先月、イスラエルでバル・イラン大学のレンネルト・エルサレム研究センターから「シオンの守護者」賞を受賞したのは、中東学者で著述家のダニエル・パイプス氏だが、手心を加えなかった。キング・ディヴィド・ホテルに集まった著名な学界人、政治家、実業家、メディアを前に行った受賞講演で、彼はやり方を講じた―恐らく、最近の彼自身の孤独な行程では当然のことなのだろうが、いくら控えめに言っても型破りだった。ユダヤ人国家とその首都への献身を告白した彼の前任者達が焦点を当てた型通りの演壇課題からは、確かにかけ離れていた。土地とイスラエルの人々との心からの連携を強調するよりは、彼はむしろ「ムスリムのエルサレム要求」に関する講演をしたのだ。
『エルサレム・ポスト』紙の週刊コラムにもあるように、著述のトレードマークであるいつもの明瞭さと学究的な史実データへの忠実さで、何らかのアラブの「アル・クドゥス」(エルサレム)要求であるものと、それが常にただ功利的だったことを示すために、パイプス氏は経験上の証拠を出した。それだけだ。
ダニエル・パイプス「基本的な問題は、アラビア語を話すムスリム達が現代生活との対処に多大な困難を抱えており、自分達の問題を他者のせいにすることです」(写真:Ariel Jerozolimski) |
前年までとは識別される例年の授賞式とは違ったもう一つの特徴は、講演に引き続いて、聴衆からの質問のためにフロアを開いたことだ。これは、祝祭ディナーに討論の趣を添えた。この場合は、数百名の出席者の間で、懐疑主義あるいは敵意よりも明らかにもっと落ち着いた感覚の合意があった。イスラミスト議題という描写のために、中東フォーラムのキャンパス・ウォッチ企画を通して北米の諸大学の中東研究部門を苦しめる彼の呼びかけのために、学術的な過誤だと彼が考えるもののために、左派から一貫した攻撃の下にあるパイプス氏にとって、それは通常ではない経験だったかもしれない。
そしてまた彼は、右派の政治的で知的な元同盟者達の中で人気コンテストに勝って来たのではない。すなわち、保守派が最初にアリエル・シャロンの一方的な解消計画という知恵を巡って分かれてからではない。ブッシュ政権で任命された新保守派達が、その他の多くのブッシュ支援者達のように、アメリカ大統領の諸政策やイスラエル元首相に忠実であり続けた一方で、パイプス氏のような他の人々は、両者について警告ベルを鳴らしてきた。
授賞式の前夜、キング・ディヴィド・ホテルのスィートルームで行った『エルサレム・ポスト』紙との一時間の長きに及ぶインタビューで、パイプス氏はイスラエルの根本的な失敗だと自分が考えるものを正確に指摘した。それは、勝利に動機づけられた戦闘から紛争管理への移行である。
「結局、一方が勝ち、他方が負けるのです」と、彼は肩をすくめて事もなげに言った。彼の穏やかな調子はそのメッセージとは調和していないようだ。「あまりにも驚くべきことは、現代的で洗練されていてグローバル化した国であるイスラエルが、これを理解していないように見えることです。勝つ必要性に気づいているイスラエル人はほとんどいません。外部者として、私はイスラエル人が要所を理解しないので、不満を抱いて見守っています」。
・この特別賞を勝ち取ったことは驚きでしたか?
ええ、驚きでした。
・なぜ?
そうですね、先行受賞者は私が尊敬する人々でしたので、自分がその中にいるとは全く考えませんでした。(以前の受賞者は、ウィリアム・サファイア、アーサー・コーン、ルース・ヴィッセ、チャールズ・クラウトハマー、シンシア・オジック、マルティン・ギルバート卿、A.M.ローゼンタール、ハーマン・ウォーク、エリー・ヴィーゼルである。)
・自分が「その中に」いるとはお考えにならなかったのか、それともイスラエルに関して先行受賞者の方々と見解を共有していないということですか?
この賞を勝ち取った人々は、タイトルが示唆するように「シオンの守護者」でした。換言すれば、イスラエルの防衛者です。その描写は私にはあまりよく合致していません。もし何かあるとすれば、私はイスラエルをこきおろしています。
・なぜイスラエルを「こきおろして」いらっしゃるのですか?
イスラエル人はアラブ人との関係のこと、もっと明確には、戦争目標のことになると、迷ってしまうのです。私はイスラエル人を批判します―意味しているのは、明確には指導者層ではなく、国家のことです。というのは、紛争管理はなされうる最善だと考えるからです。
・反対したので…?
勝利に反対したので。過去十五年の行程を巡って、紛争の管理の仕方についての提案の主催者を見てきたのです。これらの提案の幾つかは政府の政策になりました。その他の多くは単に提案です。左派から右派まで共通しているのは、この紛争を勝利不可能な、ただ管理可能なものとして見ていることです。
分離壁は好例です。私は賛成です。明らかに、いわゆる殺人者を締め出す効果があったし、それが完成する時、将来はもっと効果があるでしょう。でも、壁というものは紛争に勝利する方法ではありません。壁は戦争に勝利する戦略法ではなく、自らを守る戦術的メカニズムです。戦争に勝つことは、敵に自分の意志を強制するために想像力―展望―を要請します。それは典型的に勝利が意味するものです。敵に自分の意志を強制することです。それは敵を虐殺したり不毛にしたりすることを意味するのではなく、敵方の目標を放棄させるのです。この概念がイスラエルの政治議論には実質的に欠けています。
・イスラエル人はアラブ人との関係において「迷った」とおっしゃいます。これは移行を含意します。紛争勝利を目指すことから、ただ紛争管理へという移行が起こったのは、いつだとお考えになりますか?
1982年のレバノン戦争と1993年のオスロ合意の間の十年間に深い移行が起こりました。
・ご自身とレンネルト受賞先行者の方々との間では、イスラエル批判が唯一の相違ですか?
いいえ、もう一つあります。イスラエル防衛よりも、私はムスリムに焦点を当てます。英国のイスラエル諸大学のボイコットあるいは国連でのイスラエル偏見には時間を費やしません。私はイスラエルを正当化しません。主にパレスチナ人、アラブ人、ムスリムの見地からイスラエルを見ているという意味で、私はそのパターンに合致しません。私の仕事は、シリアやパレスチナ人などを見るほどにはイスラエル防衛にそれほど関与していません。
・アラブの「見地」というものが本当にありますか?結局のところ、世界のアラブ・ムスリム諸国にはあまりにも多くの相違がありますが。
アラブ・ムスリム諸国の間には途方もなく多くの相違や例外がありますが、私は概して一つの見地という広い概略を描けると考えています、はい。
・それでは、アラブの見地から、敵に負わせる意志を構成するものは何ですか?
イスラエルとアラブ人の間のこの紛争は、戦争目標によって定義されると理解しています。イスラエルの戦争目標はアラブの敵達の受諾を勝ち取ることで成り立ちます。特にパレスチナ人の受諾です。受諾とは、もう力を行使しないことを意味します。あるいは、その事項での他の意味は、ユダヤ人国家を除去することです。アラブ戦争の目標は、反対に、ユダヤ人国家を除去することです。これを二元法で見ています。つまり黒と白としてです。一方が勝ち、一方が負けるのです。妥協は起こり得ません。オスロは妥協における大実験でしたし、それは失敗しました。結局のところ、一方が他方に意志を強いるのです。
さて、もしアラブ人がイスラエル人に意志を強いるならば、それが意味するのは、ユダヤ人主権国家はないだろうということです。パレスチナあるいはアラブの支配下で暮らすユダヤ住民というものはあり得ます。あるいは、ユダヤ人の逃亡があり得ます。彼らが殺されることもあり得ます。でも、もうユダヤ人主権国家というものはありません。
イスラエル人が勝つならば、どれほど不承不承であっても、イスラエルがそこにあり、生活の事実が永久にあるということを、アラブ人は認識します。彼らは交換する必要はありません。あるいは学校でヘブライ語の授業を支援する必要もありません。これらは素晴らしいことでしょうが、必要ないのです。かつてそうだったように、冷たい平和というものは機能するでしょう。でも、エジプトとの冷たい平和とは違って、真に受諾がなければならないのです。
あまりにも驚くべきことは、現代的で洗練されていてグローバル化した国であるイスラエルが、これを理解していないように見えることです。勝つ必要性に気づいているイスラエル人はほとんどいません。外部者として、私はイスラエル人が要所を理解しないので、不満を抱いて見守っています。
・そしてパレスチナ人は?
パレスチナ人は、同じ洗練された高さを縮尺で測ったことのない人々ですが、皮肉にも、彼らの目標は勝利することだと実に理解しています。
・これはワシントンからの圧力とどの程度つながっていますか?
ワシントンとほとんど関連せずにイスラエル人がどのように自らの運命をつくっているか、私は今まで十五年間印象づけられてきました。1967年戦争まで、大ざっぱにその関係を見れば、ワシントンはイスラエルに外交圧力をほとんど行使しませんでした。というのは、アラブ側と交渉する人が誰もいなかったからです。しかしその後、六日戦争の最中でさえ、リンドン・B・ジョンソン大統領が和平のための土地政策の概略を公式化しました。この数十年後になってもまだ、アラブ・イスラエル紛争に対する米国外交政策をこれら全てが動機づけているのです。
(エジプト大統領アンワール)サダトが就任した時、特に1973年に本当に続いたその外交と共に、これはもっと現実的になりました。
次の二十年間は、いつもの緊張がワシントンとエルサレムを分裂しました。ワシントンはエルサレムに清水の舞台から飛び降りろと助言しました。そして、エルサレムは警戒で応答しました。アラブ人はアラビア語で一つのことを言い、英語で別のことを言う、つまり誠実ではないと指摘しました。
この緊張は1993年に最終的に解決しました。イツハク・ラビン(首相)の下でイスラエル政府が言った時です。「よろしい、合衆国さんよ、あなたは正しい。やってみましょう」。
それ以来、基本的に緊張はありませんでした。(ベンヤミン)ネタニヤフ(首相)下でちょっとした一時的な骨折りがある他は。
ワシントンとエルサレム間の合意の程度は、エルサレムのイニシアティブだったので、注目すべきものでした。三つの例を考えてみなさい。オスロ合意はオスロでなされ、ワシントンではありませんでした。アメリカ人達にそれについて知らせないままにするためです。エフード・バラク(首相)とビル・クリントン(米国大統領)の在任末期の2001年1月に、バラクがクリントンを押して、タバで最終的に問題を解決する準備を提案しました。そして、(アリエル)シャロン(首相)が2003年11月にガザに関して心変わりをしたことです。
・「占領」についてはどうですか?これの役割全体は何ですか?
パレスチナ人は、イスラエルが何をしようとも―ガザからの完全撤廃さえも―占領が継続しているという点まで、占領という概念を大切に持っています。イスラエル人は、通貨や光熱水料その他の多くの点で「非占領」しようと努めています。そしてパレスチナ人は言っています。「いや、俺達はお前達の望まれない養子だ。俺達はお前達のものだ」。
彼らは'ihtilal'(占領)という語を見つけました。とても役立つ言葉です、国内的にも国際的にも。
・究極的なパレスチナの戦争目標は何ですか?その後、国家あるいはイスラエルの排除ですか?
まぁ、絶対にイスラエルの排除です。つまり、パレスチナ人国家というものの概念に関するよりも、これに関して遙かに広い合意があります。イスラエルの管理地域をシリア南部にすることが、1950年代初期にアラブ政治を突き動かしたことを想起しなさい。その後、1950年代末と1960年代初期に汎アラブ民族主義の全盛が来ました。今日ではハマスがイスラーム国家というものに向けて争っていますが、その国境線は委任統治領パレスチナの国境である必要はありません。これらの全見解は、イスラエルの排除を必要とする点で合意していますが、何がそれに置き換わるべきかという点で不一致です。
・エジプトとヨルダンの政権について、今ではパレスチナ自治政府の混沌の結果として、不安定化の危機にあると多く語られています。もしそうならば、なぜこれらの国々は、イスラエルよりもパレスチナ自治政府ともっと活発に与しないのでしょうか?
パレスチナ問題は大半のアラブ指導者達にとって難問です―命懸けで乗るものです。外部から政権に挑戦する潜在性を持っています。それで、彼らは非常に警戒してその問題を扱うのです。大半のアラブ指導者達は、特にヨルダンとエジプトの指導者達は、この紛争を終わらせたいと思っています。実際に、いずれの場合も、イスラエルとの公式の和平合意に署名することによって前任者達が手を引こうとしてみました。
・なぜそれが成功しなかったのですか?
いずれの場合も、住民が否と言ったのです。彼らは政府に委任状を与えてしまい、言ったのです。「ほら、指導者さん達よ、あなた方は反シオニズムの担当をしているんですよ」。
指導者達が公式の和平合意に署名することで裏切った時―エジプトは1979年、ヨルダンは1994年―大衆の反応は「代理人を撤回している。これを自分達でしなければ」でした。
イスラエルに対する一般の態度に歯止めがかかっているのがおわかりでしょう。
私はイスラエルとの和平合意の署名前、三年間エジプトで暮らしました。イスラエルはめったに話題でさえありませんでした。エジプト人は、イスラエルと取引をしているかイスラエルに送金していると噂された会社の経済ボイコットに従事しませんでした。イスラエル憎悪を祝す歌もありませんでした。政治劇画はイスラエルに対して不快でしたが、ただ政治的にであり、宗教的にではありませんでした。
1979年の後に、それ以前よりも遙かに深い反イスラエル感情を見ているというのが私の結論です。ヨルダンに対しても同じです。国王が格別に温かいイスラエルとの合意に署名しました。大衆の反応は「ノー!取引はしない。イスラエルとの他の形式の接触は持たないぞ」でした。
・これは何を含意しますか?
共通認識とは反対に、自らの背任行為から注意を逸らせる安っぽい方法として、イスラエルとのトラブルを助長するアラブ政府によれば、イスラエル問題はアラブ政府を怖がらせる草の根問題なのです。私達はこれを目撃しました。例えば、2000年末から2001年初期の暴力期間にアラブ街で大規模デモが発生した時、政府は極めて慎重に扱いました。ある首相は連帯を示す中でデモを率いたかもしれませんが、明らかにそれについて神経質でした。
・最近のエジプトとヨルダンの政府の行動に関して何かコメントは?
彼らは1967年以前の役割に戻り始めてしまいました。エジプトはガザで、ヨルダンは西岸で、です。1967年6月5日前に享受した管理のように、何も威力を及ぼしませんでしたが、両政府は今―イスラエル人を引き戻してハマスが権力において高潮しています―元の領域で何が発生しているか、神経質に関心を持っています。
・ガザ解消を好んだ多くのイスラエル人は、撤退の成功は混沌のうちに見られると言っています。ハマスとファタハの間のパレスチナ自治政府で今起こっているもの―恐らくは内戦か、と。
私は異論を唱えます。第一に、イスラエルの撤退とパレスチナ自治政府における無秩序―ずっと前に始まったものです―の間に因果関係は見られません。私は「増大するパレスチナの無秩序」と題するブログで、それを2004年2月から記録しました。
第二に、この暴力がイスラエルに益するか、私は全く確信がありません。短期間には、イスラエルから注意を逸らすという気晴らしはあります。しかし、長期的には、今や自由になったその勢力はイスラエルに害となりかねません。
第三に、これは確かに、それがイスラエルの権益と安全を拡張したかどうかに基づいて、イスラエルの見地から査定される必要のある撤退を判断する方法ではありません。それが拡張しなかったと主張する強い理由があると、私なら申しますが。
・イスラエルのレバノン撤退とガザ解消に至る出来事との間に因果関係はありますか?
私は絶対にあったと考えます。幾つかの証拠があります。第一に、パレスチナ指導者達による多数の声明は、2000年5月にイスラエルの撤退によってどれほど深く彼らが影響されたかを示唆しました。第二に、パレスチナ人の暴力行使を立証しました。これは幾らか背景を要します。
パレスチナ人の間での大討論は、目標を巡るものではありません。イスラエルの排除が、パレスチナ人口の80パーセントの中で一致した目標です。一方、その他の20パーセントは無言です。その80パーセントの中で、その討論は二十年間、イスラエルとどのように最善に取引するかでした。
パレスチナ解放機構の答えはそれに関与することです。詐欺的な声明をつくり、空しい保障を与えることで勝ち取ったあらゆる利益を見なさい。それはパレスチナ自治政府、原始的な軍事力、より大きな世界支援などを得ました。
どちらのためにハマスが答えるかは、PLOが自らの品位を落とし、目的を喪失し、原因の純粋性を裏切ってきたことです。これはパレスチナ人の間で重要な討論でした。
この見地から見れば、ヒスボラによって動かされたイスラエルのレバノン撤退は、交渉なしに、敵と取引せずに目標に到達できると、パレスチナ人達にも合図しました。まさに情け容赦なくドンドン打ち、殺し、攻撃し、年一年とイスラエル人が逃げ出すでしょう。交渉や合意や国際関与の必要はありません。この強力な議論がパレスチナの仲間内で共鳴しました。
・どのように?
この最初の兆候は、2000年7月のキャンプ・ディビッドのちょうど二ヶ月後に来ました。バラクの全く異常な申し出にも関わらず、ヤーセル・アラファトは否と言ったのみならず、いかなる相互交換の提案もせずに否と言ったのです。つまり、彼は米国政府にそこへ行くよう圧力をかけられました。そして彼は現れました。でも、何事に対しても否と言い、協議は崩壊したのです。その二ヶ月後、暴力が始まりました―主としてヒスボラ戦略に鼓舞された暴力です―以前に見られたものとは大変違った型の暴力でした。特に、自爆やヒスボラ戦略や、証言をしているか実際の攻撃光景を示している、いわゆる自爆者を立ち上げるためのビデオ使用です。それで、戦術的であれ戦略的であれ、ヒスボラは模範を示しました。パレスチナ人達にどうするかを示したのです。
・これはガザ撤退にどのように影響しましたか?
昨夏の優勢なパレスチナのスローガンは「今日はガザだ、明日はエルサレム」でした。
力の行使の立証として、彼らがイスラエルのガザ撤退を見たことは問題ありません。私なら彼らを反駁するために追い詰めますね。なぜなら、ガザで暴力がなかったなら、イスラエル軍やイスラエル民間人はまだそこにいただろうということは、私にとって全く明らかだからです。彼らはただ暴力のために去ったのです。
・そして西岸は?
同じことがそこでも当てはまります。もしそこでも撤退がなければ、困難過ぎるようになったからです。状況が辛くなる時、レバノンであれガザであれ、イスラエル人は去るのです。それは暴力が働くというシグナルを送ります。想像するに、エルサレム、ハイファ、テル・アヴィヴでも同様に当てはまるでしょう。
・もしシャロンがワシントンへ行き、解消を提案する代わりに、対テロの一部として、軍事的に敗北されなければならない敵だとパレスチナ自治政府を扱うよう要求したならば、ブッシュ大統領の2002年6月24日の演説の後、ホワイト・ハウスはどのように応答したでしょうか。
それは押し売りだったでしょうね。1993年以来のアラブ・イスラエル紛争に対する米国政策は、1993年以降はパレスチナ人とイスラエル人が「和平パートナー」であるという考えを前提としてきました。戦争は終わり、今や解決の方法手段を見つけることだ、というのです。それ故に、米国政府がタリバンやアル・カーイダに対してするようなことは誤っていて違法で、イスラエルにとってパレスチナ人に対して追求することは、逆効果なのです。イスラエルが平和をつくっている間、アメリカは戦時下にあります。
米国政府は、この次元で処理される必要があるでしょう。「いいえ、大統領閣下、我々は平和にありません。我々は、ちょうどあなた方のように戦時下にあるのです。我々は交渉を試みましたが、失敗しました。米国の広大さがアル・カーイダに対して陣揃いしているところで、ちょうど米国政府が非対称戦に従事しているように、もっと少ない不均衡で、イスラエルもまた、パレスチナ解放機構、ハマス、イスラーム・ジハードに対して陣揃いしているのです」という路線に沿った何かです。
しかし、イスラエル指導者達はそのように主張しませんでした。なぜならば、それは彼らの見解ではないからです。その代わりに、シャロンはブッシュに原則として合意しました。そして、合理的なアプローチで確かに機能したという理由で、実はあまり同意しませんでした。
私は6月24日の演説に反対を表明しました。テロに報いたと私が考えたからです。ですが、イスラエル首相はむしろ米国大統領に巻き込まれたくないということを、私は理解しています。それで彼は言いました。「よいお考えですね、これとロードマップの両方とも」。そしてその後、彼自身の方法を実施しました。アメリカの外交政策分析家として、私はそうする必要はありません。
・アメリカの外交政策分析家として、一方的な領土撤退というイスラエル政策に関して、新保守主義者の間で分裂していることをどのようにご説明になりますか?
私はその分裂をシャロンとシャロンの見解変更に帰しています。彼の個人史や首相であることを考慮すると、彼は右派に多くの信認を持っていました。彼が一つの見解から別の見解へとつま先旋回をするにつれて―一方的撤退反対から賛成へと―、多くの人々が彼と共に行きました。基本的に、彼らは彼に言ったのです。「アリック、私よりも君はこれをもっと深く理解しているし、私よりもさらに見ているよね。じゃあ、君について行くよ」。
・アラブ世界は民主化できますか?
はい。アラブのDNAに反民主的なものは何もありません。
・そのような転換をするようにご覧になりますか。
可能でしょうが、長い時間がかかるでしょう。たくさんの物事が変化しなければなりません。基本的な問題は、アラビア語を話すムスリム達が現代生活との対処に多大な困難を抱えており、自分達の問題を他者のせいにすることです。彼らは、自己批判において内省的でなく、生産的でもなく、建設的でもありません。一つの顕著な例外は、2002年の国連アラブ人間開発報告書だったでしょう。ノートを取らせたものです。ですがそれは、全体として陰謀的な思考態度におけるほんの一握りです。深い変化が起こることを要請するものです。
・何らかの種の変革のような、イスラームにおける深い変化を意味されているのでしょうか?
宗教改革は確かに非常に重要ですが、諸変化はまた、宗教外空間を必要とします。自ら責任を取るという感覚です。何が問題なのか考えるために内省的である試みです。
肯定的な事例があります。例えば、ドバイの支配者であるシェイフ・ムハンマド・ビン・ラシード・アル・マクトウムは最近、『私の展望』と題した本を出しました。彼は注目すべきです。なぜならば、彼は実際に何かを達成したからです。彼はイデオロギーから離れて経済的な成功物語を立てました。彼は、知性と良い実践を通して、これをしたのです。
ですが、そのような肯定的な要素はほとんどなく、ごく稀です。アラビア語圏のムスリム世界は、ムスリム世界全体のように―恐らくはもっとそうでありさえするでしょう―全世界に諸問題をつくり出す、怒り、否認、憤激、急進主義、陰謀主義の状態にあります。それは、現代の文明化した暮らしを送りたいと欲しているムスリム達も含めて、我々全てにとっての脅威です。
・彼らは人口動態的に「我々全てにとっての脅威」だとお考えですか?
ムスリムの人口動態上の高まりは目立っています。しかし、それを一時的だと見なすあらゆる理由があります。欧州はその発展において、ある時点で巨大な人口爆発を経由しました。その後、人口動態的な地ならしがあり、今では崩壊を経験しているところです。多数のムスリム諸国は既に人口動態上の低下を経験しています。
・そして欧州のムスリム人口は?
それは別の話です。欧州女性は、継続のために必要なものが2.1人である時、平均して1.4人の子どもを持ちます。換言すれば、必要とされた人口の三分の一は決して生まれないのです。その三分の一が、主に近隣のムスリム諸国からの移民によって置き換えられています。植民地関係があり、あるいは自分の国の問題のために特に欧州に来たがる人々です。欧州人はこの現象に本当に折り合いをつけていません。人口欠如に適応する方法、もしくは、どの移民を望むかを理解することに悩んでいないのです。
・トルコ選挙の一ヶ月後の2002年12月に、ヘルツリヤの会議に出席されました。そこでは、イスラーム主義政党の権力上昇について悲観的であるために小言を言われました。トルコでは今、状況はどのように見えますか?
事は悪く見えます、特に最近は。(トルコ首相レジェップ・タイイップ)エルドアンは、イスラミスト議題を促進するために動いている、熟練した抜け目なき警戒的な政治家であることが判明しています。外交政策であれ、司法部であれ、軍隊の役割であれ、ムスリム多数派国家との関係であれ、トルコの地域的な立場であれ、イスラミストの影響は主要なのです。
トルコに関する大問題は、エルドアンと同僚が自らを、反アタチュルクの中核として、アタチュルク革命の対抗と見なしているかどうかです。それともアタチュルク構造の内部で仕事をしたがっているかどうかです。
彼らが制度を倒すことを目標とする革命家だと、確かなことは言えません。でも、確かにもっとそのように見えます。時と共にもっとそうなるでしょう。
・ご企画のもう一つ別のものはキャンパス・ウォッチです。関係諸大学が自由な思想の流れにおいてアカデミックな魔女狩りであると非難されてきました。
キャンパス・ウォッチは、格別に米国とカナダの中東研究に関わっています。『砂上の象牙の塔』というマルティン・クレーマーの本に基づいて、我々がこの事業の失敗だと知覚しているものです。我々は実質的な仕事を批判します。過激主義、学生に対する政治見解の強制です。そして、これを一般大衆の注目に持ち込むことで、二つの肯定的な結果が続くことを我々は望んでいます。第一に、中東専門家がもっと警戒するだろうこと、第二に、大学はもっと知的多様性があると保障するだろうことです。
我々は前者には全く成功しました。繰り返し、キャンパス・ウォッチに気づき、もっと警戒する専門家達がわかる場です。後者の分野ではいかなる達成も始まってさえいません。指名がまだ大変に歪んでいます。
・どのように前者で成功されてきましたか?
中東研究の諸問題に注意を惹きつけることによってです。例えば、我々の仕事は、コロンビア大学の中東研究の実にひどいやり過ぎを暴きました。最初にファン・コールに注目しました。イェールへ移る可能性のために、その教授は今や世間の目に多く留まっています。
・中東研究はこの点で他の学問分野と異なっていますか?
いいえ。それがラテン・アメリカ研究であれ、人類学であれ、英文学であれ、彼らは多くの社会科学や人文学の分野を完璧に体現しています。我々は中東に焦点を当てています。なぜならば、それは他分野が欠如しているものに抜きん出ているからです。ジハードのような概念を取りなさい。対テロ戦争を理解するための中心的なものです。そして、イスラーム史家、宗教専門家その他が、ほとんど例外なく言っているのを聞きます。ジハードは道義的な自己改善だと。よりよい同僚になること、女性の権利のために働くこと、アパルトヘイトに対して働くことだ、と。彼らは一般的に、ジハードはムスリムの管理する土地を拡大する戦闘だと、それが真にそうであるものを述べることに不本意です。これは非常に重要な概念です。その理解というものを誰に向けますか?政治家でもなく、メディアでもなく、専門家達にです。そして彼らは、これが何を意味するかについて腹蔵なき態度ではないことによって失敗し、自分の専門を裏切りました。これは偽情報で偽装です。我々が批判するものはそれです。
・2005年1月の勝利演説で、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバース議長が「小ジハードは終わった。今は大ジハードの始まりだ」と述べた時、イスラエル内ではその声明の意味に関して多くの討論がありました。地元の中東分析家の中には、「小ジハード」は戦闘で、「大ジハード」は内面の精神的な上昇を意味すると述べました。彼らが偽情報を広めていたとおっしゃいますか?
この場合はそうではありません。ジハードという語の第二の意味は、スーフィズムから来ています。そして事実、道義的な自己改善を意味しています。ですが、公共空間で用いられる時―オサマ・ビン・ラディンが用いる時、あるいはイスラーム・ジハードによる声明の中で用いられる時―それは通常、ムスリム管理の拡大のための戦闘を指します。
・イスラエルと西洋のどこかで、紛争管理から敵への勝利強制への逆の移行がある状況を心に描いていらっしゃいますか?
わかりません。私は時々楽天的で、こんなことを考えます。勝利を争わないという終わらぬ失敗が、事実上これを理解するよう誰かを導くだろう、と。他方、どのように誤った諸政策が年々続くかを私は見ています。
・9.11に関してこのように楽天的でいらっしゃいましたか?「これを理解するよう誰かを導く」だろうものはその出来事だったと信じていらっしゃいましたか?
はい、その期間のスローガンだった「団結して立ち上がろう」と共に、解決の感覚と共に、タリバン政権を取り消す意欲と共に、そうでした。今は米国内で、戦時下にあるという理解をしている人々と栄光化された警察使命に関与した人々の間で50対50の分裂がありますが、それは私が期待したものではありませんでした。
でも今はその分裂を見たので、2004年のマドリードの列車爆撃や2005年のロンドン爆撃やその他の主なテロリスト事件の後で何が起こったかを見たので、私はもはや驚きませんね。