時に辛辣なバレンタインという故郷の町の『エルサレム:鏡の都市』の中で、アモス・エロンは、エルサレムに好意を寄せる人々が望んだようには「一度も'一つ'あるいは'統合された'ことはなく、一度も'モザイク'だったこともなかったが」ユダヤ人、ムスリム・アラブ、チェルケス人、アルメニア人、その他の「疎遠の島々の集成だった」と観察している。マイケル・ローマンとアレックス・ワイングロッド、他の二人の聖なる都市の長期居住者が、この魅力的な本の中で論じている。今日ではただ二つの島がある、それはアラブとユダヤだ、と。エルサレムの人口(例えば、ムスリムとクリスチャンのアラブ人、敬虔なユダヤ人と世俗的なユダヤ人)を特徴づける他の多くの方法は、重要性において見劣りがする。著者達は、四つの分かれた路線―言語、宗教、民族所属、エスニック集団も、アラブ人とユダヤ人を分割すると数える。これに加えて熱望の衝突が起こり、その結果は「固く、ほとんど貫き通せない」エスニック境界である。
そして、実に貫き通せないと意味する。ユダヤ系の血液銀行とアラブ系の血液銀行がある。ユダヤ系とアラブ系の電気会社がある。アラブ人とユダヤ人のタバコ・ブランドがある。そして二種類の電話帳がある。同様に、ホテル、映画館、学校、バスは全部、社会サービスや大半の政府事務所のように、二つの型が来る。製品あるいは機関のエスニシティは、多くの方法で定義され得る。店のアイデンティティは、場所や商品の由来や表示のアルファベットや経営者の宗教と言語や休日によって打ち立てられる。曖昧さの余地はない。両集団に利用される数少ない機関でさえ、分離は蔓延している。ハダッサ医療センターを取りなさい。報道されるところによれば、心臓移植手術が1987年に始まった時、病院の会長は一般に保証した。ユダヤ人の心臓はアラブ人の体に置かれることはないだろうし、その逆もない、と。
1949年と1967年の間に二つの側を分けた要塞は、1967年の統一後、即座に消滅したが、その都市の地理的な分割はまだ存在している。アラブ人はユダヤ地区で土地を買わず、事業を開くこともない。その逆もない。両方とも、この分離をより好む。将来にも長く固執することがあり得るであろう。要するに、ユダヤ人とアラブ人の二項対立は、ほとんどどこでも、ほぼ常に蔓延しているのだ。
その後、二重少数派症候群がある。アラブ人はシオニスト国家で敵に包囲されたと感じており、イスラエルが主権と排他的な所有を求めていると疑っている。不動不屈(sumud)が彼らのイデオロギーである。ユダヤ人はしばしば敵対的な世界、二十の大変敵対的なアラブ諸国に囲まれているが、聖なる都市の大半を巡る管理を樹立することを決めている。事実を作ることがイスラエルの応答である。驚くべきことでもないが、表面上のアラブ人とユダヤ人の関係のちょうど下で緊張が泡立っている。個人は、政治的な本能と見解を鎮めながら、最善の振る舞いでやっていく。あるアラブ人の家具販売業者の忘れられない言葉は、「ここで折り合っていきたい者は誰でも、聾、盲目、唖でなければならない。さもなければやっていけないね」。
その販売業者の感情は、ユダヤ人顧客用の仕事から派生している。そして本当に、職場は「エスニック社交の最も活発な領域」なのである。経済的役割は自身の特性を持つ。アラブ人とユダヤ人が隣り合って働く時、相互にあるアプローチを採用する。ローマンとワイングロッドが「政治を語るためではなく、働くためにここに来た」と要約するものだ。著者達は気づく。機関(会社、政府事務所)の究極の管理がユダヤ人の手にある場合に限り、ユダヤ人労働者は喜んでアラブ人上司の下で仕えようとしている。換言すれば、ユダヤ人は「アラブ人のために」喜んで働こうとするが、「アラブ人の下でではない」。その後、支払いの問題がある。もしアラブ人労働者が町のユダヤ人地区で働くのにより高い支払いを要求するならば、ユダヤ人雇用者はアラブ労働者に関して、より低い給与を要求する。生活水準がそれほど遙かに隔たっているので、双方は望むものを得られる。アラブ人は、東エルサレムで得るであろうものよりも、西エルサレムで40パーセントも多く得る反面、ユダヤ人労働者は再び、ほぼずっと多くを受け取る。
『別れて共に暮らす』の強さは、その主題、報告の正確さ、わかりやすさ、カバーする話題の幅に対する著者達の没頭にある。議論が紛糾さえする微妙な問題を扱いながら、常に抑制された言葉を採用し、政治的感受性を示す。
それでもまだ、本書は欠陥を持つ。時折、穏健なパレスチナのプロパガンダへと沈む。一例を挙げよう。1967年以前に「地元の(エルサレムの)パレスチナ住民はヨルダン支配に反対した」と、我々は読む。だが現実は、その都市で重要な支援を享受しているヨルダンのフセイン国王と共に、遙かに断言的ではない。
もっと深刻なのは、その研究の時代遅れの特徴である。著者達は認めている。1987年に本書の草稿を終えた、と。あちこちで、それも最終草稿だったと示唆している証拠が染み出ている。(ある箇所で、1967年が「実際には二十年」前として言及されている。)どのようにインティファーダがアラブ・ユダヤ共同体関係を根本的に変えていると著者達が見ているかを考慮すると(その結果として、「平和共存と不動不屈(sumud)が直接行動や暴力対立やより大きな不確定さによって置き換えられた」と書いている)、これは有害なしくじりである。そのパターンの多くは、詳細に説明するが、結局は最後の七ページで現存しないと我々は知る。本の出版は、認められるように緩慢な事業であるが、著者と編集者は、この根本的な弱点と共に『別れて共に暮らす』を現わすことで、決定的に怠慢である。少なくとも彼らは、1967年から1987年までをカバーする史的探究として本書を提示すべきだった。
だが、最も深刻な批判は、その研究の文脈欠如に関わる。ローマンとワイングロッドは、エルサレムのユダヤ人とアラブ人の関係性が、戯れ、何か離れたものであるという印象を与えている。彼らは1967年以後のエルサレムのユニークさを、「多元的で、ユダヤ人とアラブ人の分離のほぼ全範囲」と指摘しつつ、強調する。一つの箇所で、彼らはエルサレムを「分極化の極端な例」と呼ぶ。彼らは正しいが、全くではない。エルサレムは変種現象ではなく、イスラエル全体で見られる特徴的な地理的社会的分離の延長である。アラブ人はヤッファで暮らし、ユダヤ人はテル・アヴィヴだ。前者は(下)ナザレという古代の町に居住し、後者は上ナザレに居住する。二つの民族が確かにもっと近接に共に(ハイファとアッコのように)暮らしている所で、まだ離れて住んでいる。これは最近の展開でもない。居住分離は、十九世紀半ばのパレスチナへの最初の現代ユダヤ移民の時代から強制的だった。というのは、労働シオニストのイデオローグはアラブ労働者にとって無用だったし、アラブ人はいかなる種のユダヤ人にとっても無用だった。相互合意によって、ユダヤ人は存在する居住地域に移動したのではなかったが、新たな入植地を設立した。
順に、このイスラエルのパターンは、何かもっと大きなものに合致する。中東全体およびムスリム世界の多くに延長するアプローチだ。村々では、単一のエスニック集団が変わることなく居住している。町々は区域に分かれている。モロッコからインドネシアまで、ムスリムと非ムスリムは離れて暮らす。さらには、経済交流と居住分離のパターン(時々知られているように、オープンな橋と閉じた門)が中東全体で見られる。特に、オスマン朝のミレット制に属する地区においてである。(そこでは、党派的共同体がかなり行政上の自律を持った)。特にブラッセルやベルファストあるいはモントリオールのように民族的に分割された諸都市と比べる時、エルサレムは、西洋知見から認められるように奇妙に見えるが、ベイルートやアレッポやタブリーズの文脈で見られる時、全く普通に見える。
この固執した分離の根源の原因は、イスラームの教義と関係がある。簡潔に述べれば、イスラームが大半の非ムスリムにムスリム支配下で平和のうちに自分達の信仰を実践することを許可する反面、それはまた、ムスリムと他信仰の信徒達との間の交流を思い留まらせる。これは分離居住パターンを醸成する。 ローマンとワイングロッドがエルサレムのために、あまりにもうまく描写するものだ。それもまた、北ナイジェリアやカシミールのような異種の場所における共同体関係の特別な運試しを説明する。
別れて一緒に暮らすことは、 幾つかの政治含意を持つ。一つは、他の全てに優先する政治の重要性と関係がある。かなりナイーブに、1967年のイスラエルの勝利は考えた。東エルサレムのアラブ人の生活の質を改善することは、彼らの政治的熱望を変えることだろう、と。しかし、エルサレムにおける政治情熱は、一般的に、順番を逆にしないで経済行為を決定する。(この教訓もまた、中東の他の大半の対立に当てはまる。)
もう一つの含意は、アラブ人とユダヤ人の共存の限界と関係している。エルサレムで見出されるパターンは、相互理解と友情の可能性がありそうにない。なぜならば、時間が二民族を共に持ち込み、関係を改善し、相互寛容を鼓舞したのではないことを示すからだ。全くその反対に、「インティファーダ」が示唆するように、相互暴露が強い憎しみを深化する。それに応じて、二民族あるいは「世俗的な民主」国家の計画は、恐らく非現実的である。
それでも、全てが侘びしいのではない。もしアラブ人とユダヤ人が一緒にやって来ないならば、充分遠く離れて留まっているので、大部分にとって相互に無視できる。どれほど「インティファーダ」が醜くても、日常生活の事柄を巡ってではなく、主権という抽象的な問題を巡る議論に基づいているのだ。驚くべき程度まで、アラブ人とユダヤ人は隣り合って暮らすことができ、実際そうしている。バス停で刺すことは最近の例外である。エルサレムの大半の住民にとって、回避と無関心は、活発な敵意より一方の側との関係をより特徴づける。
これらのことは、西洋人、特にアメリカ人にとって相容れない見識である。我々はキューバやベトナム式の人種の坩堝に誇りを持つ。だが、中東人は排除に凝る。後者のアプローチは、確かに道義的、政治的な用語の両方に欠けているが、敵対的な住民間の寛容な関係を保持する、太古から中東における問題と対処する証明された方法である。エルサレムや他の都市では、相互に自発的な空間分離が、まさによく機能する理由なのである。
中東でのエスニックに基づく激怒と暴力を考慮すれば、我々の希望は地域の一般的な人間嫌いを超えるべきではない。「しっかりとした、ほとんど貫き通せない」分離は、多分、それが得るのとほぼ同じ程度によいのだろう。