊かさを黙って失敬するアメリカの成功は、「北米の富とラテン・アメリカの貧困の主要原因かつ恐らく唯一のもの」であると言われている[21]。
合衆国の策略というこの猜疑心は、ラテン・アメリカ人を多くの彩り豊かで予期せぬ道へと導いた。CIA関連を巡る非難は、ただ言いふらされたのみならず、広く信じられた。あるペルーのマルキストの著述家は、ペルーの輝ける道運動が、逸脱した左派集団ではなく、ペルーの左派の社会基盤を破壊し、国を弱体化しようとしたCIA支援の作戦であることを証明するために、丸ごと一冊を献げた[22]。1980年の数週間、二十年で最悪の国内の干魃は、好ましからざる気象学の結果ではなく、アメリカの飛行機がメキシコからのハリケーンを転じた結果だと、メキシコのメディアは一面の見出しで報道した。なぜか?一つの回答は、休暇スポットにフロリダを選ぶ旅行者を得るキャンペーンの努力の一部だと見た。アメリカの報道機関が、1976年から1982年まで、メキシコの過度に汚職にまみれた大統領ホセ・ロペス・ポルティジョを、世界で最も金持ちの男の一人だと呼んだ時、彼は逆に、この「悪名高い嘘」を広めているとCIAを非難し、尋ねた。「それは作り出されたものですね?」[23]
何十年間も、左派と右派にこのような理由付けが蔓延したことは、散らかった壁に落書きが殴り書きされ、文学サロンで聞かれ、めったに挑戦されなかった。しかしながら近年では、民主主義の急速な広がりと資本主義が、ラテン・アメリカ人に、より多くの富や、自身のより大きな潜在性感覚を吹き込むにつれて、印象的な変化が見られる。彼らは今や、他人を責めがちになることが少なくなり、自分自身でもっと責任を取る傾向にある。陰謀主義は緩和してきたのだ。
対照的に、ハイチは陰謀家思考の古いやり方に陥り続けている。1993年末にアメリカ大使がジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』の映画を見せた時、利用可能という単純な理由でそれを選択した。だが、西半球の遙かに最貧で最も厄介な国のハイチでは、何も単純ではないのだ。聴衆は、その映画の物語(若い女を誤って殺し、その後、怒った群衆の激怒から自分を守るために、順に友達のジョージに殺される、うすのろの農場労働者のレニーについて)が寓話的だと理解した。その後、その比喩の正確な本質に関して、質問が上がった。「合衆国大使館は、追われたジャン・ベルトラン・アリスティド大統領が不器用に行動して、文字通りか比喩的に殺されるべきだと言っていたのですか?あるいは、レニーはアリスティドの復帰を遮断するのを助けている、強力な警察長のミッシェル・フランソワ中佐の潜在的な運命を描くことを意味したのですか?ジョージは誰だったのですか?あるいは、隠されたメッセージを完全に見逃してしまったのでしょうか?」ある国連官僚は「誰も、楽しみのために見せられた、ただの映画だとは信じないでしょう」とコメントした。このような過度の分析と猜疑心は、ハイチ人の生活の典型である。「何も意図されていない場で意味の層を見つけるために、ハイチ人をそれほど分裂させ、相互に話しかけることのできないままにするよう助けてきたのが、この傾向なのです」[24]。ユダヤ人や帝国主義者達が陰謀をすると考えられる大半の他の国々とは違って、ハイチの陰謀論は、ヴァチカンや合衆国を関与させる。そしてまた、小規模のハイチ人が懸念するのは、尋常ならざることだ。地球ではなく、ハイチそのものを、なのだ。
フィリピンでは、1898年から1946年まで植民地権力だった合衆国政府の足下に、ほとんど何でも、あり得るし、置かれている。国民党との合衆国の秘密合意は、フィリピン人の政治で長らく優勢だったが、推定では、国の独立の法律制定から国会を妨げた。ワシントンで取られた決定は、1953年の大統領選挙でラモン・マグサイサイがエルピディオ・キリノを破った結果となった。大統領官邸のパーティーで、アメリカ大使の「特別なガールフレンド」を招待した妻のイメルダの後を追い回す必要が、フェルディナンド・マルコスにはあったと、合衆国政府は決定した。ある著述家は、その状況を要約した。
恐らく、多くのアメリカ人には、合衆国がフィリピンの侵攻を熟考しているかもしれないとは、思い浮かばなかっただろう。だが、一抱えの三十以上のマニラの日刊紙に触れたことがある者は誰でも、合衆国が関与している陰謀は、この都市の政治文化の主要産物であると知っている....。[パラノイアは]部分的にはコロニアル・メンタリティの兆候である。そこでは、フィリピン人には力がなく、アメリカ人は命よりもっと大きいと知覚されているのだ[25]。
英国にあまりにも長く支配されていたインドでは、西洋の陰謀が多く恐れられ続けている。ある典型的な主張では、ウッタル・プラデーシュの元議会議長が、カーストと共同体路線に沿って国を分割する多様な宗教原理主義にお金を送り込むことによって「世俗的なインドの基盤を揺るがしている」、インドで「不安定を作り出すための国際陰謀」のことを、会議で語っている[26]。
ムスリム世界とキリスト教圏は、一千年期の長きに及ぶ対立に関与してきたので、ムスリムにとって「帝国主義者」は、現代の権力関係に古めかしい感情を与えつつ、「十字軍」に似て聞こえる。このライバル関係の深みは、ソヴィエト連邦との共通の絆の基盤を提供したのみならず、多くは冷戦期にそれほど変化しないことを示唆する。原理主義ムスリムとサッダーム・フセインやムアマール・アル・カダフィのような独裁者は、これが知的な政策形成の方法に真剣に入り込む点まで、合衆国と大英国に関する異常な幅の陰謀恐怖を示す。
対照的に、西洋の陰謀恐怖は、日本と中国では証拠がほとんどなかった。明治期の日本人は、他のどこの、どの民族の生活様式の中でも、恐らく最も急激な変化に直面した。1638年から1850年代半ばの間、外国人を全く排除してきたので、突然、西洋の影響の流入や、19世紀末の欧州帝国主義の高潮に対処する必要があったのである。それでも、日本人はなすべきことをした。「豊かな国で強い軍隊」という富国強兵のスローガンに鼓舞されて、政治家や知識人は同じく、何が誤っていたかを理解し、それを正すことに着手するための、長引く成功努力に従事した。日本人のごく少数は、合衆国との貿易緊張を、日本を弱体化させ、それによってコントロールするアメリカの努力というプリズムを通して見るものの、戦間期の例外と共に、日本人は帝国主義に関する陰謀論に依存する必要がなかった。
同じ一般的な無関心は、中国にも当てはまる。そこでは、メアリー・ライトが観察しているように、「外国の強迫は常に、決して国内の失敗の原因としてではなく、適切な機能を実践することによる普遍的な調和を維持するための、中国国家の失敗の症状だと見られている。二十世紀に入ってしばらくするまで、どれほど外国人嫌いであっても、どんな保守的な中国人も、外国人のドアで中国国内の悲惨さの責任を置く試みをしなかった」[27]。共産主義時代でさえ、文化大革命という大例外と共に、陰謀論はほぼこのパターンに合致する。毛沢東は、世界を揺るがすものに関してよりも、ささいな陰謀論に関してもっと心配した。例えば、大躍進政策が第三次経済を引き起こした時、その諸問題は、外国諸国と結びつけずに、生産を密かに傷つけた反革命主義の結果だ、と彼は主張したのだった。ただ時折、彼は英国やロシアや日本の陰謀の恐れを持ち上げた。アメリカの策略はほとんど上がって来なかったが、生涯の終わり頃、ソヴィエト連邦との敵意があまりにも深くなったので、彼は助けを合衆国に向けた。ポスト毛時代には、陰謀論への依存は、敵を特定化する真剣な努力よりも、もっと人口を管理するメカニズムのように、時折かつ曖昧の両方であった。
過去半世紀は、不規則ながらも、劇的な権力移行と陰謀主義の範囲を見てきた。かつては世界をほぼ支配した一勢力が、今では、西洋における権力の最後の砦の外部に立っている。陰謀論は大声を持つが、それそのものは政策を移行することができないとわかる。しかしながら、世界の他の地域では、最も顕著なのは中東だが、政治が陰謀的な説明に全く陥るようになってきたのだった。
[1] 1990年9月16日付『ニューヨーク・タイムズ』紙。
[2] 1990年12月18日付『ワシントン・ポスト』紙宛のフォウアド・アイユーブの投書。イラクとヨルダンとイエメンの噂によるサウジアラビア強奪計画に応答して。
[3] 1993年2月13日付『ジュムフリエット』紙。
[4] ダニエル・パイプス『隠れた手:中東が恐れる陰謀』(聖マルティン出版 ニューヨーク1996年)。この作品を出版して初めて、この一般的なトピックに関する他の研究が、私の目に留まるようになった。Tore Bjørgo『アラブ政治における陰謀レトリック:パレスチナの事例』(Norsk utenrikspolitsk institutt オスロ1987年)。1967年6月のアラブ・イスラエル戦争における陰謀論の重要な事例は、リチャード・B・パーカー(編)『六日戦争:回顧』(フロリダ大学出版 ゲインズビル 1996年)の237-288ページで詳細に論じられている。
[5] 1878年7月『現代』「PP・バリュエルとフェラーに対するP・グリヴェルの思い出」pp.58-61。
[6] ヴァルター・ラトへナウ『時代批評』(S・フィッシャー社 ベルリン 1919年)。
[7] 1956年の書によれば、政治を「数百年間」「300人以下の男達が」支配してきたという。ウィリアム・ガイ・カーの第二版『ゲームの人質』(国民連合のクリスチャン平信徒 トロント 1956年)の序文を参照のこと。アメリカの民兵が「300の委員会」にビデオ・テープを販売している。1996年の大統領候補を選んでいるロス・ペロットの改革党大会の参加者が、あるジャーナリストに、合衆国から各年1.4兆ドルが消えていると述べた。「どこへ行くと思われますか」とジャーナリストに尋ねた。「恐らく、欧州の300の委員会のような種にでしょう-権力がある、あるいはそのような権力へ。彼ら自身の議事目録のために使うのです」。1996年8月13日付『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙。
[8] 1958年9月28日のインタビュー。『1958年のガマール・アブデル・ナーセル大統領の演説とプレス・インタビュー』(アラブ連合共和国情報局 カイロ 1959年 p.402)のテクスト。
[9] ネスタ・H・ウェブスター『秘密結社と破壊運動』(E・P・ダットン社 ニューヨーク 1924年)p.xii注。「反セム主義」の新語は、実は反セム族のヴィルヘルム・マルあるいは彼のライバル達に造語された。モシェ・ツィメルマン『ヴィルヘルム・マル:反セム主義の族長』(オックスフォード大学出版 ニューヨーク1986年)pp.88-95, 112。
[10] イブラヒム・アル・ハーダロ『反セム主義:変化しつつある概念』(ハルツーム大学出版 ハルツーム 1970年)p.9。
[11] リチャード・S・レヴィ『現代世界の反セム主義:テクスト選集』(D・C・ヒース社 マサチューセッツ州レキシントン 1991年)218ページの引用。
[12] 1993年2月14日・1993年9月3日付のイスラーム共和国の声。
[13] 1991年6月6日付『エルサレム報告』。
[14] フランク・ディケーター『現代中国の民族談話』(ハースト社 ロンドン 1992年)p.114。
[15] 日本人の反セム主義の本定義は、デイヴィッド・G・グッドマン/宮澤正典『日本人の心の中のユダヤ人:歴史と文化的ステレオタイプの利用』(フリー出版 ニューヨーク 1995年)p.11。(訳者注:日本語版はデイヴィッド・グッドマン/宮澤正典(著)藤本和子(訳)『ユダヤ人陰謀説-日本の中の反ユダヤと親ユダヤ』講談社1999年)
[16] 同書106ページの引用。
[17] 愛宕北山は同書の107,226,245ページに引用されている。
[18] 1944年9月12日付『毎日新聞』1944年1月22日付『読売新聞』。同書108-109ページの引用。
[19] 1942年11月の増田正雄の著述。同書120-121ページの引用。
[20] 宇野正美『ユダヤが解ると日本が見えてくる』(徳間書店 東京 1986年)同著者『ユダヤが解ると世界が見えてくる』(徳間書店 東京 1986年)(訳者注:原文には英訳が付加されているが省略した。)
[21] カルロス・ランゲル『よい革命のよい残酷さ:ラテン・アメリカの神話と現実』(モンテ・アヴィラ カラカス 1976年)p.42。
[22] アンドレオ・マティアス『CIAとセンデロ・ルミノソ:政治ゲリラ』(宇宙グラフ リマ 1988年)。
[23] 1988年11月28日付『ニューヨーク・タイムズ』紙。
[24] 1993年12月7日付『ワシントン・ポスト』紙掲載のダグラス・ファラー「ハイチからの投書:現実チェック」。
[25] 1990年12月31日付『新共和制』誌掲載のアラン・バーロー「全く的外れ」。
[26] 1993年4月2日付『インドの時代』紙。
[27] メアリー・クレイボー・ライト『中国の保守主義の最後の抵抗:同治中興1862-1874年』(スタンフォード大学出版 スタンフォード 1957年)p.44に注意。
[訳者注:文末注に関して、原文では、陰謀家の名前や表現が大文字のみで綴られている。日本語訳では、太字で表記した。]