ラダーツの重要な本のまさに題目に示されているように、イスラームを巡る非ムスリムの議論は、基本的な方法において、西欧と北米では異なっている。『神からアッラーへ』は、「神」(God)がユダヤ・キリスト教の神性であるのに対して、「アッラー」はムスリムの神性であることを示唆する―換言すれば、それらは同一ではないのだ。主導的なフランスのカトリック思想家のアラン・ブザンソンの言葉「聖書とクルアーンの間に連続性はない」という神学議論は、実質的に北米では聞かれなかった。実質的に誰も「アブラハムの子ども達」の三人組にムスリムを含める方向に向かう多文化主義傾向で、問題を取り上げないのである。
イスラーム研究で博士号を有する著者は、ドイツの社団法人のために中東で長期間働き、その後ソフトウェアの会社を設立したが、学究的なルーツへと戻って行った。現代リベラリズムが、その固有の諸問題に加えて、ドイツ国内でますます独断的なムスリム現存と対処するのに、どのように特に不適当かを示すためである。
典型的にドイツ的なやり方で、ラダーツは、その書の最初の半分を、キリスト教とイスラームの広範な歴史と(実質的な前近代の哲学議論も含めて)時代を通した諸文明に捧げることで、舞台装置のため長い助走を取っている。その本の中心部で、西洋社会が一連の「対話」へと分解し、「寛容」を表すにつれて、構造的な衰退を経験していると、彼は論じている。これらは、樹立された文化と権威を、少数派の特権の格別な包囲に賛同して破壊している。
特にイスラームに戻って、このソフトな西洋のアプローチは論理的に、不寛容な目的と政治議題のためにイスラーム言語を使用する人々を見落とさなければならないと、彼は考えている。あらゆる種の結果が続く。例えば、客観的なイスラーム研究の放棄である。教会は、ほとんどイスラームの影響に抵抗していないし、女性の低い地位を受容している。もしドイツ人達が彼らのやり方を変えないならば、ムスリム移住はドイツ国に全体主義的かつ反セム的な衝撃を持つだろうと、ラダーツは予期している。