聖十字架学院の中東学のロヨラ教授で、アメリカの主要なイスラーム解釈者であるジョン・エスポジトは、事の核心に触れるのに時間を無駄にしていない。最初の第一文で彼は問う。「イスラームと西洋は、必然的に衝突必至の成り行きか?」原理主義者のイスラームは、我々の主な敵として、マルクス・レーニン主義に置き換えられたのか?
その著の最終段落は、エスポジト氏の最も明快な回答を提供している。「イスラームと大半のイスラーム運動は、必ずしも反西洋、反米、反民主的ではない. . . . それらは、必ずしもアメリカの権益を脅かさない。我々の挑戦は、ムスリム世界の歴史と現実をよりよく理解することである」。
その他のどこでも、これが意味することは、合衆国政府の政策が「西洋とイスラームの間のイデオロギー的相違が認識され、可能な最大の程度まで受容されるか、あるいは少なくとも容認されるという文脈で持続される」べきだと、彼は詳述している。
この嘆願と共に、エスポジト氏は米国政策を密接に先取りした。中東を扱う主要な外交官のエドワード・P・ジェレジアンが最近「合衆国政府は、イスラームを西洋と対立する、あるいは世界平和の脅威となる、次の'主義'とは見なしません」と発表した。彼らは正しいのか?それとも、エスポジトとジェレジアンの両氏は、鉄拳をまともに受ける状態に陥るまで敵を理解することができないエスタブリッシュメントの専門家という慣れ親しんだ型を体現しているのだろうか?
えぇ、そうですとも、そうですとも。10億近くのムスリムが内部で深く分裂している限りにおいて、彼らは正しい。ムスリム諸政府は、西洋を威嚇するより、もっと頻繁に協力する。トルコ、サウジアラビア、インドネシアのことを考えよ。さらに、イラクのクウェート侵攻が確証したように、ムスリムは政治的に統一されていないし、決してそうなることはないだろう。それ故、西洋に対する統一されたジハードのようなものは、まことしやかな領域の外部にある。ガーリー・ハートの前助言者だったウィリアム・S・リンドが、ムスリム軍が「ウィーンの門を再び包囲するかもしれない」と心配する時、彼は全く幻想に耽溺しているのだ。
だが、その過激分子が世界で最も毒気を含む反米イデオロギーを信奉する、原理主義者のイスラームの脅威を穏やかに宣伝する限りにおいて、エスタブリッシュメントは誤っている。原理主義者達は単に現行の諸政策に憤慨しているのだと、エスポジト氏は誤って論じている。事実、彼らは我々の文明全体を憎悪しているのだ。サイード・クトゥブ(エジプト人)やアブル・アラ・マウドゥディ(パキスタン人)のような理論家は、西洋の暮らし-文化、習慣、機構など-のまさに本質を非難する諸政策を超えている。実にキビキビしたアヤトッラー・ホメイニーは、このように書いている。「我々は、経済制裁や軍事介入を恐れてはいない。我々が恐れているものは、西洋の大学である」。ちょうど先月、ある影響力のあるイラン人の宗教上の人物が、この感情の象徴として、ネクタイを締めているという理由でテヘランの医師達を攻撃したのだった。
過激な原理主義者達の中にはさらに先を行き、欧州と米国と戦って征服するだろうと誇っている者もいる。この見地の典型は、あるテヘランの日刊紙が1990年に「イスラームの世界運動」が西洋を打ち負かすことができると主張した。あるチュニジア人は、1985年から86年に、フランスで爆弾を始動させ、13人を殺害したかどで有罪と宣告されたが、その事例を扱っているフランスの裁判官に向かって宣言した。「預言者ムハンマドを暗殺した西洋に対する戦いを私は放棄しない. . . . 我々ムスリムは、お前達(西洋人達)を一人残らず殺すべきだ」。これらの身の毛もよだつような見解はほとんど例外ではない。だが、このようなことは『イスラームの脅威』から著しく欠けているのだ。
その代わりにエスポジト氏は、原理主義者のイスラームのより穏健な諸側面に焦点を当てている。殺害や人質を取ることを通して、10年近くもアメリカ人に苦痛を与え、急襲したレバノンの集団ヒスボラについての6ページのうち、その手法について、彼はたったの8語を捧げているのみである(ヒスボラは「勇敢にも暴力とテロを通して要求を強要した」)。それは、制度の暴虐性に言及せずに、ソヴィエト連邦の哲学的な土台を分析することに似ている。もし、その意図が一致すべきならば、その効果は誤導することだ。
『イスラームの脅威』は、その他にも何か非常に重要なことに欠けている。エスポジト氏は、低い西洋の出生率や西欧と北米への何百万人ものムスリム移民について一言も述べていない。だが、文化的冠水の予想は、ムスリムのミサイルや人質を取ることよりもさらに、欧州の右翼達に警告するイスラームの脅威なのである。たとえは、『スペクテーター』誌に書きながら、チャールズ・ムーアはT・S・エリオットの「フードをかぶった群れ」という警告を思い出した。「充分な赤ん坊を持つことを強情に拒否するため、欧州文明は、新たな血でよみがえることができたかもしれない時点で、死にかけ始めるだろう。その後、フードをかぶった群れが勝つだろう。そして、オックスフォードの学派でギボンが非常にうまく想像したように、コーランが教えられるだろう」。フランスのファシスト指導者のジャン・マリー・ル・ペンは、彼の恐怖をもっと辛辣に表現した。「私はフランス人が、入植によって完全に全滅させられたアメリカ・インディアンのようになってほしくない」。このような外国人恐怖症は、今日では恐らく西欧において、唯一の最も不和を起こさせる社会問題として位置づけられるだろう。合衆国ではあまり共鳴しないが、それはまだ変化するかもしれない。パトリック・ブキャナンは既に、恐怖に満ちて西洋の終焉を意味しつつ「揺り籠のモスレムの子どものすすり泣き」について書いてしまった。我々は、その問題が遠からず増大するのを招くことになりそうである。
エスポジト氏は政治におけるイスラームの学識ある熟考した議論を提供している。だが、過激な原理主義者達の敵意や野心を認識し、西洋におけるムスリム人口の増大の言外の含みを考察することに、彼は失敗している。『イスラームの脅威』は、換言すれば、イスラームの脅威に対して、ほとんど導きを提供していない。