反米政策をとっていたシリアが、湾岸戦争では多国籍軍に参加した。しかし独裁者アサドの思惑しだいでどうにでも政策の方向転換をするこの国との関係は米国にとって厄介である。シリアの変化を促す最も効果的な外交とは何か
西側を当惑させたシリアの路線変更
米国とシリアはこの三五年間決して良好な関係にあったわけではない。しかし、今やワシントンとダマスカスはたとえその数は少なくとも合意点を見いだしつつある。シリアと米国の軍隊は共同してアラビアの砂漠へと赴き、サダム・フセインの軍隊と戦った。米国とシリアは多国籍軍という名の下の同盟関係にあった。
シリアのマスコミは、これまでのような悪意に満ちた反米的なスローガンをとり下げ、両国の外交的接触も着実に増大した。そして、今年の七月、アサド大統領は、米国が呼びかける中東和平会議に参加すること、それも前提条件なしに参加することに合意したのである。
しかし、こうしたシリア側の態度の変化に西側はむしろ当惑した。中にはあまりにも唐突な路線変更も存在したのである。
これはシリア政治における根本的な転換を示すのか、それとも単に慎重になっているだけなのだろうか?また、アサドのイスラエルに対するイメージが一変したのだろうか、それとも彼は戦術的な微調整を行っているだけなのか?そして、米国はこの基盤の脆弱なシリアとの同盟関係を発展させていくべきなのか、あるいは野蛮な暴君とは一線を画するべきなのだろうか?
これらの疑問に答えるために、我々は、まずアサドの性格の分析と、シリアに影響を及ぼしてきた最近の実態の検討から始め、次にシリアにとって鍵となる二国間関係、すなわち対イスラエル関係を吟味する。そして最後に、この文脈の中での米国の政策に焦点をあてることにしよう。
アサドによる独裁政権の実態
他の独裁体制同様、シリアもその支配者の思うがままであった。アサド大統領は一方的に法律を発布し、一二〇〇万人のシリア人が生死を左右するような決定を思いのままに行う。それゆえ、シリア政治の理解は、まずアサドを理解することから始まるのである。
アサドの性格を理解する一つの方法は、サダム・フセインと比較してみることである。二人はだいたい同じ世代で(フセインは一九三七年、アサドは一九三〇年生まれ)、貧しい田舎の出身である。国内における少数派を代表しており、そしてほぼ同時期に政権について以来(サダムは一九七二年、アサドは一九六九年に権力を握った)、彼らはともに効果的な国内支配を行っている。性格についていえば、両者とも広大な野望の持ち主であり、秘密主義を信奉し、世界を敵か味方かという二分法で見る傾向を持っている。加えて、二人とも瀬戸際政策をも厭わない性格で、国家建設よりも軍備増強により関心を持っている。そして、それまでは混乱が支配的であった地に安定した秩序をもたらすために、双方とも極端な中央集権制を敷いている。両国の政治体制は、バース党の支配に基づいており、そこでは密告と暴力が横行している(ミドル・イースト・ウォッチは、イラクでは拷問が日常化していると指摘し、またアムネスティ・インターナショナルはシリアの監獄を「まるで拷問に関する専門研究所」と述べている)。さらに、両国はおもにモスクワに対して支持を求めているが、時折ワシントンに対しても色目を使ってくる。彼らはどちらもパレスチナ人を代表していると主張して、弱体な近隣諸国に対する支配をもくろんでいる。いずれにせよ、地球上のいかなる国家の組み合わせをとってみても、この二つの独裁体制ほど似ているものはないといえよう。
しかし、数々の類似点にもかかわらず、フセインとアサドは根本的に異なっている。まず、フセインは性格的に残忍であるがゆえに残虐行為を行うが、アサドは、権力の手段として残忍な行為を行う。また、フセインは栄光への夢に心酔するあまり政策を誤ってしまったが、アサドは限度をわきまえており、その枠内で行動する。さらに、フセインは、彼のあからさまな敵意によって、人類の敵にされてしまったが、アサドは、彼特有の狡猾さによってそうしたトラブルを回避している。その上、フセインは統御できないほどの短気さをますます示すようになり、タイミングについてもまったく見当違いの判断を行った(イラクの立場から考えた場合、クウェートへの侵攻を企てるにしてもあれほど最悪の時期はなかった)。だが、アサドは実に洗練されたタイミング感覚を持っている。彼は、相手の弱点を探り、正しい時を待ち、戦闘において最も有利な場を選ぶ(シリアが軍事的介入を開始して一五年後に行われた一九九〇年一〇月のベイルート奪取は政治的大勝利といえる)。アサドはこのようなやり方で敵を一つ一つ倒してきたが、実際にはイスラム教信者、レバノン民兵、ベイルートの米軍、南レバノンのイスラエル軍、そしてイラク軍という順序であった。要するに、アサドこそが中東政治における巨匠なのである。
アサドの動機を理解することは容易ではない。なぜなら、彼の言葉は彼の考えを暖昧に指し示すに過ぎず、彼の行動だけが彼の意図を表わすのである(アサドに関する二つの伝記が最近英語で発表された。一つはモシェ・マ・オズの著によるもので、もう一つはパトリック・シールの著によるものである。シールの方がアサド自身やシリアについて多くの新しい情報を含んでいるが、全体的に弁解がましい調子になっており、その信憑性が損なわれている)。
彼は、必要に応じて政策の方向転換を行う。たとえば、彼はこの一〇年問、一九七九年にイスラエルと平和条約を締結したとしてエジプト政府を常に批判してきたが、一九八九年に突然カイロと手を結んだ。
しかしながら、このような転換の中においても、三つの不変的要素がはっきりと認められる。まず、アサドとその一派すなわちアラウィー派によるダマスカス支配、次に大シリアの追求、そしてイスラエルに対する戦略的パリティへの欲求である。アサドはこの三つを軸として政策を展開している。イラクの人口の約一二パーセントを構成しているアラウィー派は、イスラム教の教団の一つとして描かれることがままあるが、アラウィーは実際は別個の宗教なのである。したがって、ダマスカスにいるアラウィー派の指導者は、ほとんどのシリア人にとって敵対する存在であり、その事実は、アサドとアラウィー派が一九六六年に権力の座に上って以来、彼らに暗い陰を投げかけている。イスラム教徒の敵意のために、政府職員の採用においてアサド体制は逆に自己の集団(アラウィー派)を偏重することになり、その結果政府はきわめて党派性の強いものとなっている。アサドが失脚すれば、宗教問の対立・抗争が引き起こされることであろう。皮肉なことに、自己防衛のためにもアラウィー派は政権に留まらねばならないのである。その結果が、敵意と抑圧の悪循環である。
それにもかかわらず、政府は内政における論争を回避し、外交問題を強調することによって、多数派であるスンニ派イスラム教徒にも支持基盤を広げている。外交問題の中で、少なくとも一九七四年以降、最大のものは大シリア建設の夢であった。大シリアとは、現在のシリア、レバノン、イスラエルおよびその占領地域、ヨルダン、そしてトルコの一部まで含む地域を意味する。中でもイスラエルは、大シリアにおける多くの地域で、さまざまな理由によりシリアに立ちはだかっている。アサドは反シオニズムを標傍することで、アラウィー・コミュニティー(もちろんアサド自身の祖父のコミュニティーも含まれる)がかつてシオニズムに示した友好的態度を埋め合わせようとしている(たとえば、おそらくはアサドの祖父を含む六人のアラウィーの著名人による一九三六年六月のフランス首相への手紙においても、パレスチナにおけるシオニストとの連帯関係が次のように表現されている。「よいユダヤ人はアラブのムスリムに文明と平和をもたらし、彼らは誰も傷つけず、また何も力で奪うことなく、パレスチナに黄金と繁栄をもたらす」)。また、反シオニズムによって、アサドはスンニ派イスラム教徒の反感をユダヤ人国家に向けさせることに成功し、彼の体制を(イスラム教徒としての)特権を奪われた多数派と結びつけている。加えて反シオニズムはヨルダン川の西側はシリアに属するべきだという領土的要求のレトリックにもなっている。アサドのパレスチナに対する野望は直接的であり(彼はパレスチナは南シリアだと主張する)、また同時に間接的でもある(彼はパレスチナ人の権利を支持し、パレスチナ組織の乗っ取りを試みている)。
一九七八年以来、パレスチナ支配に関するアサドの目標は、それによってイスラエルに対する戦略的パリティを形成することである。アサドはそれを次のように広く定義している。「戦略的パリティとは、何も我々がイスラエルと同型の戦車を持つべきだということを意味するわけではない。それは多くの要素から構成されるもので、兵器におけるパリティ以前に、文化、経済、政治の分野でのパリティが必要なのである」。
だが皮肉なことに、まさにそれらの分野こそ近年のシリアにおいて最も進歩のはかばかしくない分野なのである。ソビエト型の警察国家は必然的に抑圧や貧困をともなうものであるが、アサドは、それにもかかわらずシリアにこうしたシステムを強要してきたのである。ミドル・イースト・ウォッチはアサド体制について次のように述べている。
過去二〇年間の間に少なくとも一万人もの市民が殺され、現在も略式の死刑執行や監獄での虐待によって市民は殺され続けている。拷問は日常的に行われ、嫌疑や審理のないまま多数の人が逮捕、拘禁されているし、ある種の少数民族は迫害されている。また市民の表現の自由や結社の自由は禁止され、市民が政府に民主的に参加することも否定されている。
経済的にはシリアは、社会主義、クロニズム、巨額の軍事支出に拘束され、何年もの間停滞している。無能な政策のために五〇パーセントのインフレ率が毎年続き、シリア・リラの価値は実質的には過大評価されているにすぎず、西側に対する負債は六〇億ドル、ソビエトに対する負債は九〇億ドルにも上っている。
就業人口の三〇パーセントが農業に従事しているにもかかわらず、穀物は輸入に頼っている。都市部は、常に電力が不足しており、トイレットペーパーのような日用品は長期にわたって手に入らない。石油だけが唯一の光明なのである。シリアは現在一日約四八万バレルを生産し、そのうち、およそ二二万バレルが輸出されている。
アサド自身は、石油の生産以外には、経済問題にほとんど興味を持っていない。一九八七年以来その必要がなかったからだろう。というのも、風向きが彼に味方していたからだ。少ない人口、貧弱な経済、社会的な緊張、コミュニティーレベルでの衝突などにもかかわらず、アサドはシリアを中東における主要なプレーヤーに変貌させたのである。
世界変動の中で有利に立ち回るアサド
だが、その時、ゴルバチョフとペレストロイカ、東欧における共産主義の崩壊、そして中東でのソビエト・ブロックの後退という事態が起きた。
中東の北に位置する東ヨーロッパでおきた大変革は、シリアにも直接の影響を及ぼした。中欧の新しい指導者は以前のアサドに対する支持を放棄したばかりでなく、当時のイスラエル外相モシェ・アレンスの表現を借りると、イスラエルとの関係を更新するために「順番待ち」をしていたのである。
ソビエトにおける変化はいっそう厄介なものである。ソビエトの国内問題が深刻化するにつれ、モスクワにとって中東地域は次第に厄介な重荷となっており、クレムリンにとっては、シリア軍に援助を回すよりも、まず自分のところで緊急に資源が必要な状況となっている。ある計算によると、ゴルバチョフの就任当初と一九八九年の暮れを比較した場合、シリアに対する武器輸出は、五〇パーセント以上も落ち込んでしまった。
このような変化にもかかわらず、ソビエトとシリアの関係は依然として緊密である。モスクワは中東と関係を持ち続けており、アサドは中東地域における主要な同盟者である。一九八八年において、アサドはゴルバチョフ政権に対しタルタス港の海軍基地をソビエトに期限を定めず租借させることを認めたが、その結果タルタスは地中海における唯一の海軍基地となり、またおそらくはソビエト領土外における最大の常設海軍基地となったのである。また、二五〇〇人以上のソビエトの軍事顧問がシリアで勤務を続けており、ソビエトの先端物資も依然として同地に届いている。一九九一年当初、アサドはソビエトとの問に二〇億ドルの兵器取引を成立させた。ダマスカスがすでに何十億ドルもの恩恵をモスクワから受けていることを前提にしても、このコミットメントは顕著なものである。
これまで長期にわたり西側におけるアサドの評判は芳しいものではなかったが、彼はそうした姿勢を緩めることで、ソビエトの退潮に対応した。たとえば、一九八九年、シリアの政府高官はアムネスティのメンバーと会うことに同意した。また「殺されたものたち」の妻子の声も公にされ、一九九〇年三月には、二八年前に制定された非常事態立法の規定が廃止された。亡命シリア人たちも帰国を許可され、イスラム聖職者が体制批判を行うことも可能となった。そして、政府は自由化の証として議会選挙を一九九〇年五月二二日に行うことを一方的に宣言し、そこにおいて無党派層の立候補者の割合を一八パーセントから三分の一に増やすことを認めたのであった。このやり方は民主的ではないが、反対派の人間に対しても公の場に現れることを許したという点では政府側の譲歩なのである。
イラクがクウェートに侵攻する前の年、シリアの外交は二つの劇的な変化を経験した。まず、一九八九年一二月に発表されたエジプトとの完全な外交関係の復活宣言である。シリアは一〇年以上にわたって、キャンプ・デービッドでの平和条約調印に関してエジプトの指導者を非難し続けていたが、態度を変化させ外交関係を復活させたわけである。したがって、この関係改善は中東諸国間の勢力再編成を示唆するものであった。加えて、アサドはイスラエルに対するシリアの姿勢を軟化させた。一九九〇年初頭、アサドは米国のカーター前大統領に対して、ある種の条件が整えばイスラエルとの間に対話を行う用意があるという申し入れを行った。また、一九九〇年七月にはエジプトのムパラク大統領と会見した後で、要求が満たされる場合を想定しながらではあったが、「我々は平和実現への過程に参加する用意がある」との声明を発表した(一九九〇年七月一七日付『ニューヨークタイムズ』)。
また、西側の感情を和らげるために、アサドは、次のようなことも行った。彼はユダヤ系シリア人女性を解放し、反西側宣伝を控え、イギリスとの外交関係を回復し、米国の外交官との接触を認め、また、レバノンをめぐる政策の一部に関しては米国政府と協調したのである。また、彼は一九八九年初めにはテロリストが西側の目標を攻撃するのをやめさせ、シリアで長い間テロ活動の指導者であったモハメッド・アル・クーリを軍の諜報部のトップから追放した。
すなわち、アサドは、イラクのクウェート侵攻以前の段階ですでに多くの政策変更を行うことで状況を整理し、その一方でイスラム原理主義者たちには極力手を触れずにおいた。サダム・フセインがクウェートへと侵攻したのは、アサドがこうした状況整理を行った後のことであった。
シリアが湾岸戦争で得た利益
湾岸危機はアサドを大いに利するものであった。まず最初に、湾岸危機によって石油価格が高騰し、その結果シリアにも二億ドルの収益がもたらされた。加えて、反イラク連合のパートナーから資金援助が行われた。ECは二億ドル、日本は五億ドルの借款をシリアに与えた。そしてサウジアラビア、クウェート、他の湾岸協力会議諸国(バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーン)は、二〇億ドル以上もの資金提供を約束したのである。
湾岸危機は、シリアの国際的地位をも向上させた。エジプトやサウジアラビアとの連合に加わったおかげで、アラブ政治におけるシリアの孤立は終わりを告げた。そして、フセインが退場したいま、シリアの軍事力はアラブ政治における大きな要素となり、エジプト以外の国はその影響力に対抗できない状況となっている。
だが、より注目すべきことは、アサドが米国主導の連合に加わったことである。シリアの部隊は湾岸戦争における貢献はとるに足らぬものだった。しかし彼らの存在は、シンボルとして機能したのである。すなわち、多国籍軍側にとっては過激な反米体制に対する制裁を可能にし、一方でサダム・フセインがアラブにおける米国のパートナーを米国の犬と中傷することを困難にしたのであった。シリアがクウェートに関する制裁を進んで行ったことはワシントンに歓迎されたが、アサドの方も自分の行為の重要性を声高に叫ぶことを躊躇しなかった。「私はあなたがたを守っているのです」、彼は見返りを要求しつつ、米国の高官にそう語ったのである。その見返りとは、経済援助に留まらず、シリアをテロリスト支援国家のリストから外すこと(これによってシリアはハイ・テクへのアクセスを含め、さまざまな利益を蒙ることになる)、イスラエルに対する政治的圧力とイスラエルのシリアに対する武力不行使の保障などである。
要するに、アサドは反フセインの立場に立つことによって、流入する多額の資金、アラブ世界における新たな友人、中東地域における地位の向上を獲得できた。また、彼は反フセインの側に立つという戦略により、反米陣営から親米側へとまんまと鞍替えすることができたのである。彼は自分の威信を損なわず、過去の悪行は暗に水に流し、自分からは譲らないという思いどおりの条件でそれをやってのけたのである。したがって、アサドにとっては、彼の最悪のジレンマの数々を解決し、ソビエトによる保護が行き詰まっていた状況から彼を救い出したという点で、イラクの侵攻は天佑ともいうべきできごとだったのである。
さらに、湾岸危機によってアサドが一五年にわたって辛抱強く追求し、普通のシリア人なら終生待ち続けてきた目標、すなわちレバノンの支配を達成することが可能になったのである。
そもそも、一九二〇年の建国以来レバノンを独立した国家として認めてきたシリア人はほとんどいない。しかしながら、一九七五年のレバノン内戦勃発によって初めて、武力介入の機会が現れたのである。内戦が始まって以来、シリアは年々その影響力を拡大してきた。一九八〇年代半ばまでに、四万人のシリア軍がレバノンの三分の二を支配していたが、湾岸危機によって国際的に注目されたため、フセインはレバノンにおける彼の手下である、マイケル・アオウン将軍を支援することができなかった。だが、アサドは迅速に行動した。シリア軍はわずか三時間でベイルートのほとんどとレバノンの大部分、すなわち南部やその他の地域に散らばっているイスラエルの「安全地帯」以外のほぼ全域を制圧した。一九九〇年一〇月一三日、彼の一五年にわたる努力がついに報われたのである。
一九九一年五月、シリアとレバノンは条約を調印したが、シリアはそのプロセスのほとんどの段階におけるイニシアチブをとった。同条約は政治、軍事、経済、文化、科学技術の領域で両国が協力すること、長官と双方の国の三人ずつのメンバーからなる最高会議を設立すること、シリア軍をレバノン領内に駐留させる正式の要請(無論さまざまな条件付きで)などを内容としている。
レバノン国民の感情を和らげるために、「統一(unity)」とか「統合(integration)」という用語の使用は差し控えられた。その結果、「二つの別々の国家にいる一つの民族」という表現が用いられた。シリアのシャラ外相はレバノン国民とシリア国民の大多数は国家連合を歓迎するだろうと明言したが、シリア政府は当分の間はそのような行動はとらないと付け加えた。しかしながら、条約締結の一日後に起こったレバノンの有力な条約締結の反対者であるマイケル・サラーブの暗殺は、シリアのレバノン支配がすでに現実のものであることを示唆しているといえよう。
このシリアによる事実上のレバノン支配によって、レバノンにおけるさまざまな活動を統制することが可能になる。たとえば、これまでアサドの政敵はレバノンを本拠地として、アサドに対する批判を行ってきたが、アサドが同地における報道の自由を禁止すればそれも不可能となる。また、アサドにしてみれば、レバノンにおける麻薬取引の上前をいっそうはねることもより簡単となるであろうし、その結果、もたらされる利益は一年間に約四〇億ドルにも達すると試算されている。加えて、アサドはイスラエルに対する潜在的な前線基地を新たに得ることにもなる。これらすべてがアサドを強化するものだが、最後の点がとりわけ重要である。なぜなら、アラブ-イスラエル間の対立における鍵を握るのはシリアに他ならないからだ。
シリアがアラブ・イスラエル紛争の鍵を握る
アラブ・イスラエル紛争における最重要問題がパレスチナ問題であると考える人々は、アラプ諸国の動向をさほど気にすることはないのだが、多くの点において紛争の鍵を握っているのはパレスチナ人以上にアラプ諸国なのである。こうしたアラブ諸国は、建国間もないイスラエルと一九四八年に戦争を始め、地域紛争を国際問題へと変質させたのである。敗戦の後もこの問題を引き続き争点とするため、彼らはパレスチナ難民のアラブ諸国への入植を拒否した。アラブ世界の王族、首長、そして大統領たちは、一九六四年に関かれた会議においてPLOを設立することを決定した。一九六七年、一九七三年の中東戦争を行ったのは、パレスチナ人ではなく、アラプ諸国なのである。この四〇年の間パレスチナ人たちは、バグダッド、アンマン、ダマスカス、およびその他のアラブ諸国の出先機関の役割を果たしてきたのである。
こうしたアラプ諸国のなかで、イスラエルにとって最も厄介な存在であったのはエジプトである。同国は、軍事力を備え、積極的なリーダーシップをもち、また、かなりの国土規模を誇り、地理的にも重要な位置に存在する国であった。しかし、一九七九年にはエジプトはイスラエルとの間に平和条約を結び、こうした敵対関係にも終止符が打たれた。その後イスラエルの関心は、近隣のアラブ諸国における二番目の強国シリアへと向けられた。というのも、一九七九年以降のアラブ・イスラエル紛争とは現実的にはシリア・イスラエル紛争であり、シリアは戦争か平和かをめぐるアラブ側の決定に圧倒的な影響力をもっていたのである。すなわち、アサドが和解の姿勢を見せない限り、紛争は継続するということだ。一方でアサドがその気にさえなれば、アラブ・イスラエル紛争の国際的側面は減少し、パレスチナ問題も地域問題として取り扱うことが可能となる。これは、外部世界の人々にとってはパレスチナ問題がさして重要な問題ではなくなることを意味し、同問題に直接的に関わるものにとっては好ましいことではないだろう。
副次的な問題に関しては、イスラエルとシリアの利害は多くの点で一致する。たとえば、レバノンに関しても、シリアはイスラエルの安全保障上きわめて重要な部分には進出しようとしないし、一方でイスラエルは、(シリアが軍事力を展開せず、先端技術兵器を配備しない限り)それよりも遠隔地におけるシリアの影響力にはあえて異を唱えない。何らかの衝突が起きても、シリアとイスラエルの双方はお互いの領域をわきまえている(イザク・ラピンによれば、こうしたイスラエル、シリア間の了解事には六つの側面があるという。すなわち、レバノンとイスラエルの国境地帯にシリア側が軍事力を展開させないこと、地対空ミサイルをレバノンに配備しないこと、シリアの戦闘機を同地域に配備しないこと、レバノン南部のイスラエルの「安全保障地帯」を脅かさないこと、そして南レバノン軍がジェズイン包領を管理することである。一九九一年五月二一日付『エルサレム・ポスト』)。
両政府とも、ヤセル・アラファトを嫌っており、パレスチナに新リーダーが生まれることを望んでいる。両政府がアラファトの後任者に関し合意に達する可能性は低いとはいえ、双方ともアラファトの影響力を限定していくことに関しては協力するであろう。一九九一年の四月、イスラエルはシリアに対し、同国がPLO影響下のレバノン南部を制圧するために軍を進めることを認めた。
また、それが二次的な重要性しか持たない問題であれば、イスラエルとシリアは交渉によりこれを解決することが可能である。たとえば、イスラエルはリタニ水源を何とかして共有したいと考えている。信頼醸成措置、非軍事地帯、兵力および兵器削減といった軍備管理分野においても、両国は交渉を行うことが可能である。
一九六七年の中東戦争により、イスラエルはシリアからゴラシ高原を奪ったが、同問題をめぐる両国の関係はより困難なものである。イスラエルはゴラン高原を手放すことには難色を示しており、一方でシリアは同地の返還を外交交渉のための大前提と考えている。しかし、ここでもある意味では暗黙の了解が存在する。
イスラエルの立場は次のようなものである。まず第一に、一九四八年から一九六七年までシリア軍がゴラン高原におり、イスラエル北部の農民は危険を避けるため同地を後にせざるを得なかった。イスラエルがゴラン高原を確保したのは、こうしたことが再び繰り返されるのを避けたいためなのである。また、今一つの理由として、同地が一九七三年にきわめて重要な緩衝地帯となったことをイスラエル側は指摘している。同地域に住むイスラエル人は、「ゴラン高原がなかったら、我々はイスラエル北部のほとんどを失っていたかもしれない」と語っている(一九九一年三月二五日号『デル・スピーゲル』)。
また、ゴラン高原を維持するために必要とされるイスラエル側の経済的負担はさほど大きくない。国境線は比較的安泰であり、同地域におけるシリア人の人口も一万六〇〇〇人と少ない。同地に居住するのはおもにドルーズ人であるが、彼らはイスラムの系譜を引くとはいえ、その主流とは見なされておらず、シリア、あるいはイスラエルどちらでもさほど気にしないのである。
こうした理由により、イスラエルはゴラン高原地域を自国の領土として維持したいと考えている。世論調査によれば、イスラエル選挙民の九〇パーセント以上は一貫してゴラン高原の維持を支持しており、イスラエルの指導者層もこの件に関しては確固たる立場をとっている。シャミル首相は、今後のシリアとの交渉においても、ゴラン高原を諦め返還するつもりはないと語っている(一九九一年三月一八日、DFラジオ)。シャミルはまた安保理決議二四二号はゴラン高原問題とは「何ら関係ない」と発言している(一九九一年三月一八日イスラエル・テレビ)。また、イザク・ラビンも労働党・多数派の見解として、「シリアとの和平という文脈で考えたとしても、我々はゴラン高原を放棄すべきではない」と発言している。
シリア側は時折ゴラン高原の返還を要求するものの、ゴラン高原をイスラエルとの問題の中核におこうとはしないが、それにはそれなりのわけがある。アサドにとって、イスラエルとのゴラン高原問題は、シリアにおける国内不満を対外的脅威に吸収させるための格好の材料となっているからである。先に指摘したように、アサドの国内支持基盤は脆弱であり、彼は反シオニズム的立場をとることにより、多数派であるスンニ派勢力を取り込むことができる。すなわち、イスラエルがゴラン高原を占領している限り、かれはそれを国内的に利用し、反イスラエル勢力強硬派としての立場を利用することができるのである。
アサドはこうした国内的な理由から、イスラエルのゴラン高原の維持を暗に認めているわけであるが、しかし、このことは同時に(反シオニズム政策を強化させることになり)イスラエルの存在を認めないことにもつながるのである。一九七三年以来のアサドの対イスラエル姿勢は、五つの条件によって形成されてきたが、彼はこの条件を公私を問わず繰り返し表明している。すなわち、
――撤退前の交渉は行わない。イスラエルは一九六七年の戦争によって獲得した領土をシリアとの交渉を行う前に返還すべきである。
――部分的解決は認めない。信頼醸成措置、経済ボイコットの解除、水資源利用に関する協力体制といったことは、イスラエルの撤退前には不可能であり、撤退が行われて初めて可能となる(一九七四年のゴラン高原に関する合意は例外である)。
――直接の二国間交渉は行わない。イスラエルとの交渉は、国連決議に基づく国際会議や、国連主催の国際会議の場においてのみ行われる。
――ゴラン高原問題に関する個別の交渉は行わない。イスラエルは、ゴラン高原だけではなく、一九六七年の中東戦争によって獲得したその他の地区、すなわち、西岸、東エルサレム、ガザ地区からも撤退し、こうした地域における民族自決権を認めるべきである。
――正式の平和条約は締結しない。イスラエルが、シリア側の要求をすべて満たしたとしても、シリア側が調印するのは不戦条約である。シリアはイスラエルと不戦条約を結ぶことはあっても、外交関係やその他の二国間関係の正常化は行わない。
こうしたアサドの要求のすべては、リクード党、労働党の双方にとって受け入れられるものではない。イスラエル側の立場は次のようなものである。イスラエルは、撤退の前に直接交渉が行われるべきであり、領土の返還の前に何らかの暫定的な取り決めが必要であると考えている。また、同国は国連主催の会議には参加すべきではなく、アラブの領土を返還する際には、平和条約が締結されるべきだと考えている。すなわち、シリアが申し入れている条件をイスラエルが受け入れることはないという確信をもってアサドはこのような条件をつけているのである。
これまで、そうしたイスラエルの拒絶姿勢はアサドの立場に叶ったものであったが、このアサドの姿勢に変化がみられたのだろうか?状況はどっちともとれる。
肯定的な面に関して言えば、モスクワがシリアの戦争を支持することはもはやなく、シリアがイスラエルとの問題を戦争で解決する可能性が低くなったことを指摘できよう。またアサド自身も、エジプトや米国との関係を改善させてきている。さらに、先に指摘した五つの条件をめぐる頑なな姿勢にも変化がでてきている。
――撤退前の交渉なし。この原則は変化してきている。一九九一年の六月一四日。アサドはブッシュ大統領のイニシアチブの中で受け入れられる部分に関しては肯定的な反応をし、米国・ソビエトが主催するイスラエルとの和平会議に加わることを示唆した。
――部分的解決の拒否。一九九一年の三月、シリアのシャラ外相は米国のベーカー国務長官に対し、イスラエルの撤退が行われる前に、同国との和平条約を締結したり、その他の方策をとることは「本末転倒」であると語った。その二ヵ月後、シリア政府は、「シリアがイスラエルとの単独講和を行うことは考えられず、またイスラエルとパレスチナ間の単独の講和は受け入れられない」と声明を発表し、(パレスチナ問題の解決を、イスラエルとアラブ諸国の紛争終結へと結びつけようとする)米国の二重外交をはっきりと拒絶した(一九九一年五月一一日付『ル・モンド』)。
――イスラエルとの直接二国間交渉はありえない。アサドは、それが国連が主催した会議である場合に限り、イスラエルとの個別交渉に応じることを公式に述べた。
――ゴラン高原を単独の問題とする交渉には応じない。アサドは和平の条件としてパレスチナ問題の解決を要求しており、理論的には、パレスチナ問題の重要性はこれまでになく高まっている。しかし、彼がこの立場を維持するかどうかは定かではない。
――正式な和平条約は結ばない。シリアは、平和交渉を時期尚早だとして拒絶した。しかし、シリア人の大部分はゴラン高原の返還と引換えに不戦条約を結ぶことには乗り気である(彼らは、ゴラン高原が返還されればその他の領土返還要求を取り下げてもよいと考えている)。
すなわち、アサドは、イスラエル国家の恒久的な存在を認めることなく、その領土(ゴラン高原)を取り返せることになる。
ここに指摘した第一、第三、そして最後の点に関し、シリア側はその態度を軟化させているが、一方で第四番目の問題に関しては態度を硬化させているようである。したがって、シリアの態度をはっきりと見極めることは難しいが、全般的にみればシリアの外交姿勢はかなり変化してきているといえる。
否定的な面に目を移してみよう。シリアのテロリズムに対する支援は低下してきているが、いまだになくなっているわけではなく、問題となっている。
シリアが関係したテロ事件、それも特に西側を標的としたものは、一九八六年以降急激に少なくなってきてはいるが、それがなくなったわけではない(このことの好例は、一九八八年の一二月に起きたパンナム一〇三便の爆破事件であろう。シリアは同事件に関与していた。また、シリアのテロ集団に対する援助はいまだ行われている)。
また、アサドが、戦争という選択肢を完全に捨て去ったかどうかも疑問である。もしそうであれば、どうしてシリアは依然として国内総生産の三〇パーセント、あるいは国家予算の五五~六〇パーセントにも相当する額を軍事費に投入しているのであろうか?レバノンとゴラン高原沿いのシリアの防衛体制が世界でも最強のものであるのはどういうことなのだろうか?シリアが最近ソビエトやハンガリーから新型の地対空ミサイル発射装置を数多く購入したのはどうしてであろうか?地対空ミサイルに関して言えば、一九九一年の三月の段階で、シリアが北朝鮮から六〇~八〇台のスカッド・ミサイル発射台を購入したのはどうしてであろうか?なぜ、六二〇機の戦闘機を有していながら、四八機のミグ29戦闘機と二四機のスコイ24戦闘機を購入したのだろうか?また、なぜ四二〇〇台もの戦車を持っていながら、加えて三〇〇台の戦車を購入したのだろうか?さらに、どうして二三〇〇台の大砲が必要だったのだろうか?また、どうして(ダマスカス、ホムズ近郊にある)二つの工場は、毎年数十万トンもの化学ガスを生産し、そうしたガスが地対空ミサイルの弾頭として準備されているのであろうか?
中東和平をめぐるアサドの思惑
アサドが自らの政権維持を目的として戦争という手段に訴える可能性がある以上、和平という選択肢が政権の維持を望むアサドにとって好ましい選択肢であるかどうかを考えてみる必要があろう。彼は、世論を無視し、その気になればイスラエルとの紛争を終わらせることのできるような強力な権限をもった独裁者なのだろうか?あるいは支持基盤の弱いアサド政権は、こうした大胆な政策をとることを躊躇するのだろうか?
彼が大衆の意向を無視し、イスラエルとの和解を行うことができるとすれば、それはどうした状況下で、またいつ起こるのだろうか?事実、これまでにもそうした例は存在する。一九四七年アサドは、イスラエルとの問で不干渉協定を結び、また一九七六年には、ムスリムやパレスチナ人を敵に回し、レバノンのカトリック連合を支持した。さらに、一九八〇年にはイラクと戦争中のイランを支持した。また、より最近では世論を無視し、反イラク連合に参加したのである。
湾岸戦争の際、シリア人の多くはサダム・フセインを支持しており、シリア政府の反イラク政策に強硬に反対した。シリア東部の町では、サダム・フセイン支持の民衆デモが大がかりに行われた。民衆はイラク支持のスローガンを叫び、イラクの国旗を振り、シリアのメディアが「バグダッドの殺人者」と呼んでいた人物の写真を掲げ、行進したのである。ダマスカス南部では、アサドのポスターをはがす人物まで現れた。こうした行為をシリアにおいて行うことは、政府に対する重大な挑発行為であり、かなりの危険をともなうものであるにもかかわらず、である。一九九〇年の九月、シリアおよび諸外国の外交官たちは、シリア人の七五パーセントがサダム・フセイン支持であると判断していた。しかし、一二月には、シリア当局自身が、シリア民衆のイラク支持は八五パーセントに達すると発表した(一九九〇年九月二七日付『ウォール・ストリート・ジャーナル』、一九九一年三月二八日付『クリスチャン・サイエンス・モニター』)。
要するに、シリアにおけるサダム・フセイン人気は、ヨルダンにおける彼の人気に匹敵するものだったのである。フセイン国王が、こうした大衆の感情を懐柔する必要があると考えたのに対し、アサドは軍事・警察力とプロパガンダ政策をとることによりこれを弾圧した。八月の下旬に行われたデモに対しては五万人の機動部隊が投入され、一二人が死亡した。ヨルダンのサダム支持のテレビ番組、そしてレバノンのテレビが中継するCNNニュースに対しては、シリア国内でそれを見ることができないよう妨害電波が流された。
アサド政権は一方で民衆に対する懐柔策もとった。バース党員が全国を回り、アサド政権を支持する演説を行ったのである。しかし、シリアのメディアは、一万八〇〇〇人のシリア兵がサウジアラビアに展開され、米軍の指揮系統下に効率的な活動を行っていることにはいっさい口をつぐんだままであった。アサドがここまで周到に世論操作を行ったこと自体、彼の立場が脆弱なものであることを物語っているといえよう。
他の賢明な支配者同様、アサドもまた大衆に人気のない政策をとるのは、それがどうしても必要とされる場合のみのようである。アサド政権の存続という観点からは、国内政策の決定の方がより重要であり、彼は定期的に有無を言わさず彼の意志を国民に強要する(このことはたとえば、政府の重要ポストをアラウィ派の人物で独占させたことからも明らかである)。一方、外交政策に関しては、民衆の立場を配慮し、より穏健な政策をとる傾向がある。アサド政権が、大シリア構想を持つ一方で、毒々しい反シオニズム主義をとっていることは、こうした点をもって説明することができよう。
それなりの好都合な理由が存在すれば、アサドがイスラエルとの和平に踏み切る可能性も否定できない。たとえば、イスラエルとの和平を行うことで、彼の政権に対する脅威を抑え込み、あるいは戦争を回避することができるのであれば、彼はそうした選択肢に興味を示すであろう。しかし、現状ではそうしたことが実現される可能性はそう高くはない。
アラブ諸国の指導者たちは、イスラエルとの戦争を行う際にはモスクワを頼みとし、一方で和平工作に関しては米国を頼みとしてきた。彼らは、これまでの経験を通じ、領土返還を実現させるには戦争よりも外交の方がうまく機能する可能性が高いことを認識している。
アラブ諸国のイスラエルとの交渉スタイルには二つのモデルが存在する。すなわち、サダト方式と、アラファト方式である。サダトは本質的に誠実であり、彼らはその対イスラエル政策を変更し、両国間の問題を解決することでイスラエルとの和平条約を結んだ。一方アラ
ファトは不誠実であり、交渉を行うことでイスラエル側の世論を変化させ、イスラエルとワシントンの関係を断とうとする。しかも、彼はイスラエルの立場を受け入れるつもりなどそもそもないのである。
現状では、アサドの立場はアラファト方式に近いものと言えよう。アサドは、交渉とは敵を崩壊させるための一手段であると考えており、この点で、特にアラファト方式を踏襲していると言えよう。彼は、イスラエルとの問題解決には興味を示していない。むしろ、シリアの敵対的な対イスラエル外交の基本は不変であり、またその主要な目的はこれまで通り、かつて親シオニズム的だったアラウィ派の立場を挽回させ、スンニ派の反シオニズム感情を煽り、バース党のイデオロギーの実現を図ることなのである。
中東和平が行われれば、イスラエルは単なる地域国家となり、中東外交の枠組みの中の一国家となる。そうなれば、イスラエルはシリアよりも、エジプトやヨルダンと共通の利害を有することになり、シリアの勢力拡張を抑えようとするエジプトやヨルダンと協調することになろう。また、イスラエルのレバノンに対する選択肢も増えることになる。別の言い方をすれば、イスラエルが中東秩序に組み込まれれば、アサドにとっては利益にはならず、彼はこれに反対する十分な理由を有しているのである。
しかし、いずれにせよ中東和平をめぐってアサドが強硬策にでるとは考えにくい。彼は現在の微妙なバランスの上に成立している西側との関係を損ねたり、あるいは軍事的壊滅を招くより、平和的な手段でイスラエルとの関係を構築していくであろう。シリアがイスラエルとの和平を行ったところでその政治的報酬は限られたものであり、アサドがこの問題に深入りするとは考えにくい。一方でイスラエルも、ゴラン高原を手放すことによって生じる軍事的リスクを犯してまで、同地を返還することはないであろう。もちろん、米国政府はイスラエルとシリア問の平和交渉を実現するための努力を行うべきであるが、その際には、過度の期待を抑え、忍耐と成果に限界があろうことを認識して行動すべきであろう。
米国はアサド政権にどう対応すべきか
当初の二つの疑問はすでに解きあかされた。クウェートにおける危機も、シリアの政策の抜本的な変化をもたらさなかったのである。困難な状況を前にしたシリアは、そうした状況を同国にとって最大限有利に導こうと立ち回っただけである。第二に、シリアのイスラエルに対する根本的な姿勢には何の変化もない。ただ、シリアはタイミングを測り、戦術的な変更を行っただけである。もしそうであれば、米国は、その基盤が脆弱なものであるとはいえ、そうしたシリアとの関係を強化していくべきなのか、それともアサド政権とは一線を画していくべきなのであろうか?
この問題を検討する際には、次の三つの点を考慮していくべきであろう。
――アサドとアラウィ派の支配が続く限り、シリアが大きな方向転換を行うことはあり得ない。アサド政権の支配基盤は強く、不必要な政策変更は行わないであろう。大幅な政策変更が行われるとすれば、それはスンニ派が支配権を握ったときであると考えられる。
――シリア経済はアサドの弱点である。ソビエトは、もはやこれまでのようなシリアに対する経済支援を行っておらず、また石油資源をもつアラブの富裕国は今や米国と協調関係にある。アサド政権の攻撃的な外交政策の基盤である軍事力は、海外からの収益に依存していたわけであるが、いまやこうした資金源を左右するのは米国である。
――シリアはアラブ・イスラエル紛争の核である。したがって、シリアを除いた完全な平和プロセスなど非現実的である。他のアラブ諸国は、戦争あるいは平和といった重要な決定を行うことはできないのであり、シリアに脅かされた場合、イスラエルとの合意を遵守できないであろう。こうした点を考慮すれば、現状における最も危険な選択肢が明らかとなる。すなわち、米国はサダム・フセインに対して犯したのと同じ過ちを、今回はアサドに対して犯す可能性があるということだ。過度に友好的な関係を長期にわたり維持することは危険である。というのも、第一に、中東諸国はこれまでも海外諸国を受け入れ、その防衛を彼らに任せ、そして最終的にはそうしたパトロンを裏切ってきたのである。サダトはソビエトに対しこうした裏切りを行い、ホメイニは米国を裏切った。そしてサダム・フセインは、米国とソビエトの双方を裏切ったのである。アサドが米国の裏をかく可能性は十分あると言えよう。
第二に、米国は戦術的な同盟関係を友好関係とはき違える傾向をもっているが、この二つは必ずしも両立するとは限らない。米国は、第二次世界大戦後にスターリンと協調することを望んだが、その結果被害を受けたのは東ヨーロッパ諸国であった。米国はイラン・イラク戦争によって生じたサダム・フセインとの関係を一九八八年の時点で切ってしまうべきであったが、愚かなことにその後二年間も関係を維持してしまい、湾岸危機を招いた。米国はこうした過ちをシリアとの間に犯す危険性がある。一九九〇年の一一月の時点で、ブッシュ大統領がアサドを懐柔し、米国主導の多国籍軍に引き込んだのは賢明な策であったが、戦争が終了した今や米国はシリアに対するその立場をより明確にすべきであろう。
まず何よりも、米国政府はアサドに対し、恒常的で安定した外交関係というものは共通の利害を持っていてこそ成立するということを思い起こさせるべきである(また、このことは米国の政府関係者も再度認識すべきであろう)。先のシリアにおける会談において、ベーカー国務長官は「我々が緊密な外交関係を維持するのは、その相手国が我々と一致する基本的価値を持つ場合のみである」と発言した。米国は、シリアが米国との関係を維持し将来における協力体制を構築したいのなら、抜本的な改革を行うべきだと要求すべきである。
それが、かなりの条件的に制限され、思惑に満ちたものとはいえ、シリアは、アラブ、イスラエル間の和平プロセスへの参加をほのめかすような発言をしている。これは米国とシリアがよりよい関係を構築するための好スタートではある。しかし、これで十分というわけではない。アサドは、中東和平交渉の目的に関するシリアの柔軟な姿勢を明確にし、その姿勢が真剣なものであることを示さなければならない。また彼は、その政権の本質を変化させるような一連の改革措置をとる必要がある。こうしたものの一部として次のようなことを指摘できよう。人権問題の大幅な改善、(石油輸出の収益をあてることによって軽減することのできる)西側への一〇〇万ドル(ママ)の債務支払いの実行、軍拡路線を停止し、その分をシリア国民の生活レベルの改善に回すこと、テロリストを逮捕し、法的な裁きを受けさせること、シリア国内、あるいはシリア領で活動する数十のテログループを追放すること、直接的なテロリズムへの関与をやめること、レバノンからのシリア軍の段階的リズム(ママ)への関与をやめること、レバノンからのシリア軍の段階的な撤退を行うこと、そしてレバノンにおける麻薬取引に対するシリアの関与および援助をやめること、などである。
友好的な態度を発展させていけば状況も改善されよう。たとえば、シリアが支援したテロ活動による米国人犠牲者に対する何らかの償いを行うことも一案である。また、西側のジャーナリストや学者のシリア国内における調査を許可し、そのアクセスを制限したり、その報告を検閲したりしないことである。さらに、レバノンのアメリカ人人質解放への支援、シリア国内で捕えられている四〇〇〇人のユダヤ人の釈放、そして、アロイス・ブランナー(いまだ逃走中のナチ高官でサイモン・ウィーセンサール呼ぶところのナチ・ドイツにおける最悪の犯罪者)やPFLPのリーダー、オマッド・ジャブリルといった人物を西側へ引き渡すことなどである。
こうした要求のいくつかは短期的にみれば非現実的なものかもしれない。しかし、こうしたことを要求し、彼らがそれを実践すれば、それは、シリアが米国と同じ立場をとっていることを実証することにあり、これはきわめて重要なことである。というのも、この数十年間は実現不可能と思われていた米国の政治価値が、世界各地において突如として彼ら自身の政策として採用されるのを、我々はここ数年間のうちに目のあたりにしてきた。
こうした政策すべてが、シリアの国益に合致するものであり、その実現を期待するのは何も非現実的なことではない。さらに言えば、人権問題を例外とすれば、こうした要求を実践したとしてもアサドの政権基盤が揺るがされることはないのである。
逆に、こうした要求をシリアが拒否すれば、アサドは米国との関係を改善させるのに乗り気ではないと受け取られるであろうことを、シリア側が理解するように働きかけるべきである。アサドが要求を受け入れれば、その分米国も積極的に応えることになろう。
この件に関し、ワシントンはどのような影響力を行使できるであろうか?最も効果的なアプローチは、米国の経済外交を通じてシリアを変化させることである。米国は、発展途上国が米国へ製品を輸出する際には通常よりも低率の関税での輸入を認めるというシステム(GSP)を採用しており、現在シリアはこのシステムによる思恵を受けている。しかし、厳密に言えば、シリアは、このシステムの受益国たる条件の一部、すなわち、労働者の権利、あるいはテロリズムといった側面での条件を満たしていないのである。また、シリアの油田はその採掘に技術を要し、米国はそれに必要とされる採掘技術を供与している。シリアはこうした米国からの経済的恩恵を受けているが、一方でこうした便宜に対する返礼を行っていないのである。シリアは、米国の金融資本を必要としており、米国との貿易、そしてシリアに対する投資が行われることを望んでいる。こうしたことを米国は拒絶できる立場にある。さらに、米国はシリアに対する信用供与、最恵国待遇、あるいは政府保証保険を停止させることも可能なのである。
理想的には、米国のみならず、西側およびアラブの世界友好国が足並みをそろえシリアに改革を促すことが望ましい。もし彼らが足並みを乱すようなことがあれば、庄力をかけてでも共同歩調をとらせるべきであろう。少なくとも、こうした友好固にシリアを経済的に援助しないよう働きかけることはできよう。
もし米国の指導者たちにとって、シリアを変革させることが外交的な優先課題であるのならば、その他にもうつべき手は存在する。
たとえば、米国におけるシリア外交官の数を制限したり、シリア国籍の人物に対する米国内の旅行制限、またシリアの近隣国に対シリア強硬策をとるよう働きかけることである。最も野心的な策は、シリア国内における反アサド勢力を支援することで、アサドを失脚させスンニ派を権力の座に導くことであろう。
確かに今現在は、こうした方策をとるべき時期ではないかもしれない。しかし、米国はシリアがきわめて危険な国であることを忘れてはならない。アサドは侮れない相手である。シリアの政策に影響を与えていくためには、一貫性を持ち、一進一退を受け入れる忍耐が必要である。
結局のところ、米国とシリアの関係はきわめて不平等なものである。米国がシリアを必要としている以上に、アサドは米国を必要としている。しかし、彼は米国に頭を下げずに、米国の援助を引きだし、その政権基盤の強化を図ろうとするであろう。こうしたことが現実となってはならない。米国とシリアの関係が健全な基盤の下に強化されるためには、米国政府はその道徳的で政治的に健全な立場を妥協させることがあってはならない。
同様に、もし米国がイスラエルに妥協を強要するようなことがあれば、シリアは重要問題に対する柔軟な態度をとる必要はないと判断するかもしれない。そうなれば、イスラエルとの和解も限定されたものになってしまうであろう。
ダニエル・パイプスは、フィラデルフィアにある外交政策研究所所長。この論文は、Washington Institute for Near East Policyにおいて発表された研究論文、Damascus Courts the West: Syrian Politics, 1989-1991からの抜粋。
Reprinted by permission of FOREIGN AFFAIRS, December 1991. Copyright 1991 by the Council on Foreign Relations, Inc. www.ForeignAffairs.com and Foreign Affairs, Japan. www.foreignaffairsj.co.jp