読者の皆様へ
明日2004年1月24日は、中東フォーラムの10周年記念日です。
この10年を振り返って、中東フォーラムの発展を検討するにはよい時だと考え、手短ではございますが、中東問題との状況下で、設立時を想起し、現在の活動状況を概観したく存じます。
1994年
1994年1月の忘れがたく氷のように冷え切った日に、この組織を始めたのはなぜでしょうか。それは、私共がある欠陥を見て、それを埋めようと思ったからです。オスロ合意のちょうど4ヶ月後のことでした。アラブ・イスラエル和平の現状打破を預言し、中東における過激主義を沈黙し、経済的な協力を拡大するなど、大半の専門家や政策形成者が楽観的な色調を帯びたメガネをかけていた時です。
私共は懐疑的でしたので、このことを最初からお知らせしました。例えばパレスチナの指導者層の背信、シリア政権にイスラエルと和平合意を締結する意志がないこと、アメリカや西洋に対する戦闘的イスラームの脅威のような、諸問題や立脚点を主唱しました。私共のジャーナル『季刊中東』の初刊号は、1994年3月に軽いセンセーションを巻き起こしました。「アラブ人達はイスラエルとの和平の備えができているのか」という不穏当な問いを投げかけるヒラール・ハシャン氏の前例論文によってです。
そして、ここに私自身の書いた二つの事例がございます。
ホワイト・ハウスで署名中のオスロ合意の数日内に、私は書きました。「アラファト氏は、生き残るために言う必要のあることなら何でも言いながら、状況に合う自由自在のアプローチを採用しているに過ぎない。PLOは心を変えてはいなかった―ただ方針の変化だけだ…死の打撃をなすことのできる時、イスラエルがよろめくまで事業に留まれるように」。
1995年に私は書きました。「大半の西洋人達に気づかれないまま、欧州と米国に(戦闘的イスラームによって)戦争が一方的に宣言されてきた」。
今日、この見解は広く受容されております。当時を振り返りますと、そうではありませんでした。それで、新たに健全な定義でアメリカの権益を促進することによって、公共の討論を活気づけることに着手いたしました。他人が無視した問題に取り組み、トピックが検討されるようにジャーナルを出版し、より広い状況を見つめ、政策に新たな見地をもたらすために、ワシントンD.C.の外に所在する利点を持ちながらです。
私共の出発はささやかなものでした。アル・ウッド、エイミィ・シャーゲル、そして私は、我が家の台所のテーブルの周りに座って、フォーラムを思い描きました。銀行には2万5千ドルありました。秘書は一人です。私共はサラリーを減らして、またはサラリーなしで働きました。最初の半年は「ホーム・オフィス」で働きました―拙宅です。我が家の食堂、書斎、子ども部屋、客間が中東フォーラムの世界本部となりました。あの初期の日々は、時間がいくらあっても足りず、中東に対してより懐疑的なアプローチを進めていったので、幾らか苦しい時もありました。率直に申しまして、この疑いに満ちたアプローチのために、ここまで来るのに大変苦労いたしました。
2004年
今日、10年前に私共を駆り立てた諸問題-例えば、合衆国に対する戦闘的イスラームのジハード、イスラエルに対するパレスチナ人の敵意の持続、サッダーム・フセイン支配の非受容性、シリアの冒険主義を語る必要、合衆国内で活動するイスラーム主義者の団体によって示される危険-は、米国内の支配的な政治事項のうちにあります。私共の活動は、もはや何か不可解な専門家の関心ではなく、外交政策の重要な分野(そして、ますます国内政策も)となっております。もう声が聞かれることを心配する必要はございません。今の課題は、すべての仕事をするために、一日に充分な時間を見つけることです。
運営上、物事はまた劇的に変化いたしました。もうファイルを引きずって階段を三段ずつ上がり降りすることはありません。現在のところ、オフィスはフィラデルフィアのダウンタウンに位置していて、最近、今や15名に増えたスタッフおよび学生インターン達(この夏、現地の15名と遠隔地からの5名)に合わせて拡大しました。2003年には、およそ100万ドルを集めました。今ではフォーラムは、四都市(フィラデルフィアに加えて、ボストン、クリーブランド、ニューヨーク)に所在する評議員を誇っています。五つ目の都市として、ロサンジェルスを計画しております。
私共は成功したのでしょうか。まだ多くの到達すべき点が残っていますが、フォーラムの声は、以下に示唆するように、広い範囲のサークル、政府、メディア、学界に聞かれています。
研究&出版
出版すること-書籍、特集、コラム-は、最初から私共の仕事の本質でした。9.11後、私共の業務に関する関心が劇的に増し、それと共に、出版する機会も増えました。私自身の著述が、この関心を反映しています。二年間で二冊の本(『戦闘的イスラームがアメリカに到着』と『ミニアチュア』)が出ました。また、多くの新聞に掲載される週刊コラムは、定期的に6-8言語に翻訳され、 ウェブログにも載っています。
『季刊中東』誌は、今はマルティン・クレーマーによって編集されていますが、学術と大衆の分離を結びつける最先端のジャーナルであり続けています。顕微鏡で見て最高のプロフィールを持つ指導者達、外交官、学者といった広い範囲を配列して参りました。長年にわたって『季刊』でインタビューした方々は、タリク・アジズ氏からイツハク・シャミル氏まで広がっています。『季刊』に加えて、今、ゲーリー・ガンビルの編集による『中東インテリジェンス広報』の共同発行もしております。また、活発なメーリングリスト(listserv)である『中東フォーラム・ニュース』もあります。
私共の4つのウェブサイト- www.meforum.org, www.Campus-Watch.org, www.MEIB.orgそして www.DanielPipes.org –は、驚くべきことに年に300万人から400万人の読者を惹きつけています。これまでに、中東に焦点を当てた情報を提供している組織としては最高の人数です。
教育
一般講座シリーズ 最初から私共は、要人によって活発にプログラムを支援することで、一般の中東理解を促進するよう努めて参りました。今日、これらの行事は四都市で開かれています。フィラデルフィアでのロバート・グザルディ講座シリーズ、ニューヨークでの中東ブリーフィング、ボストンとクリーブランドでのプログラムは、テレビや出版メディアで、よく報道されています。私共のプログラムは、アメリカの政治家や分析家という広い陣立てと同様、国家の長、反体制指導者、今では権力にある反体制指導者を含めてきました。
大学キャンパス もちろん、今日のフォーラムに関しては10年前とは比較にならないほど、たくさんあります。一例を挙げますと、キャンパス・ウォッチです。始まってからたった17ヶ月ですが、北米の諸大学における中東研究のプロフェッショナリズムのしくじりを暴露しています。特に、そのギルドである中東学会(MESA)です。2004年1月13日付『ワシントン・ポスト』紙の第一面の主題は、キャンパス・ウォッチが5つの分野に焦点を当てているというものです。分析の失敗、政治と学術の混同、異なる見解への不寛容、弁明、学生に及ぼす職権乱用です。ジョナサン・ハリスとアサフ・ロミロウスキィというスタッフに支えられ、キャンパス・ウォッチの影響で、レバノンの『日刊スター』紙のある中東の執筆者は、この嘆きを刺激しました。「その因果応報に言及せずにMESAに言及はできない-それはキャンパス・ウォッチである」。
私共の努力は、学生達の間で人気を博しました。労苦を私共に頻繁に報告し、過激化した教授陣との対処法に導きを求め、あるいは、講演をするよう中東フォーラムのスタッフを招待するために「キャンパス講演者オフィス」に連絡したりする学生達です。それに、イェールやブランダイスの学生達は、中東フォーラム・クラブを結成しました。自分達のキャンパスでもっと均衡のとれた声をもたらす努力の中で、彼ら自身のものとして、中東フォーラムのミッション・ステートメントを採用しているのです。
可視化
私共の成功は、多くの敵意の的にもなりました。特に、その露骨な性質、言葉による辱め、不正確さ、騒がしい反対を考えますと、これは愉快ではありませんが、その反面、私共は多くの世間の注目となり、それ故に、私共の見解が聞かれるための先例なき機会を与えてくれました。
この点を説明する二つの事例を2003年から挙げます。
- 1月に、トロントのヨーク大学に招待された時、パレスチナ人、イスラーム主義者、極左のグループは、私が語ろうとするのを妨げようといたしました。それが、素晴らしい治安作戦(実際に馬に乗った王立カナダ騎馬警察隊を含めた100名の保安人員)を促したばかりでなく、カナダ中に私のメッセージが報道されました。
- 4月に、ブッシュ大統領が私を米国平和研究所の理事に指名された時、アメリカ・イスラーム関係協議会(CAIR)が、私の見解に関して、数百の出版物につながった中傷キャンペーンを始めました。そして、テッド・ケネディによってねじ曲げられて最高潮に達しました。その後、大統領によって、私は休会指名されました。
この可視化についてのもう一つの興味深い指標は、グーグル画面で、どの分野に於いても10万回以上引用される、極めて少ない分析家の一人だということです。
結び
10年の間、周縁から中央舞台へ、乏しい出発から多角的経営へと、私共は長い道のりを歩んで参りました。
二つの事柄だけが、私共の成功と将来への影響を決定いたします。それは、私共の勤勉さと支援者という資産でございます。
結びといたしまして、合衆国が直面している最も危険な諸問題の幾つかに、先見の明ある関心を寄せつつ寛大な資金支援をなさることによって、中東フォーラムの仕事を可能にしてくださった人々に感謝いたします。私共への信認にお力添えをいただきながら、続く10年においても、アメリカの権益を促進し、さまざまな課題を直視する決意でございます。
敬具
ダニエル・パイプス