フィラデルフィアの小さな研究所は、合衆国政府あるいは他の何かの諸活動に実質的に影響を与えることができるでしょうか?より一般的には、ワシントンD.C.を超えてアメリカの外交政策に実質的な感化を持つことは可能でしょうか?この問いは、外交政策研究所や他の多くの諸活動にとって鍵です。私共が何をしているかを知るために、自分で答えを必要とします。そして、金銭支援者達が、得ているものは何かを自ら知るために答えを必要とします。
しかしながら、この件を掘り下げる前に、外交政策研究所について語り、政策志向の研究所の目標に関する一般考察を幾ばくか提供することから始めたいと存じます。
外交政策研究所
このフォーラムで私に先立つ優れた講演者の多くは、公共政策組織のかなり新奇な型を体現しました。ある方はリバタリアン展望を持っていらっしゃいます。別の方は州政府と協働されています。三番目の方は、ビジネスと教育の架け橋として働いていらっしゃいます。対照的に私は、恐らく最も普通で最もよく知られた分野、すなわち海外事情の出身です。それによって、外交政策研究所で私共がする業務の種について、かなりの量を既にご存じのことと思います。
外交政策研究所は、1955年にロバート・シュトラウス=フーペによって設立されました。ペンシルヴェニア大学で長らく教鞭を執った卓越した政治学者で、1969年から五度の大使職を務めました。(今日、レーガン大統領の代表として八年間過ごしたアンカラから戻り、当研究所に再び共にいることを喜んでご報告いたします。ヘリテージ財団で卓越したフェローとしても活発です。)
外交政策研究所の設立者ロバート・シュトラウス=フーペ(1903-2002年) |
外交政策研究所を定義するためには、地理が重要です。私共は、社会活動、内部情報、策略の騒音と共にあるワシントンにはおりません。また、決定形成の中心から三つの時差帯と何千マイルも離れたカリフォルニアにもおりません。フィラデルフィアは、電車でニューヨーク市から一時間十分、ワシントンからは一時間四十分です。ディナーに気軽に行くには遠過ぎますが、定期的に通うには充分近い距離です。
同時に、この地理的な位置は、幾つかの点でフィラデルフィアをアメリカの最大の小さな街にするという不幸な効果があります。その大都市地域は、国で四番目か五番目に大きいかもしれません(とはいえ、ワシントンD.C.地区よりも遙かに大きいのです)が、その位置はフィラデルフィア市が後背地を欠くことを意味しています。逆に言えば、これは、もっと小さな多くの都市で見出す地域的な指導性という感覚を減らしています。国の中心への近接はまた、都市の知的指導者にとって、仲間意識や報酬のために地域を超えて見ることを容易にします。
最近まで、外交政策研究所は確かにこの問題の一部でした。三十年近く、当研究所は、ちょうどフィラデルフィアにたまたまあったのです。その間、フィラデルフィア内とフィラデルフィア向けの重要な諸活動は全くありませんでした。実質的に市内で知られておらず、市から微々たる支援を受けていました。その後、ニューヨークとワシントンの間の唯一の外交政策シンクタンクであるという機会に私共は目覚めました。応答として、私共は多くのローカル努力を開始しました。メディアと密接に働いています。頻繁に『フィラデルフィア探究』紙に意見コラムを発表しています。そして時折、地元のテレビ局に雇われています。(1)相互に出会えるようにする(2)国の聴衆に語りかけるよう奨励する努力の一環として、地元大学の外交政策の専門家達のため、私共はセミナーを支援しています。朝食、ランチ、晩餐、レセプション、ブリーフィング、週末静養も行っています。
当研究所は、最近できた三つの従属組織に示されるように、重点移行によって盛衰の時期に応答してきまし た。中東協議会、法人諮問サービス、国際教育のためのマーヴィン・ ワックマン基金です。中東協議会は、ソヴィエト連邦にあまり集中せずに、東欧中欧、東アジア、ラテン・アメリカを含む他地域にもっと集中することを示します。中東に関する才能が豊かなことから、当該地域に関連のある諸活動を提供する新組織をつくるよう駆り立てられました。法人諮問サービスは、異なった変化を特色づけています。当研究所が常に強力な軍事強調をしてきた反面、1989年に初の国際エコノミストを採用し、もっと近接して働くための事業計画をしています。
外交政策研究所が伝統的に政策に焦点を当ててきたことを想起しますと、ワックマン基金は主要な新活動を体現しています。当基金は、ダウンタウンや郊外に居住する人や年配者といった、一般人のための幾つかの公開討論会をする教育プログラムを提供します。しかし、教師教育と実地訓練が私共の二つの特別なニッチです。私共は、主導的な著述家や政府官僚との接触をもたらす四つの異なったプログラムで高校教師と協働します。そうでもなければ恐らく会うことはないであろう種の人々です。長期的には、この教育経験を潜在的に国への影響を持つ場であるカリキュラム発展に変えていくことを期待しています。
私共は実地訓練も強調します。これは、外交政策研究所のような機関がする最も重要な仕事だとお考えになる方もいらっしゃいます。例えば、ジェームス・アレン・スミスは、近著『アイデア・ブローカー』 で、「右派のシンクタンクは革命を起こさなかった。むしろ、1980年に権力向上した革命的な幹部を準備した」と書いています。外交政策研究所には、1981年1月に職務に就いた多くを含めて、ワシントンで優れたキャリアへ移行した人を送り出す手助けをするという誇るべき記録があります。例えばジョン・F・レーマンは、当研究所がペンシルヴェニア大学の一部だった時に働いていましたが、当時から1986年までレーガン大統領の海軍長官として奉仕しました。彼のコメントです。「もし外交政策研究所がペンシルヴェニアになかったならば、私はこの仕事や事業を持っていなかっただろう」。大勢のインターンや有給学生が当研究所を経由しました。これらの多くの才能ある個人から、私共は各年か隔年、傑出した一人を見出し、雇用し続けています。
この他の諸活動にも関わらず、政策は私共の基本使命であり続けています。あるいは、私共が述べたように、当研究所は公開討論における声を求めています。それ故に、残り時間を政策関連事項に捧げたく思います。
政策志向の研究機関とは何か?
政策志向の研究機関は多くのことをします。大学のように学者を雇って研究を奨励します。基金のように企画を支援します。出版社のように書籍やジャーナルを発行します。ニュース配給機関のように新聞で意見コラムを頒布します。世界情勢協議会のように公開講話や会合を組織します。ロビーのように政府や世論に影響を与えることを試みます。政府局のように現在の出来事に関するコメントをスタッフがジャーナリストにします。(しかしながら、政府官僚とは違って、記録のためにそうするのです。)
恐らくはあまりにも多面的なためでしょう、研究所はアイデンティティの問題を抱えています。なぜこの雑種組織が存在するのだろうか?大学、基金、出版社、ニュース配給機関、世界情勢協議会、ロビーによってまだ満たされていない、どんなサービスを行っているのだろうか?研究機関で働いている私共のある者は、自分の機関の使命は何であるべきか、どのような良いことをしているか、何が成功を構成しているかを問いながら、しばしば自己定義のプロセスに従事しているのを見出します。
手始めに、政策が私共のミドル・ネームであります。教える機関とは違って、自分達のために抽象的な研究には従事しませんが、時事問題のために、知識を応用して専門化された情報と理論概念をもたらすという事業に関与します。私共が志向する実際的な特徴は、外交政策研究所員が、政治学者と歴史家がほぼ等しい人数だという事実によって説明されます。訓練分野が何であれ、私共全員は、史的精神を持ちつつ政治に敏感であります。しかしながら、現実的な見識の最高の指標は、私共の業務です。私共が書いたり述べたりすることが、異論のある諸問題に関する態度を変わることなく持つのです。
第二に、私共は有利な立場にあります。政治的見通しを基礎にした指名をすべきではない大学のセンターとは違って(理想というものは、悲しいかな、あまりにもしばしば侵害されます)、私共は明確に政治を考慮に入れます。政策研究所というものは、ある見解を持ち、それを伝えようとすることによって、名を残すのです。これを欠くなら、まさに私共の存在は疑いをもたらすことでしょう。もし私共のスタッフが結合を持たなかったなら、意向の食い違いに向けて動いていることでしょう。団結心という追加された益もあります。多くの共通項があることは、知的交流と楽しい職場の両方にとって実に驚きです。
同時に、外交政策研究所には教義的なリトマス試験紙が全くありません。私共は、第一の諸原則に同意しますが、それをどのように実践に移すかに関しては合意しないことがしばしばです。これは、昨今では特に興味深い議論につながりました。ソヴィエト連邦に関して合意している人々は、ドイツに対しては奇妙に思っています。アラブ・イスラエル紛争に調和する人々は、サッダーム・フセインの扱いということになると不合意です。今、私共は形成期に生きているのです。古い秩序は砕かれており、その代わりとなるものは全く形成されていません。
こうは申しましても、外交政策研究所の政治を明確にすることは、私にとって役立つかもしれません。最も露骨に述べるならば、合衆国の外交政策活動家に常に唱導して参りました。ソヴィエト連邦やその他の共産国家にまとわり付く疑念を共有して参りました。そして、民主主義、自由企業、法の支配の促進における強い関心を常に維持してきました。恐らく最も論争的なのは、専門スタッフが力の行使についてためらわないことです。もし1991年1月に議会のメンバーだったならば、私共全員はブッシュ大統領と砂漠の嵐作戦に投票したのみならず、その非難をも導いたことでしょう。
この短く列挙した事例を聞かれて、(あぁ、それは共和党機関なんだな)と思っていらっしゃる方がいるかもしれません。しかし、二つの理由から、それは誤った結論でありましょう。研究行政スタッフは、共和党員と民主党員に全く等しく分かれております。技術的な意味では、私共は二大政党提携なのです。また、もっと長期にアメリカ史を見るならば、アメリカ外交政策の主要な討論は、リベラル派と保守派の間あるいは民主党員と共和党員の間ではなかったのです。むしろ、活動家と孤立主義者の間でした。時に民主党員が活動家の見解を取り、時には共和党員がそうです。同時に、各政党は孤立主義者を共有しています。マクガバン派とブキャナン派です。今日、共和党がより活動家であることから、外交政策研究所は共和党とより多くの共通項を持ちます。しかし、これは長期に及ぶものでも機関上の連結でもありません。私共は、特定の諸原則を信奉しつつ研究をするという事業にあります。政党の権益や特定の政治家個人を促進することはいたしません。
最後に、私共が求める読者層は、大学のシンクタンクとは識別されています。大学の仕事は、第一義的に学者仲間を目指しています。私共の対象は遙かにもっと広いのです。これは、私の主なトピックへと導きます。外交政策研究所が影響を及ぼす方法です。研究し講話し編集し執筆している二十名かそこらの私共が、どんな相違をもたらすのでしょうか?
政策への影響
私共が特別関心を持たない二つの集団を定義することから始めましょう。政策決定者と広大な大衆です。
朝、報告書を書かなければならない重要な議員補佐官の机で、方針説明書を得るための格別な努力を私共はいたしません。私共やワシントン外部にある機関がこれを試みるのは馬鹿げたことでしょう。さらに、まさにこれをしている、そして非常にうまくやっている多くの機関がワシントンにはあります。今日ここにいらっしゃる主催者のヘリテージ財団に他なりません。一つの小さなプログラム(新聞シンジケート)を除いて、大衆に試みようともしておりません。その理由は、私共の業務の本質といささか関係があります。学術研究が大変に希薄化されるだけです。しかし、アメリカ政策における外交政策の場とも関係があります。
これについて詳述するために一分取らせていただきます。大半の主要な国内問題は、底辺から始まって上に滲み出ます。教育問題、検閲、中絶問題、保全などのようなものをお考えください。これらの関心の草の根の性質は、意見形成者が、国内の構成要因による強い見解をはっきり述べる傾向にあることを意味します。確かに、彼らは時々討論を導きますが、その努力は、大衆支持を見出すことができなければ無駄です。
外交政策はどれほど異なっていることでしょうか!結局のところ、国内問題の一形式でもありますが、戦争に合衆国が関与することを除き、外国問題は上意下達で決定される傾向にあります。一般活動の欠如は専門家に場を開きます。このパターンは、もっと曖昧な問題(例えばインドネシアに対する合衆国政策)に対してするように、等しく顕著な問題(例えばゴルバチョフの扱い方)にも適用されます。
要するに、外交政策のエリート、つまり学者やジャーナリストや編集者や政府官僚やビジネスマンや専門職が意見範囲を公式化し、残りの人口がそれに続くのです。この集団は、国内政策よりも外交政策の公式化において、遙かにもっと重要な役割を持っています。その大きさを測る試みをする必要はなく、非常に正確に定義する必要もありません。と申しますのは、皆様方全員が大凡、誰が含まれるかをご存じだからです。部分的には皆様の大半がその境界線内にいらっしゃるからです。このエリートが私共の自然な支持層なのです。もし書き言葉やテレビやラジオや人を通して届けられるならば、討論に影響を与えるチャンスがあります。これは、アメリカの見識を形作る上で、私共に発言権と政策形成の一部を与えます。
それでは、重要な書籍出版社、ジャーナル、雑誌、新聞、ラジオやテレビ番組にどのように接近するのでしょうか?あるいは、『オルビス』誌の場合、どのようにエリートに読まれる出版物の一つだと確かめるのでしょうか?ここに幾ばくか驚くべき答えがあります。と申しますのは、エリートへの接近は、発行部数や読者層の大きさとはほとんど関係がないからです。『ニューヨーク・タイムズ』紙はエリート層に届きますが、同程度の大きさの『ニューヨーク・ポスト』紙はそうではありません。『おはようアメリカ』が非常に大きな視聴者を持つのに対して、『マクニール/レーラーのニュース・アワー』はそうではありません。『新共和制』誌はエリート層向けですが、『リーダース・ダイジェスト』誌は違います。
この路線に沿った私の好む例は、二人の友人と関わっています。一人は、数千万部の頒布を持つジャック・アンダーソンのコラムのために働き、もう一人は、たった七百部の発行部数のニューズレターを出版しています。1983年に、アンダーソンのレポーターは、ペルシャ湾で使われるヨルダン緊急対応部隊用のアメリカ訓練プログラムの存在について報道しました。何も起こりませんでした。話は全く無視されました。その後、半年後にニューズレターの執筆者が同じ訓練プログラムについて知り、同じ話を再び報道しました。翌日、『ニューヨーク・タイムズ』紙と『ワシントン・ポスト』紙の両方が一面にそれを載せたのです。
この例は大切な点を指摘しています。どこで出版するかは、何を出版するかと同程度に重要だということです。発表は内容と同じぐらい重要です。では、形式と内容という相互補完問題について考えましょう。
形式:新情報と良い考えは充分でありません。読者は、言い寄られ勝ち取られなければなりません。これは、魅力的な体裁と上品な形式で材料提示するために必要とされることは何でも、編集や構成その他の何もかもすることを意味します。このようなアプローチは明らかなように聞こえるかもしれませんが、これらの機微に心をあまり留めることなしに、物事をたっぷりと素早く得ようとする傾向のある研究所の文化には反します。
内容:もし書店で選択したジャーナルや雑誌や新聞を発行するならば、健全な情報と良い考えを必要とします。有益なものを提供する必要がありますが、必ずしもすぐに利用できるとは限りません。中東に関して執筆してきた私の個人経験では、最大の欠陥は、文脈を時の諸問題に持ち込むことであると結論しています。二十世紀を通してイラク史について知っている者は、最近の出来事を解釈する強みを持っています。同様のことが、アラブ・イスラエル紛争にも言えます。例えば、これはパレスチナ問題とのみ関係があるのだと未熟な観察者が想像し、だからアラブ諸国の関与を見逃すのです。次のテロ事件が発生する時、最高の分析は、経歴やパターンに気づく人々によってなされるでしょう。つまり、外交政策研究所で、私共は大半のコメンテーター(と多くの政府官僚)に欠けている背景知識に呼ばれることによって、時の問題を明瞭にしようとしているのです。
形式と内容に関するこのガイドラインは、特に『オルビス』誌に、私共が出版している発行物と同様に適用されています。もしこれらがエリート層に読まれるべきならば、彼らを引き込み、何か有益なものを提供する必要があります。また、ジャーナリストとの対応にも当てはまるでしょう。
このアプローチは、外交政策研究所が政策に影響を与えることを助けてきました。そして、私共は影響が感じられた多くの格別な事例を指摘できます。ここに四例ございます。過去から二例、現在から二例です。
1959年の合衆国とソヴィエト連邦のロバート・シュトラウス=フーペの「長期化した紛争」概念は、封じ込めという知識人の基礎を再構成する上で主要な役割を果たしました。その時ソヴィエトの挑戦は、一方では倫理として、他方では軍事として見られていました。「長期化した紛争」は政治要因を加えました。シュトラウス=フーペは完成された地政学者でしたが、統合理解を通してソヴィエトの努力を打ち負かす方法を示しました。その過程で彼は、いつ、どのように、合衆国が海外に介入すべきかについて判断する基礎を差し出しつつ、西側権益にとっての多様な脅威の間を差別化する手段を提供したのです。
1970年代末と1980年代初期に、米軍は、数の上で優勢だった欧州でワルシャワ条約を相殺する質的手段として、初期の子爆発体技術を利用する異国風の離隔攻撃兵器である対戦車ミサイルを"fire-and-forget"だと見ました。オリ・エヴェン=トーブは外交政策研究所員の武器工学者ですが、単純なソヴィエト対抗手段によって、どれほど高価な技術がくじかれ得たかを提示し、論じました。そのシステムの脆弱さは、ワルシャワ条約の挑戦を打ち負かすため接近して戦う支援なしに、北大西条約機構軍を放置しただろう、と。トーブの仕事でさえ、プログラムの根本的な再考を刺激したのです。
世界が東欧の停滞を見た1980年代半ばには、ウラディミール・ティスマネアーヌが隠れた運動を見て、浮上する市民社会と彼が呼んだものに目を留める必要性を論じました。ティスマネアーヌ氏が主催した1987年の非常に注目された会合では、外交政策研究所が「共産国家は生き残るだろうか?」という主題を先見の明を持って取り上げました。その結果、ティスマネアーヌ氏は1990年初頭に、引き続き、東欧に関して採択された差別化政策を定義づけることで直接の役割を与えられつつ、国務省で毎日のように実質的に協議されたのです。(それは、民主化に向けた具体的手段で合衆国の援助と関連していました。)
最後になりますが、昨年の6月、当時パレスチナ人に譲歩をするようイスラエル人が圧力をかけられつつ追求された時、アラブ・イスラエル和平プロセスはうまくいかない、と私は論じました。アラブ諸国とイスラエルの間の関係を無視しているので、失敗が運命づけられたと私は論じたのです。その代わりに私が提案したのは、パレスチナ人に対するイスラエルの譲歩の報いとして、合衆国政府は和平プロセス外交の基盤を、イスラエルに対してアラブ諸国が譲歩することに置くというものでした。1991年3月に新たな和平プロセス外交が始まった時、これは合衆国政策となりました。例えばベーカー国務長官は、占領地におけるイスラエルの入植活動を中止する見返りとして、サウジにイスラエルの経済ボイコットを中断するよう提案しました。
「ライターのシンクタンク」
しかしながら、結局のところ、外交政策研究所の重要な活動は研究と執筆です。これは、研究員が極めて重要性を持つことを意味します。そのために、それに関して一言述べることでまとめとしたいと存じます。
理想的なシンクタンクの分析家は、関心の広さ、素早く品良く書ける筆、時宜にかなった話題に合わせる能力、自分をその路線に置く意欲を持っています。政府やメディアのやり方を知っている人、学識を執筆する一方で、何もかも落として5時間後に最高のオプ・エド記事を生み出せる人を求めています。よいラジオやテレビの出演は助けとなります。理想的な分析家は、真剣な研究関心で、メディアあるいはジャーナリストの嗅覚を持つ学者でもあり得ます。興味深いことに、近年の新たなスタッフの大半は、フリーランサーとしての差し迫った経験を持つか間に合ったかのいずれかです。否定的に述べるならば、大学やメディアや政府に全く合致しないと思う人々を探しています。なぜなら、そういう人々は、その全ての少しずつを望んでいるからです。
高品質の仕事を醸成するために、自分自身の関心に沿った最大限の自由を研究者が持つ環境を作り出そうとしています。これは、安定した環境を提供し、研究者の時間に対して最小限の要求をすることを意味します。最も重要な仕事は、自分自身の企画で働く単独の執筆者によって常になされることを留意しつつ、外交政策研究所は研究者達に、自分のテーマ、ペース、フォーマットを選ぶ最大限の自由度を与えます。このアプローチに合わせて、やむを得ない目的がある時のみ、論文を委託したり、会合を開いたりします。三十年前、会合は重要な催しでしたが、今日では、率直になるなら、大半の人々がほとんど共著や会合議事録に留意を払わない程度まで増殖してしまいました。
同時に、革新的な企画や重要性が増し、合理的に請け負える案件を見出そうと私共は懸命になっています。ソヴィエト連邦で今起こっている諸変化を考慮するならば、非ロシア国民やリベラル知識人やロシア贔屓の反動家に集中すべきでしょうか?ラテン・アメリカに関して、民主化あるいは負債を強調すべきでしょうか?産物や戦略的鉱物は明日の話題ですか?この路線に沿って、外交政策研究所は最近、二つの主要なプログラムを実施しました。親米的な暴君によってつくり出された友好的な暴君のディレンマに関する三年に及ぶ研究と、自由の変遷に関する、クレムリンの鉄の法則の緩和に引き続く諸問題という二年に及ぶ研究です。
あるジャーナリストが最近、当研究所を「ライターのシンクタンク」だと描写しましたが、これはまさに適切な要約だと思います。彼の表現は、この講話の最初に私が提示した問いの答えでもあります。どのようにフィラデルフィアの小さな研究所は、合衆国政府の諸活動に影響を与えることができるでしょうか?正しい主題を取り上げることによって、時期にかなった方法で取り扱うことによって、そして、読者を獲得する、理路整然としっかり書かれた分析を提供することによってです。要するに、公開討論における声を勝ち取ることによって影響力を行使するのです。
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2007年12月28日追記:保守系研究所の役割に関する別の黙考については、クリストファー・デムスの『シンクタンクの機密』を参照のこと。アメリカン・エンタープライズ研究所の会長としての22年間を論評している。
2012年6月6日追記:フィラデルフィア外交政策研究所の上級フェローのジェームス・クルスが、「なぜこのシンクタンクは他のあらゆるシンクタンクと異なっているのか?」で、大凡同じこの話題を取り上げている。