アメリカの歴史家で政治コメンテーターのダニエル・パイプス氏は、中東フォーラムの設立者で査読付『季刊中東』誌の元編集者です。中東事情、特にシリアに関する専門性と急進主義イスラームの分析で広く認められています。最近、自由思想映画協会で「イスラーム対イスラーム主義」に関して語るため、オタワにいらっしゃいました。講演前に『オタワ市民』紙の編集委員会とお会いになりました。
・ご自身にとっての関心事について導入コメントを少しお話しくださいますか?
関連するものの異なった二つのトピックを扱っています。一つはイスラーム主義で、今晩お話しようとするものです。もう一つは中東政治です。
中東は必ずしも活気に溢れてはきませんでした。オスマン人の征服(15世紀)と第一次世界大戦の間の400年間、地球上でおよそ最も静かな場所でした。ですが、(第一次世界大戦後に)全てがひっくり返った時、10年間ありました。ある意味で、過去90年間はこの期間の動乱から出て来たものでした。今日のその地域の異常な揮発性は、政治境界線と忠義があまりにも不安定だったためです。
シリアでは、40年間あの国を支配してきたアラウィ派という小さなポスト・イスラーム一派が、多数派のスンニー住民に挑戦を受けているのです。その過程は、多くの方法で大変不快で野蛮ですが、よりずっと深刻になり得ます。
エジプトは、何か劇的なことが起こらなければ、経済崩壊へと向かっています。年に大凡300億ドルか400億ドルの赤字経営です。イエメンも同様で、崩壊国家寸前です。イラクに関しては、米国関与が(アメリカ兵)5000人の死者と3兆ドルに費やされましたが、綻びかけています。
トルコでは、多くの方向性を取れる反世俗革命が起こっているのを見ていますが、西洋から離反しつつあるのは明らかです。
イランでは、主要項目はもちろん、数ヶ月あるいはひょっとしたら数週間後にさえ目的に到達しつつある核兵器貯蔵です。イランは爆弾所有を宣言するか、爆撃されるでしょう。ですが、イランにとっても別の話があります。政府に我慢できないのはイランの人々なのです。私が引き出せる最高の類例は、1970年代のソヴィエト連邦です。ソヴィエト国家はまだ強力でしたが、虚ろでした。なぜなら、もはや誰も信じてはいなかったからです。同様に、今日のイランには大きな疎外があります。
イスラエルに関しては、相変わらず敵に包囲されていますが、同時にとてもとても上手にやっています。1月の選挙だけでも、それを確証しました。全て国内問題でした。食品価格、不動産、公共生活における正統派の役割、軍事、課税、赤字でした。
・シリアの紛争が継続するなら、長期的に何が起こるとお考えですか?
私見では、シリアには二つの党があります。一方が他方よりもっと悪いのです。実は、反逆者達はアサド政権よりもっと悪いのです。アサド政権に対しては、気が進まない以外の何もないので、私は護教家というものでは決してありません。好意的に私が言える唯一のことは、急進的なイデオロギーを促進してはいないということです。アサド政権はイデオロギーを持っていません。ただ貪欲で暴虐です。イスラミスト達とは違って、グローバルな野心を持っていません。
私の当初の傾向は、(アメリカの外交政策の見地から)シリアを離れることでした。ですが、アサドが屈服していくにつれて、我々は彼に屈服して欲しくないと私は思ったのです。この紛争が続くことが我々の利益です。これを言うことは論議を招くことだと私は悟っていますが、我々の治安権益の見地から、シリアのような国を私は見ているのです。人道的関心を無視してはいません。見ていて非常に悲しいのですが、何ができるのか私にはわかりません。
私が思うに、事実起こっていることですが、ハマスがヒスボラと戦時下にあるのを見ることは、西側における我々の権益内にあるのです。スンニー派とシーア派の双方に、相互に戦う急進主義者がいます。私はむしろ、我々と戦うよりも彼らが相互に戦って欲しいですね。
・歴史的見地に入りましょう。キリスト教とは違い、イスラームは一度も理性と啓示、科学と宗教の和解ができませんでした。それは、今日のイスラーム主義と我々の諸問題を巡る鍵となる源泉ですか?
基本的にはそうです。イスラームに関して印象づけられることは、初期(7世紀と8世紀)の成功です。もし、その当時の世界を見渡すならば、ダマスカス、カイロ、バグダッドの都市は商業と技術発展と文学と医学の中心でした。これは、イスラーム文明の偉大な時期でした。その後、状況は紀元1200年頃に止まりました。部分的にはモンゴル侵攻と神権支配の結果としてです。哲学と科学のような事柄に対する突然の硬化あるいは態度がありました。ですが、過去の成功のために、ムスリムであることは、ムスリムが勝ち組にあることだ、霊的な方法と同様に、世界にあって神に祝福されることだ、と感じてきたのでした。
1200年の後の約六世紀間、ムスリムは西側で何が起こっているかを無視しました。欧州の発展に興味がありませんでした。その後、インドとエジプトに欧州人が侵入したのです。例えば1798年にナポレオンがエジプトに侵攻し、状況を劇的に変えました。ムスリムは自問しました。「何が間違っていたのか?なぜ神は我々を祝福するのを止めてしまったのか?」
ある点では、彼らは今日同じ問いを発しているのです。かつては非常にうまくやっていた後で、うまくいかなくなっているムスリム世界の何が誤っているのか?ムスリムに重くのしかかっているのは、今日と比較して、過去における大成功という遺産です。
彼らはこれらの問いに異なった答えを出してきました。欧州人を熱心に見習ったオスマン・トルコの世俗路線を試してみました。今や多くの点で、トルコそのものを含めて、それは拒絶されてきています。第二に、西洋の達成はいずれにせよイスラームから生じたのだから、学ぶべきものは何もないという護教家達がいます。彼らは、科学はムスリムが展開したものに基づいていて、もしコーランを正しく読むならば、現代生活と両立できると言うのです。彼らは自問します。「西洋から学べるものは、我々自身から学ぶものだ」。これは大変人気があり、非常に広まった態度です。
より近年では、原理主義者達が言っています。「いや、もしイスラームが千年前のように強くあって欲しいならば、千年前にしたように暮らさなければならない。それは、シャリーア法を遵守するイスラームの生活様式を意味するのだ」と。
・西側へのイスラミスト攻撃は、多世代の紛争になるでしょうか?状況は悪化していくでしょうか?
これ(紛争)は、世代とナチ支配の12年間の間のどこかにあるだろうと私は考えています。もし1943年に見渡したならば、千年帝国が可能だったと恐らくは考えたでしょう。しかし、12年ももちませんでした。イスラーム主義はそのようなものだろうと思います。
事実、イスラーム主義は大凡その極致にあると私は申します。もっと強力になったように思われる反面、ムスリム達が相互に戦っています。シリアでは、シーア派のイスラミスト達がスンニー派のイスラミスト達と戦っているのみならず、スンニー派の中でも戦っているのです。エジプトでは、サラフィー派がムスリム同胞団と戦っています。どこでも分裂があり、(西側にいる)我々は、これを奨励したいのです。
イスラーム主義は、ファシズムや共産主義のように全体主義運動です。ファシストや共産主義者達と戦うために用いたテクニックから、我々は学ぶことができました。
第一に、西洋諸国の政策は、いつでもどこでも、常にイスラミスト達に反対すべきです。ナチに反対するようなものです。彼らと協働しません。彼らは野蛮な敵です。我々の間で暮らし、大変礼儀正しくあろうとしているかもしれませんが、彼らは敵なのです。
第二に、常にムスリム世界のリベラルな世俗派のモダン要素と協働しなさい。彼らは将来のための希望です。中東と現代世界の希望です。
第三に、より多くの法の支配、より多くの市民社会、より多くの政治参加に向けてプッシュすることに常に基づいて、必要とあれば、暴君と協働しなさい。1981年に(元エジプト大統領のホスニー)ムバーラクが権力を掌握した時、我々が彼をあまり暴君的でないようにプッシュしたならば、2011年までには、ずっとましなエジプトだったかもしれません。
それがますます長く続けば状況が悪化するかって?わかりません。エジプトで見ているものは、イスラミスト達に対するある反応です。これには幾ばくか望みがあります。イスラミスト達が自らを示すにつれて、反イスラミスト応答が浮上するだろうと期待できます。エジプト人達がこの問題にどのぐらい素早く目覚めるかを見て、私は励まされます。
ですが、私の格別な関心事は、西洋におけるイスラーム主義の増大です。私はテロを戦術だと見ます。あまりいい戦術ではありません。小さな規模では、ボストン爆撃は何を達成しましたか?もっと大きな規模では、9.11は何を達成しましたか?もし私がイスラミストならば、メディアや法廷や教育制度や政治過程で仕事を得るために皆と協議するでしょうに。どのように影響力を得て、自分の方向に社会を変えるかなのです。テロはあまり生産的ではありません。…もしあなたがイスラミストならば、現存する諸機関を通して働く方がましだったでしょう。
イスラームは民主的であり得ます。現代的になれます。進化していますが、ちょうど今はイスラミスト達が優勢な悪い期間にいるのです。この時期は過ぎ去っていくと私は考えており、モダンで穏健で善隣的なイスラームの型であり得ると期待しているのです。ジハードは、歴史的に意味されてきたものを意味する必要はありません。非ムスリムに対するムスリムの至上主義です。それは進化できます。
・イスラーム主義が北米で影響を拡大していると思われますか?現実的に言って、これはどのように起こっていますか?
一例は、私が西洋のハーレムと呼ぶものです。今や英国では、もし複数の妻を伴ってムスリム国から来るなら、合法だと受け入れられます。多くの他の地域でのように、シャリーア法が適用されているのです。お酒を入手できない場所がロンドンには幾つかあります。英国では百のシャリーア法廷のようなものがあります。民事法のみならず刑法も扱う完全な私的法廷です。もし問題があるなら、警察には行くなとムスリムは言われています。シャリーア法廷に来るように、と。ますますムスリムはそうするよう圧力をかけられていると感じています。これは政府外ですが、実は反政府なのです。20年前には存在しませんでしたが、今では増加中です。
スポーツでは、ムスリム選手から別のロッカー・ルームの要求があります。ラマダンが学校で遵守されなければなりません。学校の台所は、話し合いなしにハラールにされています。刑務所の部屋は、何とかしてメッカの方向に向いています。病院では聖書や十字架が消えています。
フランス政府によれば、パリ周辺には警察が行かない(数百の)立ち入り禁止地域があります。シャリーア法が適用されるのみならず、非ムスリムが歓迎されないムスリムだけの地帯に向けて増大中の運動もあります。
これはテロではなく、西洋社会の緩慢なイスラーム化なのです。
過激なイスラームとの闘争における楽観主義
ロバート・シブレイ
オタワ市民
2013年5月24日
[注:上記のインタビューは、以下に引き続くコラムの一日前に行なわれた。]
25年前、戦闘的イスラームの脅威に心を配った西洋人はほとんどいなかった。確かに中東の通常の動乱はあった―1991年の第一次湾岸戦争を想起せよ―そして、イスラエルに対する絶え間ないテロリストの襲撃、別な方法では第一次インティファーダとして知られるもの、風変わりな航空機やバスの爆発である。だが、少数の原理主義狂信者が西洋に対する本格的なテロリスト・キャンペーンを正当化するためにイスラームを悪用するだろうという考えは、大半にとってこじつけだった。
このように考えなかった少数の一人が、アメリカの歴史家ダニエル・パイプス氏だった。『季刊中東』誌の発行者で、中東問題に関して12冊近く執筆した著者は、1995年に書いた。「大半の西洋人達に気づかれないまま、欧州と米国に戦争が一方的に宣言されてきた」。表面上は孤立したテロ攻撃―例えば、1993年の世界貿易センター爆破あるいは同年に300名ほどを殺害したボンベイ爆破―は、世界中の反西洋ジハードにおける盛り上がりの一部だったのだ。
9.11攻撃後にようやく、西洋人は自分達の文化が包囲されたと考え始めた。パイプス氏が2003年の著書『戦闘的イスラームがアメリカに到着』で論じたように、イスラミスト達は「自由の土地にまさにシャリーア法を加えるようとしている」のだ。もちろん問題は常に、西洋がどのように、なぜ応答すべきかだった。
最近、自由思想映画協会が主催した催しで、パイプス氏は「イスラーム対イスラーム主義」についてこの問題を講演するため、オタワにいた。講話の前に『オタワ市民』編集委員会と彼は会った。
パイプス氏は、信仰としてのイスラームとイデオロギーとしてのイスラーム主義を注意深く識別する。「私は反イスラームではありません。反イスラミストです...。私はイスラーム主義をファシズムや共産主義と同じ土台に置きます。他の極端な宗教の型と比較するよりも、それはよりずっと役立ちます」。
問題は、数世紀間、西洋文化の主軸だった伝統や価値をゆっくりと侵食している、欧州と北米の社会で影響力を獲得中のイスラーム主義者のイデオロギーであると、彼は述べる。彼が指摘するのは、例えば英国でムスリムの重婚実践を許可したり、シャリーア法の受容が増したりすることである。「お酒を入手できない場所がロンドンには幾つかあります。英国では百のシャリーア法廷のようなものがあります。民事法のみならず刑法も扱う完全な私的法廷です。...シャリーア法が適用されるのみならず、非ムスリムが歓迎されないムスリムだけの地帯に向けて増大中の運動もあります。これはテロではなく、西洋社会の緩慢なイスラーム化なのです」。
西洋人は、と彼は言うのだが、イスラーム主義者のイデオロギーは、リベラルな民主主義にとっての脅威として、ファシズムや共産主義と同等だと認識する必要があり、それと戦うためには、敵を知る必要がある。「ちょうど医者が病気を確認し理解することなしには診断できないように、イスラーム主義が何かを同定することなしには戦えないのです」。
敵を知るためには、敵の歴史を知ることが助けになる。「イスラームに関して印象づけられることは、初期(7世紀と8世紀)の成功です。もし、その当時の世界を見渡すならば、ダマスカス、カイロ、バグダッドの都市は商業と技術発展と文学と医学の中心でした。これは、イスラーム文明の偉大な時期でした。その後、状況は紀元1200年頃に止まりました。部分的にはモンゴル侵攻と神権支配の結果としてです。哲学と科学のような事柄に対する突然の硬化あるいは態度がありました」。
約六世紀間、ムスリムは、関心を持つには遅れ過ぎているので欧州を無視できたが、彼ら自身の文化的優越性に関するこの自己満足は、欧州人が西洋を顕著にするための探究に彼らの科学や新しく見出した刺激を用いるにつれて、18世紀末と19世紀に台無しとなった。これが劇的に状況を変えた、とパイプス氏は言う。「ムスリムはこれを見て自問しました。『何が間違っていたのか?』」
それは、彼らの文化の過去の成功を考えれば、なぜ今日ではうまくいっていないのだろうかと不思議に思いながら、彼らがまだ発している問いだ。「ムスリムに重くのしかかっているのは、今日と比較して、過去における大成功という遺産です」。
この重さをはじく努力は異なっていた—世俗的な欧州を熱心に見習うことから汎アラブ社会主義や民族主義までの全てだ。全部失敗した。そして今ではイスラミストの応答がある。「原理主義者達が言っています。『いや、もしイスラームが千年前のように強くあって欲しいならば、千年前にしたように暮らさなければならない。それは、シャリーア法を遵守するイスラームの生活様式を意味するのだ』と」。
驚くべきことにパイプス氏は、恐らくイスラーム主義のテロ・キャンペーンが究極的に失敗するだろうと考えている。「もし1943年に見渡したならば、千年帝国が可能だったと恐らくは考えたでしょう。しかし、12年ももちませんでした。イスラーム主義はそのようなものだろうと思います」。外的強さという外見にもかかわらず、シリアとエジプトのような場所でムスリムが相互に戦っていることにパイプス氏は気づいていて、ここから励ましを得ている。エジプトの動乱の多くが、イスラーム主義項目に対する揺り戻しである、と彼は示唆する。
イスラーム主義のテロが問題であり続けるだろう一方で、もっと大きな懸念は、西側の諸機構でイスラーム主義者達が影響力を獲得することだ。「私はテロを戦術だと見ます。あまりいい戦術ではありません...。もし私がイスラミストならば、メディアや法廷や教育制度や政治過程で仕事を得るために皆と協議するでしょうに。どのように影響力を得て、自分の方向に社会を変えるかなのです」。
そのような変化は実現するだろうか?次の25年以上で見つけ出すだろうと私は思う。
・ロバート・シブレイは『オタワ市民』紙の編集委員で現在は編集委員会に属している。