3年間エジプトで暮らしたことは、私の人生で重要な経験でした。イスラームと中東の解釈が大いに進みました。今では30年ぐらいになります。アラビア語を学びました。エジプトでは、コプト共同体の人々と幾らか素晴らしい経験を持ちました。それで、今日はここにいられることが、特にうれしく思われます。この会合は重要です。アドレィ・ユセフ氏は、この勇気あるイニシアティブを取ったという点で、称えられるべきです。人権擁護連合、国際キリスト教連帯、ヨベルの祝祭キャンペーンは、特にムスリム諸国のクリスチャン達に焦点を当てつつ、世界中の人権擁護のための活動において、全て新たな道を開くものです。
エジプトの外からコプト教徒の声が出てくることは、格別に強い効果があります。今日既に聞かれたように、そして、疑いもなく再び聞くだろうことに、エジプトに暮らすコプト教徒達は、語る自由がなく、さらには、遠慮なく話すという歴史を持っていません。西洋では、もし声を上げれば、到達できる目的があるという理解を展開することができます。援助に来る用意のある友人達がいること、応用させ、エジプトへ持ち帰ることのできる諸原則があることがそうです。会議ではコプト教徒の状態の具体例を見るので、私はエジプトの状況を詳細に扱うことはいたしません。私がお話しすることは、より大きな問いについての背景のブリーフィングのようなものです。今日のコプト教徒の問題の背後にある大きな問題です。それは、イスラーム主義あるいは戦闘的イスラームという問題です。
著しい対照
今日の世界に存在する著しい対照を述べることから始めたいと思います。ムスリム多数派諸国で暮らす約3000万人のクリスチャンがいます。最大人数はインドネシアで、約1500万人です。エジプトのクリスチャンがそれに続き、600万から1200万人の間のいずれかです。パキスタンでは300万人のクリスチャンが暮らしています。そして、別のスケールの端っこには、数十人がモーリシャスにいます。これらは、多かれ少なかれ、古代のキリスト教共同体です。一世紀にキリスト教がエジプトに来ました。しかし、エジプトのクリスチャンは、ますます自分達が、徐々に減る諸権利と共に、敵に包囲された少数派であることがわかってきました。貧困や不確実性に陥ったのです。二級市民として見下げられ、疑われました。教育、仕事、警察から法廷まで、差別に直面しています。しばしば残忍性の犠牲者です。これは、エジプトのクリスチャンに特有の状況ではなく、ムスリム多数派の多くの国々で合致します。徐々に環境が悪化するにつれ、クリスチャン達は西洋でもっと住みやすい環境を見つけるために、荷物をまとめ、先祖の土地を去って行きます。中東に残っているキリスト教人口は、ますます高齢化し、貧しくなり、周辺化しています。
この陰鬱な状況に対する著しい対照として、約2200万人を計上する、歴史的なキリスト教諸国の西洋に暮らすムスリム少数派を考えてください。この人口は専ら第一世代の移民で構成されていますが、充分な諸権利を有する市民として、ますます裕福に、保護され受容されて定住しています。学校や職場や法的制度において、新たな特典を獲得しています。西洋のムスリムの中には、イスラーム法の施行や、西洋をムスリム多数派地域に転換することを大っぴらに唱道する人もいます。他には、この目的に向かって、テロに従事している人もいます。
象徴的で宗教的な用語で述べましょう。教会がムスリム諸国にやって来るにつれ、モスクはキリスト教国に上っていきます。ナイル川の断崖沿いの道路にあったカイロの英国国教会の大聖堂が、10月6日橋用に道を造るため壊されたのを、私は個人的にじっと観察しました。その橋は、他のどこでもあり得ませんでした。正しく英国国教会の大聖堂があった所になければならなかったのです。そして、教会は今やもうありません。対照的に、ブエノス・アイレスからボストンまでの西洋で、どれほどの政府機関が土地を売って、モスクが建てられるために特別価格に値下げされたかに、気づいています。同様の路線で、ムスリム多数派諸国における教会の鐘がどのぐらい沈静化されているかも観察しています。しかし、モスクからの祈祷の呼びかけ「アザーン」の許可は、今やミシガン州のハムトラミックないしはノルウェーのオスロのような町で与えられているのです。
ムスリム諸国の滅びゆくキリスト教共同体とキリスト教諸国の自己主張的なムスリム共同体の間の対照には、人口動態や、伝統対ポスト・モダンな宗教理解と呼ばれるものを含めて、多くの原因があります。
ここにいる我々にとって、特に重要性を持つと考えられる角度に焦点を合わせたいと思います。つまり、伝統的なムスリム諸国と伝統的なキリスト教諸国の両方における、イスラーム主義の役割です。私の講演の題目は『欧州と中東におけるイスラーム主義の挑戦』です。この二つの地域における挑戦は、似ていますが反対です。ムスリム世界では、イスラーム主義が、イスラームのアプローチに同意しないムスリムに対する深い不寛容へとつながります。アルジェリアでの100から1000人以上の死のことを考えなさい。もちろん、非ムスリムに対する寛容の欠如へとつながります。彼らの現存は、もはや歓迎されないのです。西洋では、対照的に、イスラーム主義が自己肯定と優勢の試みに結びつきます。
ここで三つの話題を述べましょう。イスラーム主義の本質、中東の特に少数派クリスチャンと関わるイスラーム主義の役割、欧州におけるイスラーム主義の役割です。
イスラーム主義の本質
イスラーム主義は多くの名称で呼ばれています。英語では、戦闘的イスラーム、過激派イスラーム、イスラーム原理主義あるいは政治的イスラームですが、すべて同じことを指しています。イスラーム主義は、イスラームのある特定の解釈で、その宗教そのものを問題として考えることや、婉曲法を使うことのいずれも間違いだと思っています。戦術であるテロではありません。それは我々の問題です。個人の信仰であるイスラームではありません。それは我々の問題です。イデオロギーであるイスラーム主義なのです。それは我々の問題です。
このイデオロギーは、多くの点で我々に馴染みがあります。なぜならば、西洋における我々は、過激なユートピア的イデオロギーという、二つの先行する同様の政治的示威行動に遭遇したからです。つまり、ファシズムと共産主義です。これらの20世紀のイデオロギーは、国家を乗っ取るために、基盤として基礎的な書籍や著述を用いました。国家を乗っ取る過程で、方法論において残忍で、同意しない人々には全く不寛容でした。ひとたび国家を乗っ取れば、人民に対する全権力を獲得し、即座にイデオロギーを輸出しようとしました。世界的な覇権を獲得できるようにするためです。
イスラーム主義はまた、全体主義的な運動です。その詳細は、ファシズムないしは共産主義とは大変異なっていますが、その戦略は似ています。あらゆる利用可能な手段を使って、世界覇権という望みを抱きながら権力を獲得することを意味します。イスラームの場合、そのメカニズムは、イスラーム法を強調することによって、その命令を満たし、信徒を惹きつけるイスラーム主義者のイデオロギーによるものです。イスラーム法は、以前には触れなかった領域にイスラーム主義者が拡大した、膨大な法制度です。古典的なイスラーム法の規定は、限られた数の事項を扱っていました。イスラーム主義者達は、それを拡大してしまったのです。例えば、経済哲学、統治の詳細、教育に関する詳細があるように、です。生活全てが、イスラーム主義者の支配下に陥っています。これの最も完全な事例は、タリバン支配下のアフガニスタンで見られました。教育からセクシュアリティまでの生活の全側面、子どもの育て方から経済や外交まで、どのようにコーランとイスラーム法を彼らが理解したかという光に照らして解釈されました。イスラームのイデオロギー版です。それは、個人の信仰から権力や富を命ずる制度への転換です。
それは、中世の源泉から派生したものではありません。1920年代に遡ります。インドとエジプトで同時に、ハサン・アル・バンナのような多様な思想家や活動家が、西洋における全体主義運動に応答し始めました。ナチが権力を増大しつつあったのは、1920年代でした。ファシスト達が、イタリアや日本で権力に至っていました。そして、ソヴィエトの見本がその頂点でした。多くの知的な人々が、全体主義の方法は前衛的だと考えた時だったのです。彼らは、脅威がやって来ることを知りませんでした。その時、起こりつつある脅威に気づきさえもしませんでした。ムスリムの思想家や活動家は、引き続く何十年かにわたって、彼ら自身の全体主義的な理想を展開することで応答しました。結局、その50年後、1979年にイランで権力を持ったのです。イスラーム主義者が制御した政府の最初の事例です。そして即座に、彼らは拡大しようとしました。他のイスラーム主義者の成功が引き続いて起こりました。スーダンでは1989年以来、アフガニスタンでは1996年から2001年にかけてです。他の多くの諸国でも、強いイスラーム主義的傾向があるとも論じられます。そのいずれも、この三つの革命的な全体主義とは全く合致しませんけれども。
これは現代の現象だと理解することが重要です。そして、現代の諸問題に対する一つの回答です。多かれ少なかれ、それを追い求める人々が現代人なのです。例えばハサン・アル・バンナは、現代エジプトのある地域で学校教師をして暮らしていました。このアプローチに惹きつけられたのは、田舎の農民ではなく、現代人なのです。イスラーム主義政党の指導者達のどれほど多くが、西洋で教育を受けたエンジニアや成功したビジネスマン達かを知ることは、印象的です。このイデオロギーの原則は「イスラームが解決だ」(al-Islam huwwa al-hall)というものです。疑問が何であれ、イスラームが回答なのです。イスラーム的な香りのする全体主義です。それは、宗教表現に似ているというよりも、共産主義やファシズムに似ています。世界を二つに分けるのです。このプログラムを受容する人々と、そうでない人々です。幾らか、イスラーム主義を拒絶するムスリムは、非ムスリムよりもさらに悪いとさえ考えられています。ある場合には、もっと悪意ある応答でさえあります。なぜなら、真理を知るべきなのに、知らないからです。軍事や医療技術という重要な例外を伴いつつも、できる限り、外部世界を拒絶する試みがあります。このプログラムを受容しない人々に向けた不寛容があります。そして、ムスリムが最初の犠牲者なのです。先程、アルジェリアに言及いたしました。ダルフールで起きていることは、イスラーム主義ではないムスリムに対する、イスラミスト達の残虐さという、もう一つの事例なのです。
ファシズムや共産主義の事例のように、西洋、そして特に米国に顕著な憎悪があります。彼らと彼らの到達目標との間に存するのが、圧倒的に米国です。もし、米国が脇に置かれたり、イスラーム主義者の側に引き寄せられたりするなら、彼らの目標に到達するには、物事がかなりスムーズに見えるでしょう。西洋に向けての広大無辺な野心は―ここでは、ファシズムや共産主義との別の類似があるのですが―他宗教で見出すかもしれないのと同様の安全な避難所として、ある領域を切り開く試みではありません。西洋との直接闘争に入り込み、西洋を打ち負かし、世界覇権を達成する試みです。イスラーム主義者と西洋との間の広大無辺な抗争なのです。
イスラーム主義はイスラームから派生していますが、厭世的で、女嫌いで、勝利主義で、至福千年的で、反現代、反クリスチャン、反ユダヤ、テロリスト、ジハード的、自殺的な異説です。イスラーム主義者の成功の結果は、制度的に明白でした。彼らが政府を転覆するところではどこでも、その政府は人々に対して暴君的で残虐です。経済の収縮、女性や非ムスリムの抑圧、民族浄化です。軍事的な侵略行為がすぐに続きます。
これは、単一の現象ではありません。異なった系統があります。エジプトのムスリム同胞団、サウジアラビアのワッハーブ派、イランのホメイニー派、インド由来のデオバンディ派などです。異なった人員の異なった解釈がありますが、同じ一般現象なのです。
この現象の原因や、なぜ最近の世代でそれほど重要になったのかは、多く議論されています。最も共通する説明は、アメリカの外交政策や経済やムスリム世界の他の失敗と関係があるというものです。私はこれらに同意しません。もし、アメリカの政策が変化すべきであるとか、ムスリム世界の経済を改善するならば、この強力なイデオロギー勢力は、単純には消滅しないでしょう。アメリカの外交政策や経済的な労苦が、これにある役割を果たすことは否定しません。ですが、イスラーム主義は、実に深いアイデンティティ問題の明示なのです。
手短に述べましょう。歴史的に、ムスリムであることは、勝ち組にあることです。預言者ムハンマドは、622年にメッカから逃避し、8年後の630年には、支配者として戻りました。一世紀以内に、ムスリム軍はインドからスペインまでの領域を征服したのです。中世期には、ムスリム世界は、最高の健全さ、富、権力、技術進歩があった地域でした。ムスリムであることは、神学的な意味でも、現世的な意味でも、神によって好まれていることを意味するのだと、多くのムスリムの中で当然とされた感覚に増大しました。そして、それが事実、六世紀の間、大ざっぱな事例だったのです。最終的に1800年までに、権力、欧州という粉砕動力の権力に至りました。エジプトに侵攻したナポレオンによって象徴化されたようにです。そしてムスリム世界は、軍事的、経済的、文化的その他において、どれほどまでに遅れを取ってしまったかに気づくようになりました。
過去二世紀間の大きなトラウマは、何が誤っていたかという疑問や、その修正法でした。この光に照らして、イスラーム主義への転向が、解決という一つの型なのです。大変一般的な用語で述べると、1800年から1920年まで、物事の修正法という疑問への答えは、リベラルなヨーロッパ人、フランス人や英国人を熱心に見習うことでした。基本的な回答は、ヨーロッパ人の倫理、つまりファシストや共産主義者達を見習うことだったのです。1970年以来、その答えは「自分達自身の反リベラルな解決でやっていこう」となったのでした。経済学はある役割を持っていますが、より深く進んでいます。あまりにも多くのイスラーム主義者達が裕福だという事実によって示されることです。9.11の19人の自爆ハイジャッカー達を例に取りなさい。彼らは、特権、裕福、教育によって識別されていました。絶望的な貧しい人々ではありませんでした。原因をさらに進めるこの行為を実行することで、それを信じたイデオローグなのです。
中東におけるイスラーム主義
この会合で多く議論されるのはエジプトのクリスチャンに関することなので、私は少し遠回りをして、大変時機にかなった問題に目を向けたいと思います。つまり、イラクのクリスチャン達のことです。サッダーム・フセインの馬鹿げた政権は、彼の全体主義的支配がいかに恐ろしいものであったとしても、幾らか取り柄を持っていました。イラクの事例における取り柄の中には、少数派のクリスチャンが、政府による者以外に誰からも迫害されず、他の可能な敵からは全く安全だったということがあります。
サッダーム・フセイン政権の崩壊や現今の不安定な状況と共に、イスラーム主義者達が権力を増大させ、彼らの最初の行動の一つは、クリスチャンをターゲットにしてきました。さまざまな種のキリスト教施設が攻撃される多くのエピソードがあります。バルナバ基金によれば、2003年末、モスルの女子修道院をミサイルが攻撃しました。バグダッドとモスルの二つのキリスト教系学校に爆弾が置かれたものの、外されました。クリスマス・イブに、バグダッドのある教会で爆弾が破裂しました。モスルにある男子修道院に爆弾が置かれたものの、再び取り外されました。最後に、今年の8月1日、夕方の午後6時から7時の間に、イラクのクリスチャン達が教会へ行く時、最後の大攻撃がありました。バグダッドとモスルで、11名が死亡し、55名が負傷した一連の爆発がありました。
イラクの爆撃は、お酒を販売する店、音楽の店、ファッションの店、美容院を攻撃する型から取った、クリスチャン迫害のより大きなパターンの一部です。イスラーム主義者達は、これらの店などは歓迎せずと明確にしています。頭を覆わなければ、クリスチャンの女性は脅されてきました。クリスチャン達は手当たり次第、暗殺されてきました。これらの暗殺のために、世界で最古のキリスト教の母体の一つであるイラク人クリスチャン達が、空前の人数で急いで出国しました。あるイラクの助祭が一ヶ月前に観察したことですが、ある最近の夜、教会は、礼拝そのもの以上に、出国するために必要な洗礼書類の記入に、もっと多くの時間を費やさなければならなかったそうです。移動と移住(興味深い役職名ですが)のイラクの大臣は、彼自身もクリスチャンなのですが、8月1日の爆撃に引き続く二週間で、推計4万人のクリスチャン達がイラクを去ったとのことです。クリスチャンが国の人口の3パーセントを構成する一方で、シリアへ逃げる難民の比率は、20から95パーセントの間のどこかだと推定されます。1987年以来、クリスチャン共同体の40パーセントが去ったという推計もあります。ムスリム指導者達は一様に、犯罪的行為だとして、これらの攻撃を非難しますが、この過程は止められないように見えますし、イラクのキリスト教の凋落へと導き、消滅する可能性もあります。
これは、中東における、より一般的な傾向の一部だと考えるならば、かえってますます、そのようになると思われます。全てのキリスト教の町で最もキリスト教だと同定できるベトレヘムとナザレは、およそ2000年間、キリスト教多数派を享受してきました。しかし、もはやそうではありません。そこは、今やムスリム多数派の町です。エルサレムでは、1922年にクリスチャンがムスリムより優勢でしたが、今日、エルサレムのキリスト教人口は、たったの2パーセントです。同様のことが、イスラエルの他の地域でも合致します。トゥーランのガリラヤの町出身のクリスチャンの店のオーナーは、次のように要約しました。「大半のクリスチャン達は、自宅や店を売ることができるやいなや、立ち去ります。もうムスリムの中で暮らせません」。西岸の(クリスチャンの町である)ベイトジャラよりも、チリのベイトジャラで暮らしている、もっと多くのパレスチナ人達がいます。ヨルダンのエル・ハッサン皇太子は、今日では、エルサレム出身のより多くのクリスチャン達が、エルサレムよりもオーストラリアのシドニーで暮らしていることに気づきました。
トルコでは、1920年にはキリスト教人口が200万人を計上していましたが、今では数千人です。シリアでは、前世紀の初めには約三分の一の人口を占めていましたが、今日では10パーセント以下です。レバノンでは、70年前には約55パーセントだったのが、今日では30パーセント以下となっています。それで、コプト教徒の苦境は、何ら特別でもないのです。目下、中東における比率は、1200万から1500万人のクリスチャンが、10年の内に文化的活力や政治的重要性を失ってしまう点まで、実質的に減少してしまうでしょう。
このクリスチャン達の消滅は、約50年前の初期出国を再現していることに注意する必要があります。つまり、中東アラブからのユダヤ人の出国です。中東のユダヤ人は、1948年には100万人ぐらいを計上しましたが、今日では、たった6万人がイスラエル外にいます。組み合わせれば、これら二つの古代から続く少数派の民族浄化は、ある時代の終わりを示します。中東の暮らしの多様性は、単一の宗教と少数のマイノリティという平板な単調さに縮小しているところです。地域全体は、少数派に影響を与えるのみならず、これによって活力を失っているのです。
長年、中東のクリスチャン達の苦境は、外部の世界にはほとんど注目を寄せられませんでした。彼らの利益について、初期の保護者達であったヴァチカンのみならず、英国、フランス、ロシア、そしてギリシャの政府は、彼らや現行の諸問題から背を向けました。しかしながら、最近では、この会議のスポンサーを含めて多数の組織が立ち上がり、主としてムスリム諸国や共産圏における、世界中で迫害されたクリスチャン達の原因を取り上げるようになりました。例えば、米国でその徴が明らかです。このテーマに上院がヒアリングを実施し、1999年以来、国務省が世界中の宗教迫害についての定期的な調査を発行しています。他にも、問題が関心を持たれるようになるという多くの事例があります。この会合も、それらの健全な徴の一つです。
欧州のイスラーム主義
オリアナ・ファラチは、新著『理性の力』(The Force of Reason)で宣言しました。欧州は、ますますイスラーム地方、イスラームの植民地になりつつある、と。「キリスト教の古代の強さは、急速にイスラームに道を譲っている」とも述べました。バーナード・ルイスは、ドイツの今月の『世界』紙(Die Welt)で語りました。「欧州は今世紀末までにイスラーム的になるだろう」("Europa wird am Ende des Jahrhunderts islamisch sein".)
この世界を揺るがす展開に貢献する、二つの主要な要因があります。一つは、キリスト教からの空洞化です。欧州はますます、伝統と歴史価値が縮小しつつある連携を伴う、ポスト・キリスト教社会になっています。欧州の信仰ある観察力を持つ多くのクリスチャン達は、ある観察者に新たな暗黒大陸と呼ばれる点にまで崩壊してしまいました。既に分析家は推定していますが、英国のモスクは、英国国教会よりも、各週、より多くの礼拝者達を集めています。キリスト教の後退の他にも、要因があります。一つは出生率です。現地の欧州人口は滅びつつあります。ある人口を維持するには、一人の女性が平均して2.1人の子どもを持つ必要があります。EUは、一人の女性につき概して1.4人の比率で落ち込んでいます。ある研究の結論では、現行の人口動態の傾向が続くならば、今日の欧州現地人口3億7500万人は、7年以内に2億7500万人まで下がるだろうとのことです。安定した労働人口を保つには、EUは毎年160万人の移民が必要です。労働者から年金受給者までの現在の比率を維持するためには、毎年、驚くべき1390万人の移民を必要とします。キリスト教と欧州人の出生率の低下によって作り出される空洞は、イスラームとムスリムによって満たされているのです。
キリスト教が弱体化すると、イスラームは強健で押しが強く野心的になります。ヨーロッパ人の生殖能力が下がるにつれ、ムスリムは繁殖し、若いうちに大人数でそうするでしょう。EU人口の約5パーセントないしは2000万人近くが、現在、ムスリムだと自己同定しています。現在の傾向が続くならば、その人数は2020年までに10パーセントに達するでしょう。もし非ムスリムが新たなイスラーム秩序を避けるならば、恐らくはそうであるように、大陸は数十年内にムスリム多数派であるはずです。それが起こる時、何が続くだろうと推測することは興味深いです。大聖堂は初期文明の痕跡として現れるでしょうし、サウジ式の政権が大聖堂をモスクに転換しない限り、あるいはタリバン風の政権が爆破しない限り、そこにあるでしょう。偉大な諸文化つまり、イタリア、フランス、英国その他は、恐らく北アフリカやトルコや亜大陸やその他の要因で、国家や民族を超えたムスリムの新たなアイデンティティに置き換わるでしょう。
この予測は、ほとんど新しいものではありません。このことを私は2004年に言っているのですが、1968年に英国の政治家イーノック・パウエルが、非常に有名な声明を出しています。いわゆる「血の川」演説です。そこで彼は警告しました。奨励される大量移民において、英国は火葬の薪を積み上げている、と。この演説のために、政府大臣としての約束されたキャリアは、決して実現しませんでした。1973年に、フランスの作家ジャン・ラスパイユは『聖人のキャンプ』(Le Camp des Saints)という小説で、インド亜大陸から制御できない大量の移民が欧州を貶めると描きました。ある地域で、一つの大文明から別の文明へと平和時に転換することは、今やまさにこの地域で進行中ですが、人類史において前例がありません。進行中だという事実を無視することは易しいのですが。
結論
イスラーム主義は、世界政治で中心的な事柄の一つになってきました。暴力の背後にある勢力です。中東における、一世代前にそうだったものから、今日の状態へと転換する背後にある勢力です。そして特に、中東でのキリスト教人口の現象の背後にあるものです。欧州へと移動し、欧州の失敗に益を得ている勢力です。不幸にも、イスラーム主義はまた、文明に対する新たなグローバルな敵です。ムスリムも非ムスリムも同様に、すべての文明化した人々によって闘われなければならない、野蛮主義です。エジプトのクリスチャン達が直面する問題の核です。我々皆が直面する問題の核なのです。