エドワード・サイードの東洋学者全般と特にバーナード・ルイスに対する1975年の攻撃は、今でも継続中の討論を喚起した。ルイスは『他者が我々を見るように』で (1) サイード事例の弱さ (2) 東洋学者事業の価値を議論する助けとなる強い支援、を奮い起こしている。その書の大半は、西洋人、ムスリム、中国人、日本人、インド人が相互を見てきた方法を熟視している。巻末の短い区分では、一方でムスリム、他方で中国人とインド人の間の相互認識を考察している。
幾つかの章が優れている。フェドワ・マルティ=ダグラスは、東洋学者と帝国主義を結びつけようとするサイードの試みがなぜ失敗しているか(「一人の学者はもう一人の東洋学者である」)を示す。G・M・ウィッケンズは、ソフト・ポルノのハーレム型生活に対する東洋学者の責任を放免する。ウィリアム・E・ナフは、日本事例でサイードのパラダイムの全くの見当違いを提示する。そして、カール・ステーンストロップは、(あまりにも突飛だが重要な洞察なので「ある言語で些細なものは、翻訳においても些細である」と持ち出しつつ)異文化間研究の全事業を思索する。
恐らく『比較文明評論』の合併号として出版されたからであろう、この優れた書は全く曖昧な存在へと導いてしまった。しかしながら、今や発行元は『他者が我々を見るように』の広告を出して頒布し始めるべきだ。それに失敗するなら、別の会社に回すべきだ。