2013年という年は、報じられたところではニュージャージー州のニューアークにあるカナン人寺院の設立百年を記念する。それは土着の黒人系アメリカ人のイスラームのまさに最初期の型だった。ムハンマドに設立されたアラビア由来の1400年の古さを持つ規範的イスラームからの、一つの完全な区別である。この運動からイライジャ・ムハンマド、マルコムX、ルイス・ファラカンが来た。
アメリカ・ムーア人科学寺院の設立者であるノーブル・ドリュー・アリ |
自らをノーブル・ドリュー・アリと呼んだアメリカの黒人ティモシー・ドリュー(1886-1929)は、ニューアークに寺院を設立した。そしてその後の1925年に、よりよく検証されたもう一つの組織が、奇妙にもアメリカのムーア人科学寺院と名付けられた。彼のアイデアは主に、四つのありそうもない源泉―汎アフリカ主義者、聖廟者、アハマディ系ムスリム、白人の人種差別主義者から生じた。
エドワード・ウィルモット・ブライデンやマルコス・ガーベイのような汎アフリカ主義者から、彼は白人の宗教としてのキリスト教概念を充当し、非白人のそれにはイスラームを充当した。ノーブル・ドリュー・アリは、実践する聖廟者として、この組織から特色を借用した。例えば、人の名前の前に「ノーブル」を使用すること、男がトルコ帽を被る要請、支部ネットワークなどである。アハマディ派からは、アラビア語の個人名、三日月と星のモティーフ、豚肉の禁止、インドへ旅行したイエスの概念を取った。白人の人種主義者から、完成された黒人系アメリカ人はアフリカ人では全くなく、「ムーア人」「ムーア系アメリカ人」あるいは「アジア系」、サハラ砂漠以南に移住した神秘的な北西のアフリカ民族のモアブ人だという考えが来た。
ノーブル・ドリュー・アリの聖典であるアメリカのムーア人科学寺院の聖なるコーラン |
ノーブル・ドリュー・アリはアフリカとの関連を回避し、アメリカの黒人のために新たなアイデンティティを発明し、合衆国に忠誠であることを促すことによって、新移民のように見えるだろうと望んだ。他の新来者のように、包囲された人種主義的なステレオタイプから逃げ、分離を避けようとしたものだった。だが、これらはそうではなかった。歴史家のリチャード・ブレント・ターナーが書いているように、「ノーブル・ドリュー・アリは、人種の坩堝が1920年代に黒人に閉ざされたことを理解しなかった」。
ムーア人科学寺院は、1929年7月のノーブル・ドリュー・アリの死で衰退した。その組織は、従う約1000人の信奉者と共にまだ存在する。メンバーの一人のクレメント・ロドニー・ハンプトン=エルは、1993年の世界貿易センター爆破の役割で有罪宣告され、35年の受刑となった。もう一人のナルシール・バティステは、シカゴのシアーズ・タワーを爆破する計画のために、13年半を得た。
当該寺院は、1930年7月に存在するようになったネーション・オブ・イスラーム(NOI)の先駆者として重要な役割を持った。ムーア人科学寺院は二重伝統を始め、その後、内容なき想像の規範的イスラームを充当し、それから白人の人種差別主義を逃れるための道具としてこの民俗宗教を使って、ネーション・オブ・イスラームに選ばれた。両者とも、まずは非教会のアメリカの黒人に焦点を当て、規範的イスラームへの改宗のための架け橋として役立った。多くのムーア人科学寺院の特徴は―「ネーション」という用語、「アジア系」アイデンティティ、二グロやアフリカの拒絶、イスラームと「濃い色の人々」との同一化、全白人が破壊されるだろうという予測、預言者性、時には神聖でさえある指導者の主張―ネーション・オブ・イスラームで生き残った。
ネーション・オブ・イスラームの最初期の多くのメンバーは、元はアメリカのムーア人科学寺院に所属しており、しばしばネーションを寺院の後継者だと見ていた。ネーション・オブ・イスラームの事実上の設立者であるイライジャ・ムハンマド自身は、先触れのアメリカのムーア人科学寺院を称賛し、時々穏当に自分の運動を「我々の前に始めたものを仕上げようとしている」と描写した。
世界貿易センターのテロリストだと有罪宣告されたクレメント・ロドニー・ハンプトン=エル |
取るに足らない将来にも関わらず、アメリカのムーア人科学寺院とネーション・オブ・イスラームは、その重要性を保持する。なぜならば、今日の凡そ75万人の黒人系アメリカ人ムスリムのほぼ全て―そして、何年も先には潜在的にずっと大きな共同体―は、ニューアークにある一世紀前のカナン人寺院にルーツを辿るからである。