シンクタンクで仕事をする人々は、通常、公に姿を現す習慣をつくらず、もっと頻繁に学者や政策形成者達と浸る。
しかし、フィラデルフィアのシンクタンクのダニエル・パイプス氏は、戸外の水域の大物として姿を現している。過去11週間に「ナイトライン」「クロスファイア」「おはようアメリカ」「政治的不公正さ」に出演し、書いたものを国内の新聞に公表している。
そして、何年間も引き出しに突っ込んであった原稿-氏が言うには、誰もその話題に興味がなかったので「公表できない」-が、突然、大きな実体となっている。その題目は「ムスリムのアメリカ」である。
とても謹厳で、かなり保守的で、格好いい感じの52歳のパイプス氏は、中東フォーラムを率いるイスラーム専門家で、『季刊中東』を出版し、12冊の本を書いてきた。
9.11前、彼は定期的に『エルサレム・ポスト』紙のみに書いた。今日では、『ニューヨーク・ポスト』にも毎週コラムを書いている。今や時の人だ。
「ある意味で、そうですね」と氏は言う。「皆がイスラームを議論しています。何が重要なのか、米国に相対してイスラームがどこに位置するか、と。論議はもっと洗練されてきています。世間は、私が30年以上も関与してきた問題に焦点を当てています」。
中東への没頭は、ハーヴァード大学の学部生として、夏季に旅行したり働いたりした時に始まった。
「サハラ砂漠に恋したのです。ベルベル人の言葉にも恋に陥るだろうと思いました。でも、常識とやらで、代わりにアラビア語を学ぶことに決めました」。
なぜそこへ?「ここから出たかったのです。そして、広く視野を得たかったのです。それで、イスラームや文化や言語に没頭しました」。
卒業後、大学院ではなく、エジプトを選択した。
「1971年にカイロへ行くことは、風変わりだと見られました」と、彼は語る。「当時、米国とエジプトの間に、良好な感情は存在しませんでした。月150ドルで生活しました...それで、充分暮らせたのです。両親は感動もしませんでした」。
パイプス氏の個人史には二点ある。
第一は、父親がリチャード・パイプスというソヴィエト連邦と共産主義の優れた学者で、ハーヴァードで46年間教鞭を執ったことである。知的な議論は、晩の食卓のマッシュ・ポテトのように普通のことだった。
第二は、学部生として、パイプス氏がベトナム戦争を支持し、その態度のために友人を失ったことである。「私は、ほとんどの学生が賛成するものに反対でした」と彼は言う。「カレッジには興味がありましたが、私には楽しくありませんでした」。
1973年、学士号を得るためにハーヴァードに戻った。1978年には、博士号と目的を持って、ハーヴァードを去った。
彼は、長身で角張っていて黒い顎髭を生やし、快活というよりは思慮深い顔つきをしている。三人のお嬢さんと再婚の奥さんの話になると、ワット数がちょっとだけ上がる。
今は忙しいので、コンピューターの前で朝のシリアルを食べていると、彼は言う。
「政治的不公正さ」に出演した時、俳優のアレック・ボールドウィンの隣に父親が座ったことに、真ん中の娘さんは感動した。ボールドウィンの方は、父親に感銘を受けたようには見えず、アメリカで暮らしているムスリムに関する「あらゆる秘密ファシスト」という考えを支持することでは、父親を酷評していた。
その時、パイプス氏は落ち着いていたし、今も落ち着いている。「この国に来る誰もが私達のことをよく思っているという無邪気さから、目覚めなければなりません」。そのため、ムスリムをプロファイルする法執行を持つことは、「気持ちのいいものではありませんが、今は必要なのです」。
全ムスリムの10パーセントから15パーセントは「戦闘的ムスリム義務」に共感している、と彼は言う。「それは、世論調査や私の経験や語りや研究に基づく、推論的な数字です」。
パイプス氏には、ファンと酷評家とがいる。
「彼は訓練された史学専門家です。政治学者ではありません」と、かつてフィラデルフィア人だったアダム・ガールフィンクル氏は言う。1980年代末にフィラデルフィアの外交政策研究所で働いていた時、同僚だった。ガールフィンクル氏は、ワシントンの『国益』誌の編集者で、パイプス氏は委員会の一員である。
「彼は...膨大な量を読んでいます。彼の見解は親シオニストですが、ムスリムやアラブ人に対する何に関しても、彼に悪意はありません。イスラエルの防衛のために、アラブやムスリムの政治に批判的な時、彼は、真の学究的な知識でそうすることができるのです。アラビア語が読めて話せますから、米国で、彼は普通とは違っているのです」。
アメリカ・ユダヤ委員会のフィラデルフィア代表のマレー・フリードマン氏は、イスラエルとパレスチナの和平交渉におけるパイプス氏の洞察を賞賛している。
「彼は、例外的な譲歩が和平に貢献しないことを理解していました」とフリードマン氏は言う。「『急いで得た』と見られるだけだったでしょう。それについて、彼は正しく、私は間違っていました。彼を敬服しています」。
「ムスリムについての紋切り型の考え方はうまくいかないと、彼は言っていました。リベラル精神は、これらの問題を常に空想的に扱います-接触を持とう、和平をしよう、と。でも、彼は言いました。ムスリム文化や宗教と、戦闘的要素をごっちゃにしないようにしよう、と。ここでもまた、ダニエルさんは、流れに逆らったのです」。
行き過ぎだ、と言う人々もいる。「彼はあまりにも意地が悪い」と、ワシントンにあるアメリカ・イスラーム関係協議会(CAIR)の代表者であるイブラヒム・フーパー氏は述べる。「イスラミストって何ですか? あの人にとっては、政治について何でも語る人は誰でも、ということでしょう。あの人には、すべてのイスラーム主義者達が潜在的な殺人者なんです」。
イアン・ルスティック氏の批判は、もっと抑えたものだ。「本国にとってのイスラーム主義者の脅威がわかるという意味では、彼の功績を認めます。でも、10パーセントから15パーセントというのは、ちょっと見積り過ぎじゃありませんかねぇ」。アメリカ・イスラエル研究会の前会長で、パイプス氏と論争したことがあった。
「私と同じぐらい見識のある者と喜んで論争したがる右翼の見解」を代表する人はほとんどいない、とペンシルヴェニア大学の政治学教授であるルスティック氏は語る。「そういう人達は、大抵の場合、一人で現れることが多いか、政治的に動機づけられたジャーナルで発表しています。彼自身のも含めてですが。その点では、あの人を尊敬していますよ」。だが、彼は付け加える。「私の学問上の専門はアラブ・イスラエル関係です。彼の専攻は7世紀のイスラームですよ」。
パイプス氏は言う。「ずっと前に、私は中世の史学者であることをやめました。今や私は、イスラームと公共政策、アラブ・イスラエル紛争、そしてシリアの最前線にいます」。
氏が指摘するには、アメリカ人が戦闘的イスラーム主義者の手で死ぬことは何ら新しいことではないが、危機感は新たなものだ、と。
「1978年以来、600人のアメリカ人が、軍事基地や大使館や飛行機衝突で殺されてきました。でも、その600人の件は、恐怖だと解釈されず、自己満悦に風穴をあけることにもならなかったのです。レバノンのパンナム航空機103や海兵隊の兵舎の件は、風潮や政治の変化へとつながりませんでした。しかし、9.11という規模が、より接近を感じさせたのです...」。
「昨今の期待は、戦争における我々の成功が、ムスリム感情を激化するだろうというものですが、それは反対です...。敗北が感情の焼き戻しへと結びつくのです」。
国防総省に勤務したパイプス氏は、1973年にハーヴァードに戻った時、研究したいものがわかっていたと語る。「エジプトに住み、中東を旅行しながら、この考えを抱きました。イスラームは、宗教そのものよりも、より大きく、もっと影響力がある、と...」。
そのことが、彼の論文と最初の二冊の著作の基礎だったが、学界の多くは、彼がよいテーマ選択をしたとは考えなかった。
「何か滅びゆくものを研究しているように見られました。何も関連がないことを」。もはや、そうではない。