『論評』誌が本稿のためにインターネット補足を要求した。それで私は1983年の自著『神の道:イスラームと政治力』から、中世の統合に関する鍵となる箇所を選択した。
イスラームは現在、後進的で攻撃的で暴力的な勢力を体現している。イスラームはこの方法であり続けなければならないのか?それとも、改革されて穏健で現代的で良き隣人になれるだろうか?イスラームの権威者達は、ムスリムにとっての良心の自由と同様に、女性や非ムスリムに対する十全な権利を付与する宗教理解を公式化できるだろうか?現代の金融と法理学の基本的な諸原則を受け入れ、シャリーア法を強制したり、カリフ制を樹立したりすることを求めないだろうか?
増えつつある分析家群は、否だと信じる。ムスリム信仰は、これらの事柄ができない。これらの特徴はイスラームに受け継がれており、その構成の変え難い不変部分なのだ、と。私の公式である「過激なイスラームは問題だが、穏健なイスラームは解決である」に同意するかどうかを問われて、著述家のアヤーン・ヒルシ・アリは答えた。「彼は間違っています、申し訳ないんですが」。彼女と私は、同じ目標のために同じ対抗者に対して戦いつつ、同じ塹壕に立っているが、この極めて重要な点で不合意である。
私の議論には二つの部分がある。第一に、多くの分析家の本質主義は誤っているという立場である。第二に、改革されたイスラームは浮上できる。
本質主義に対して論じる
主導的なイスラーム神秘家のルミ (1207-73) |
人間の本質の説明に失敗することによってのみ、コーラン解釈における実際の変遷というミレニアム以上のものを無視することによってのみ、主張できるのだ。コーランは時を経て同一的に理解されてきたのだ、と。ジハード、奴隷、高利貸しや「宗教に強制なし」の原則や女性の役割のような事柄において、諸変化は適応してきた。さらに、過去1400年以上、多くの重要なイスラーム釈義家が—アシュ・シャフィイー、アル・ガザーリ、イブン・タイミーヤ、ルミ、シャー・ワリー・ウッラー、ルーホッラー・ホメイニーが思い浮かぶ—イスラームのメッセージの内容に関して、内部で深く異議を唱えたのだ。
コーランとハディースがどれほど中心的なようでも、ムスリム経験の全体性ではない。モロッコからインドネシアまで、それ以上のムスリムの人々の蓄積経験も、同様に関わる。イスラーム聖典を詳しく述べることは、合衆国を憲法のレンズを通してのみ解釈することに似ている。国の歴史を無視することは、歪曲された理解へと導くことであろう。
違った風に述べると、中世のムスリム文明は卓越しており、今日のムスリムは、ほぼすべての達成インデックスにおいて遅れをとっている。しかし、もし状況が悪化できるとするならば、よくもなり得るのだ。同様に、私自身の経歴においては、1969年に当該分野に入った時に最小限の発端だったイスラーム主義の勃興から、今日享受している大勢力へと目撃した。もしイスラーム主義がそれ故に増大できるならば、減少もまた可能なのだ。
どのようにしてそれが起こり得るのか?
中世の統合
インドのイスラームの主導的な思想家シャー・ワリー・ウッラー (1703-62) |
これら他の非現実的な要求の言い逃れをするために、前近代のムスリムは、合法的な無花果の隠す葉を発展させた。直接イスラーム条項を侵害することなしに、緩和を許したものだ。法学者達は、潜脱手段(hiyal)その他の手段を持ち出した。それによって精神を無視する反面、法律条文が遂行できた。例えば、多様なメカニズムが、非ムスリム諸国との調和のうちに暮らすために展開された。品目の二重販売 (bai al-inah)もあるが、それは、 購入者に偽装型の利子を払うことを許可するものだ。同胞ムスリムに対する戦争は、ジハードと新たに命名された。
シャリーア法と現実のこの妥協は、拙著『神の道』(1983年)で私がイスラームの「中世の統合」と呼称したものに達した。この統合は、抽象的で実行不可能な要求の一団から、機能可能な制度へとイスラームを翻訳した。実践的な用語では、シャリーア法を緩和し、法体系を運用可能にした。今ではシャリーア法は、ムスリムがもっと厳しい要求を仮定することなしに充分に適用できたかもしれないのだ。ボストン大学のケシア・アリは『初期イスラームの結婚と奴隷』で、公式法と応用法の間の劇的な対照を記す。他の専門家を引用すると、次のようになる。
法学が先行していたものの中で一つの主要な方法は、「法廷の実際の慣行と教義を比較する」ことだった。聖典と法本文を論じている一人の学者が記すように、「社会パターンは、これらの『公式』厳選によって表された『公的』な状況と大きな対照にあった」。研究はしばしば、自在で比較的公平な法廷結果を、未分化で時に厳しい法学の族長的な本文伝統と並置する。我々は「停滞し苛酷だとしばしば描写されるイスラーム法内部の柔軟性」の証拠を示される。
中世の統合は、数世紀以上も機能した反面、一度も根本的な弱点に打ち勝たなかった。それは、イスラームの基礎的な構造本文に包括的に根付いたり、由来したりしてはいない。妥協や半分の手段に基づいて、常に純正主義者による挑戦に攻撃されやすいままだった。実際、前近代のムスリム史は、12世紀の北アフリカのムワッヒド運動や18世紀のアラビアのワッハーブ運動を含めて、多くのそのような挑戦に特徴づけられた。各事例において、純正主義者の努力は事実上弱まり、中世の統合が自ら再主張したが、純正主義者に改めて挑戦されるだけだった。現実主義と純正主義のこの交替は、不安定さに貢献しつつ、ムスリム史を特徴化する。
現代性への挑戦
中世の統合によって提供された事実上の解決は、ヨーロッパ人に強制された近代性の到来でたたき壊された。通例では1798年のナポレオンのエジプト攻撃に遡る。この挑戦は次の二世紀以上、反対の方向に大半のムスリムを引っ張った。西洋化かイスラーム化である。
西洋の達成に印象づけられたムスリムは、シャリーア法を最小化して、宗教の不成立、女性や非ムスリムの平等の権利のような領域において、西洋方式で置き換えることを求めた。近代トルコの設立者であるケマル・アタチュルク(1881-1938)は、この努力を象徴化する。1970年頃までは、西洋化への抵抗と共に、後衛と無駄な抵抗を見つつ、不可避のムスリム運命であるように思われた。
アタチュルク(左)とホメイニーのイスラーム見解は、外見と同程度に異なった。 |
西洋を拒否するものの、これらの運動は—イスラミストと呼ばれている—彼らの時代に押し寄せる、全体主義イデオロギーのファシズムと共産主義を自らモデルとした。イスラミストは、これらのイデオロギーから多くの仮説を借用した。例えば、個人に対する国家の優越、理性なき力の受容、西洋文明との遠大な対決の必要性である。彼らはまた、西洋から密やかに技術を、特に軍事および医学を借用した。
創造的で勤勉な仕事を通して、イスラミスト勢力は、静かに次の半世紀以上、強さを獲得した。最終的に、反アタチュルクであるアヤトッラー・ホメイニー(1902-89)に率いられた1978-79年のイラン革命と共に、権力と顕著さがなだれ込んだ。この劇的な出来事およびイスラーム秩序を創り出すという達成された目標は、広くイスラミストを鼓舞した。社会を転換し、新奇かつ極端な方法でシャリーア法を適用しつつ、続く35年で多大な進歩を成し遂げた人々だ。例えば、イランではシーア派体制が同性愛者をクレーンで吊り下げたり、西洋服のイラン人に野外トイレのカンから飲むよう強制したりした。アフガニスタンでは、タリバン体制が女子校やミュージック店を故意に燃やしてしまった。ヒジャブやニカブやブルカを身につける女性達の数が増えているのがわかる西洋で、イスラミストの影響は西洋そのものに到達してしまっている。
全体主義モデルとして大量に生じたものの、ファシズムあるいは共産主義のいずれよりも、イスラーム主義はずっと大きな策略の適応性を示してきた。後者二つのイデオロギー(訳注:ファシズムあるいは共産主義)は、めったに暴力や弾圧政治を何とか越えていくことはなかった。だが、例えばトルコの長たるレジェップ・タイイップ・エルドアン(1954年生まれ)のような人物や、彼の公正発展党(AKP)に導かれたイスラーム主義は、非革命型のイスラーム主義を探究してきた。2002年に合法的に公職に投票されて以来、顕著な巧みな能力で、AKPは徐々にトルコの世俗主義を減じてきた。当該国の樹立された民主構造内部で働き、善政を実践し、軍隊の憤りやトルコ世俗主義の長らくの守護者を挑発しないことによって、である。
今日イスラミストは行進中であるが、彼らの日の出の勢いは最近のものであって、長寿の保障を提供していない。実際、他の過激なユートピア的イデオロギーのように、イスラーム主義はアピールを喪失し、権力低下するだろう。確かに、2009年と2013年のイランとエジプトのイスラミスト体制に対する反乱が、それぞれ、その方向を指し示している。
現代の統合に向けて
もしイスラーム主義が敗北されるべきならば、反イスラミストのムスリムは、イスラームの代替展望とムスリムであることが何を意味するのかの説明を発展させなければならない。そうすることで、彼らは過去を利用できる。特に、中世モデルと比較できる「現代の統合」を発展させるための1850年から1950年の期間の改革努力である。この統合は、シャリーア法の勧告の中で選択し、イスラームを現代の諸価値と両立できるようにするだろう。その他の手段の中で、性の平等、不信仰者との平和共存、普遍的なカリフ制という野心の拒絶を受け入れることだろう。
ここで、イスラームは二つの一神教と有利に比較できる。500年前に、ユダヤ教徒とキリスト教徒とムスリムは、強制労働が受容可能で、借金に利子を支払うことは受容可能ではないということに、皆広く合意した。事実上、辛く長引いた討論後、ユダヤ教徒とキリスト教徒は二つの問題について心を入れ替えた。今日では、奴隷制を是認したり、借金に合理的な利子の支払いを非難したりするユダヤ教徒やキリスト教徒の声は全くない。
しかしながら、ムスリムの間では、これらの討論は始まったばかりだ。1952年にカタールで、1962年にサウジアラビアで、1980年にモーリタニアで公式に禁止されたとしても、奴隷制は依然として、これらの国々やその他のムスリム多数派諸国(特にスーダンとパキスタン)に存在している。敬虔なムスリムは奴隷制に賛同しなければならないと主張さえするイスラーム権威者もいる。巨大な金融機構は、法遵守のムスリムが金利を支払うか受け取るのを回避する振りをすることができるために、過去40年以上発展してきた1兆ドルと、恐らくは同額の価値がある。(「振りをする」とは、イスラーム銀行はサービス料のような逃げ口上で、ただ利子を偽装するからである。)
世界最大の非利子金融機関の一つ、アブダビ・イスラーム銀行用に計画された建物。 |
聖典と時代の感受性の両方における解釈に基づいて、改革派ムスリムは中世の先人よりも、よりよくしなければならない。ムスリムは、宗教を現代化するために同胞の一神教徒達を熱心に見習い、奴隷や利子や女性の扱いやイスラームを離れる権利や法手続きやその他の多くに関して、宗教を適合させなければならない。改革された現代イスラームが浮上する時、もはや不平等な女性の権利、ズィンミーの地位、ジハードや自爆テロに賛同しないだろう。また、姦通に対する死刑、家族の名誉の侵害、冒涜や背教を要求しないだろう。
既にこの若い世紀に、この方向における二、三の肯定的な徴が識別できる。女性に関する幾つかの展開を記そう。
インドのイスラーム主義思想の要塞であるデーオバンド学院 |
- サウジアラビアのシューラ協議会は、18歳で成年と設定することによる子ども結婚を巡る一般人の怒りに応答してきた。これは、子ども結婚を終わりにしないものの、その実践を廃止する方向に動いている。
- トルコ聖職者達は、月経中の女性がモスクに出席して男性の隣でお祈りすることに合意した。
- イラン政府は、有罪宣告された姦通者の石打ちをほぼ禁止した。
- イラン女性達は、離婚のために夫を訴えるもっと広い権利を勝ち取った。
- エジプトのムスリム学者の会合は、陰核切除をイスラームに反するとし、事実、罰せられるとした。
- インドの重要なムスリム機関であるデーオバンド学院は、一夫多妻制に反対するファトワを出した。
その他の顕著な展開は、特に女性についてではないが、以下を含む。
- サウジ政府は、ジズヤ(非ムスリムに強要する人頭税の実践)を廃止した。
- イラン法廷は、殺害されたクリスチャンの家族に、ムスリムの犠牲者と同じ賠償を受け取るように命じた。
- シャールジャの国際イスラーム法学アカデミーの学者会合は、背教者の処刑要求を討論し、挑戦し始めた。
2009年にナディン・アル・バディルが書いた最初の行は 一妻多夫制を呼びかけている |
もしその後まだ、思想を刺激するために採用していないとすれば、個人の改革者は、その間中ずっと識見を大量生産している。例えば、サウジの女性ジャーナリストのナディン・アル・バディルは挑発的に提案した。ムスリム女性は、四人の配偶者と結婚する男と同等の権利を持っている。彼女は、訴訟の脅しや怒りの弾劾を含む、雷を伴う嵐を促進したが、以前には想像もできなかった必要な討論を刺激した。
中世の先駆者のように、現代の統合は、ムハンマドの例を指摘して、そこからの逸脱を主張できない純正主義者による攻撃を受けやすいままだろう。だが、暴力的であろうとなかろうと、イスラーム主義が働きかけたものを目撃したので、ムスリムが中世秩序を再樹立するという夢を拒絶し、現代の方法に妥協することに開かれるだろうという希望には、理由がある。イスラームは化石化した中世精神である必要はない。それは、今日のムスリムがそうしているものである。
政策の意味合い
ムスリムも非ムスリムも同様に、シャリーア法やカリフ制やジハードの恐怖に反対する者は、目的を進めるために何ができるだろうか?
反イスラミストのムスリムにとっての大きな重荷は、イスラミストの展望に対する代替展望を発展させるのみならず、イスラーム主義の代替運動を発展させることだ。イスラミストは、献身と勤勉な仕事によって、寛大さと無私によって、権力の地位と影響に到達した。反イスラミストもまた、恐らくは何十年間も、イスラミストのイデオロギーと同程度に首尾一貫して強制力のあるイデオロギーを展開し、広めるために、労しなければならない。聖典を解釈している学者や従う者を動員している指導者は、この過程で中心的役割を持っている。
非ムスリムは、現代イスラームを二つの方法で前方に動かす助けができる。第一に、イスラーム主義のあらゆる形式に抵抗することによってである。オサマ・ビン・ラディンという暴虐な急進主義のみならず、例えばトルコの公正発展党のような密やかで合法的な政治運動もである。エルドアンはビン・ラディンほど残忍ではないが、もっと効果的で、同様に危険だ。シャリーア法によって否認され、減らされる自由な言論や法の前の平等や他の人権を重んじる者は誰でも、一貫してイスラーム主義の暗示に反対しなければならない。
第二に、穏健で西洋化している反イスラミストを非ムスリムは支援すべきである。このような人達は、今日では弱く粉砕していて、威圧的な課題に直面しているが、確かに存在しており、グローバル・ジハードやイスラーム至上主義の脅しを打ち負かし、その後、文明を脅かさないイスラームというもので置換するための、唯一の希望を体現しているのだ。
・ダニエル・パイプスは中東フォーラムの会長である。
2013年7月7日追記:ジェフ・ジャコビーは、本日付の『ボストン・グローブ』紙の「イスラームとは何か?」と題するコラムで、この論文の要約という実に優れた仕事をしている。
2013年10月1日追記:本稿に対する『論評』誌の六人の読者への回答と、私の応答は「イスラームの将来」にある。