オリアナ・ファラチさんはイタリアのフローレンスで9月15日金曜日に逝去しました。
最初、彼女が2002年10月に私に手紙を書いて以来、4年間、交流がありました。
彼女との思い出では、2005年11月28日、ディヴィド・ホロヴィツ氏が運営する大衆文化研究センターで彼女に栄誉を授ける催しにおいて、彼女の求めで私がしたファラチさんのご紹介があります。ニューヨーク市の3ウェスト・クラブで行なわれたその夜の講演は、最近の『理性の力』という著書と連動していました。これが、彼女が公に姿を現した最後だったと思います。
オリアナ・ファラチさんのご紹介を大変光栄に存じます。
イタリアのフローレンスで1930年に生まれた彼女は、反ファシストの家庭で育ち、お父様はムッソリーニと闘った指導者でした。ファラチさんは14歳で、レジスタンス運動に参加しました。戦争中の活動によって、イタリアで連合軍長から受賞されました。その後、フローレンス大学に通われました。
早い頃から書くことへの衝動がありました。9歳で「ナイーブな短編小説」と彼女が呼ぶものを書いていますし、(年齢について嘘をついた後)16歳で警察と病院の話題を報道し始めました。ここに、書く経験をどのように彼女が描写したかがあります。
「初めてタイプライターの前に座り、一つずつ滴のように浮かび上がる言葉が白い紙の上に留まるのに魅了されました.....話し言葉が流れていくとするなら、全ての滴は何かになったのです。紙の上では、いいものであれ悪いものであれ、言葉として凝固したのです。」
あまり詩的ではない気分で、彼女はまた認めていました。「私を書くことに本当に押しやるものは、死の強迫観念なのよ。」
ファラチさんは引き続いて、『コリエーレ・デラ・セラ』紙、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌、『シュテルン』誌、『ライフ』誌、『ルック』誌、『ニューヨーク・マガジン』誌、『ワシントン・ポスト』紙、『新共和制』誌を含めたイタリア、欧州、アメリカの多くの出版物のために書きました。
戦争特派員として、私達の時代の主要な紛争を彼女は報道しました。
ハンガリー動乱を報道し、その過程で逮捕されました。
北と南の両方のベトナム戦場で数年間を過ごし、南から投げ出される羽目になりました。
ラテン・アメリカで革命について報道しました。たった二人の生き残りの一人が彼女だったメキシコシティのトラテロルコ虐殺のみならず、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビアもです。(1968年のオリンピックに巨大な金額を費やすメキシコ政府の決定に反対する示威運動で、彼女は捕まりました。肩や背中や膝に弾丸の破片を受けながら、ファラチさんは警察に発砲されたのです。)
レバノン内戦とクウェート戦争を報道しました。
オリアナ・ファラチ |
彼女は、アヤトッラー・ホメイニーをインタビューした唯一の人です。6時間かけました。ある時点で彼女は憤慨して、ご記憶のようにチャドルを剥ぎ取り、高僧の前にチャドルを持ち上げました。
挑戦的なインタビュー術で知られたファラチさんは、予期せぬ暴露をすることへとテーマを追い立てました。「戦争についてお話しません?」と1972年のインタビューで、彼女はヘンリー・キッシンジャーに挑みました。恐らくは、アメリカ人が最も良く覚えているものでしょう。このインタビュー前、キッシンジャーは自分の人生や人となりのことを報道でほとんど露わにしませんでした。ファラチさんは、なぜほんの一外交官がそのような名声を享受したのか、会話中、国務長官の発話後に、説明するよう続けました。彼はその質問をさっと交わしましたが、最終的に折れました。「時々」と彼は言いました。「お望みならば、私は自分が一人で馬にまたがってキャラバンを率いている、荒々しい西部物語のカウボーイだと考えています」。このように、キッシンジャーはどのように自分を考えているかを明らかにしました―英雄的な、米国政策の方向性をコントロールした印象的な指導者として―そして結果的に、大々的に批判されました。何年も後でさえ、キッシンジャーはファラチさんとのインタビューを「これまで報道人とした中で最も破滅的な会話」だと言及しました。
彼女のインタビューはまた、尋常ならぬ詳細を含みました。例えば、ヤーセル・アラファトについては、彼の「分厚いアラブの口髭と背の低さは、小さい手足や太い両足、どっしりした胴体、巨大なお尻、膨らんだお腹と組み合わさると、かなり奇妙に見える」と書きました。彼の頭や顔を非常に詳しく描写しました。「ほとんど頬や額がない。赤くて肉感的な唇の大きな口、攻撃的な鼻、催眠術をかける二つの眼に、すべてが要約されている。」
伝記作家であるジル・M・デュケインは、ファラチさんを「現代で最も偉大な政治家インタビュアー」だと呼んでいます。
彼女は13冊の本を書き、2冊を除いて全て英語に翻訳されました。全部で26言語に訳され、31ヶ国で出版されてきました。
最初の『ハリウッドの七つの罪』はイタリア語で1958年に出ましたが、オーソン・ウェルズの前書きが特徴です。
『無用なセックス―女を巡る航海』(1964年)(週刊新聞『エウロペオ』紙掲載の目まぐるしい世界旅行のルポルタージュ)
『戦時のペネロペ』(1966年)(家に留まり家庭を持とうという恋人の嘆願を拒絶するキャリア志向の若い女性ジャーナリストについての小説)
『太陽が死ぬなら』(1966年)(米国の宇宙開発に関する記事の集成)
『エゴイスト達―16の驚くべきインタビュー』 (1968年)
『愛と死の戦場―ベトナムに生の意味を求めて』(1972年)(ベトコンに共感するベトナム戦争について) ―今夜の主催者であるディヴィド・ホロヴィツさんと再考を共有しています。
『歴史との対話』(1976年)は傑出したインタビューの幾つかを集めたもの。「現代ジャーナリズムの古典の一つ」と描写されてきました。
『生まれなかった子への手紙』(1976年) (「妊娠、中絶、感情の拷問について最も優れたフェミニストの著作の一つ」と呼ばれた小説)
『ひとりの男』(1980年) (ギリシャの詩人でレジスタンス指導者のアレコス・パナゴウリスとの個人経験を元にした小説)
『インシャアッラー』(1992年) (レバノン内戦に関するもう一つの小説)
10年の沈黙後、過激なイスラームの挑戦に対する応答として、2001年に彼女は『激怒と誇り』を出版しました。イタリアでは100万部を売り上げ、他の欧州では50万部でした。
2004年、彼女は『理性の力』を書きました。リッゾリ社から英語で今月出ました。それもまた、イタリアでは100万部売れました。その中で、過激なイスラームのため、西洋の凋落の始まりを彼女は論じています。自由と共にある西洋式の民主主義、人権、思想と信教の自由は、過激なイスラームと共存できないのです。それらの一つは滅びなければなりません。彼女は西洋の失敗に賭けています。
イスラーム三部作の三冊目『ファラチが自分と黙示をインタビューする』もまた、2004年にイタリア語で出ました(が英語はまだです)。ここは、バット・イェオールさんが言わなければならないものですが、今晩の主催者である大衆文化研究センターのもう一つの活動である『電子版フロントページ誌』に書かれたことです。「この短い傑作で、オリアナ・ファラチさんは、私達の涙を誘い、お腹を抱えて笑わせ、啓蒙し、欧州への愛と絶望を伝えています。彼女がそれほど多大に献身し、漂流するにつれて今では絶望のうちに見ている欧州を。」
2002年のインタビューでジョージ・W・ブッシュについて尋ねられて、「もう少し様子を見てみましょう。早過ぎますね」と彼女は答えました。「ブッシュは、ある一定の迫力と8年間米国が忘れてしまった尊厳をも兼ね備えているという印象があります。」しかし、イスラームを「平和の宗教」と特に大統領が呼ぶ時、彼女には見解の相違があります。「テレビで彼がそう言う度に私が何をするかご存じ?私は一人だから、テレビを見て言うの。『黙れ、黙れ、ブッシュ!』って。でもね、あの人には私が聞こえないのよ。」
初めの頃、ルポルタージュは何度も有害なやり方に彼女を押しやりました。近頃、彼女にとって危機をつくり出すのは、イスラームに関する彼女の直接的で断固とした著述です。ファラチさんは最近書きました。「私の人生は深刻な危機にあります。」
彼女はまた、法的問題を抱えています。2002年にフランスで二度、裁判にかけられました。2005年5月にはイタリアで告発されました。「国家によって認められた宗教の中傷」で有罪とされるイタリアの刑法典の条項下で起訴されました。特に、『理性の力』がイスラームの名誉毀損をしているというのです。それ故にこう言えるかもしれません。欧州で最も祝されたジャーナリストが出生国で言論犯罪のお尋ね者なので、今マンハッタンで亡命生活をしている、と。
原告は、アデル・スミスと名乗るスコットランド系の過激派ムスリムです。『イスラームはオリアナ・ファラチを罰する』と題したパンフレットを書いた人だと考えられています。彼女を「排除」し「ファラチの所へ行って一緒に死ぬ」ようムスリム達に呼びかけているのです。ついでながら、スミスはまた、ボローニャ大聖堂にあるジョヴァンニ・ダ・モデナ作の中世のフレスコ『最後の審判』の破壊を呼びかけました。預言者ムハンマドが地獄で苦悩していると描いているからです。
著述によっても、ファラチさんはもちろん多くの機会を勝ち取りました。一つ言及したく存じます。ちょっとしたお喋りのためにベネディクト16世に招待された最初の人々の中に、彼女はいました。公に無神論者だと宣言していたので、なおのこと一層重要な出会いでした。面会前、新教皇についてファラチさんが言わなければならなかったことです。
「ラッツィンガーの著書を読む時、無神論者である私はあまり孤独を感じません。もし無神論者で、教皇が同じ事を考えているなら、何か真実なものがあるに違いありません。それほど単純なのです!宗教を越えて、ここには何かしら人間の真実があるに違いないのです。」
今晩ここで、私達がファラチさんをお迎えすることは格別な名誉です。と申しますのは、必ずしも社交界の名士として知られているのではないからです。ご自分の仕事習慣については、このように描写しています。
「私は、朝早く(午前8時あるいは8時半)仕事を始め、中断せずに午後6時か7時まで続けます。食べもせず休息もせずに、ということです。普通よりも多くタバコを吸います。ということは、一日に50本ぐらいという意味です。夜は寝つきが悪いのです。誰とも会いません。電話に出ません。どこへも行きません。日曜日、休日、クリスマス、大晦日を無視します。言い換えれば、あまり生産できないとヒステリックになり、不幸になり、不満になり、気が咎めるのです。ところで、私は大変に遅筆です。そして、強迫観念的に書き直します。」
結びは、遺すものについて語っているオリアナ・ファラチさんです。著書を通して、彼女は希望しています。
「死ぬ時は、死そのものではなく、持たなかった子ども達を遺したいわね....この社会が何世紀も通して人々を養ってきた教義の外から、人々にもう少し考えさせたい。よりよく見て、よりよく考えて、もう少し知るように、人々を助ける話や知見というものを与えたいわ。」
皆様、『欧州の黙示:イスラームと西洋』で語られるオリアナ・ファラチさんをご静聴ください。
2006年9月18日追記:フランス語で『激怒と誇り』が出た時、『季刊中東』に書評を書きました。
2011年4月16日追記:『カダフィの空しい自慢』で、ファラチさんの特別インタビューに焦点を当てました。