いまや中東問題の比重は、かつてのアラブ・イスラエル問題から、イランとイラク、そしてトルコや中央アジアをめぐる問題へと移動しつつある。ソビエトの崩壊、そして湾岸戦争によって、中東秩序は大きな変貌をとげている。とくに注意すべきは、イラクとイランである。イラクに対しては、制裁解除の条件として、国連安保理の決議履行ばかりでなく、サダム・フセインの権力の座からの追放という要求をさらに加えるべきであろう。また、イランが国内で穏健路線をとっているからといって、彼らの反西欧的な外交姿勢に何ら変わりがないことを見逃してはならない。イランは、イラクに対する国際的な締め付けが厳しくなっているこの時期に、着々と軍備増強を進め、石油資源をもつこの重要地域での地域的覇権の実現を画策しているのである。
一九九二年の中東における出来事を規定したのは、イランとその近隣諸国だった。すなわち、イラン、イラク、サウジアラビア、さらにはアフガニスタン、中央アジア諸国、トランス・コーカサス地方(カフカス山脈の南に位置するアゼルバイジャンやアルメニア共和国)、トルコなどの諸国が中東における大きな流れを形成したのである。これらの地域よりも北に位置する諸国がソビエト崩壊の余波の中にあったのに対して、南側の中東諸国は湾岸戦争後の問題に対処していかなければならなかった。
一九九二年は暴力と戦争の年だった。イランは湾岸諸国の市民を国内から強制的に退去させた。またイラク政府は、同国北部のクルド人、南部のシーア派に対する弾圧を続け、その結果、イラクは実質的に三つの地域へと分裂してしまった。アフガニスタンのナジブラ政権は倒れ、内戦はさらに激化した。そしてタジキスタンでも内戦が勃発した。一方、アルメニアとアゼルバイジャン間の紛争では、すでに数千もの人々が犠牲になっている。
しかし、ワシントンはこうした混乱に対し積極的な対応策をとろうとはしなかった。ブッシュ政権は外交面では次第に消極的な姿勢に終始するようになり、外交政策はおおむね実務レベルの官僚の手にゆだねられるようになった。実際、ブッシュ大統領とベーカー国務長官は国内政策と選挙キャンペーンにかかりっきりだった。その結果、石油の供給や価格、テロリズム、麻薬、難民、兵器拡散といった、中東が抱える数多くの問題は放置されたままとなり、これらの問題への対策を検討していくのは、新政権の役目なのである。
増大するイランの脅威
確かに、国内政治の穏健化は進んでいる。しかし、イランの外交政策は依然として(西側に)敵対的なままである
湾岸戦争を通じてイラクは弱体化し、今も国際的な制裁化に置かれている。こうした状況下、今後、湾岸地域におけるアメリカの利益に脅威を与える国家があるとすれば、それはイランにほかならない。
一九九二年のイランの行動をもって、彼らの明瞭な意図を導き出すことはできない。テヘランは現在の孤立状況から脱却するため、その主たる原因であるテロリズム支援策や敵対的なレトリック戦術をやめたのではないかと思わせるような動きをみせている。イランが穏健化路線をとりつつあることを示す重要な例としては、九二年春に行なわれた議会選挙の結果を指摘できよう。この選挙において、急進派のイスラム聖職者連盟が支持した候補者の実に四分の三以上が落選した。つまり国民は選挙を通じて、ラフサンジャニ大統領に、革命的なレトリックを排して、近隣諸国や西側との関係を改善させるように要求したのである。
イランが経済改革をさらに進展させていることも、彼らの穏健化を示す例とみなすこともできる。これまでは収入の再分配、旧ソビエトやインド型の国家経済体制、消費の抑制政策などを中心とするイスラム的経済概念が幅を利かせていたわけだが、ラフサンジャニ大統領は、この伝統的経済路線を放棄した。
すべての分野に関する自給自足を目指すというかつての政策は否定され、今では石油輸出を中心とする効率的な経済政策がとられている。その結果、一九八八年当時は、一日あたり二五〇万バレルにすぎなかった石油の生産量も、一九九二年には三二〇万バレルとなり、今後二、三年の間には、四五〇万バレルに達する可能性もある。
ラフサンジャニのリーダーシップのもと、イランはIMFとの関係を復活させ、世界銀行からの融資を受けており、これらの国際機関のアドバイスに従って経済改革を進めている。ラフサンジャニは財政赤字を大幅に削減し、輸入に関する政府規制も緩和させた。今後、イランの通貨であるリアルの非現実的な為替レートも、次第に市場によって決定されていくであろう。
これらの政策が導入された結果、ラフサンジャニが大統領になってからの三年間(一九八九-一九九二)に、国民一人あたりの実質収入は二〇%増大した。それにともない、一九八九年には一一〇億ドルにすぎなかったイランの輸入も、九二年には二五〇億ドルへと増大した。確かに、これらの数字はイラン経済のめざましい進歩を物語っているが、しかし問題がないわけではない。
第一に、短期的には経済成長を達成しているとはいえ、シャー時代と比べれば、国民の収入レベルは依然として四〇%も低いレベルにある。
第二に、イラン経済は海外からの多額の借り入れに依存しており、その額は一九九一―一九九二年の期間だけでも六〇億ドルに達している。イランはいまや潜在的な債務国なのである。
第三に、ラフサンジャニは膨大な額を海外から借り入れる一方で、ほぼ一〇〇億ドルもの資本を、大規模な製鉄所や自動車組立工場などの重工業関連の国営企業に投資しており、これではシャーが犯した経済失策の二の舞である。またイラン政府は、電力の生産コストがその供給価格の倍以上のレベルにあるにもかかわらず、その価格を引き上げようとはせず、逆に電力施設の建設に膨大な資金をつぎ込んでいる。
ラフサンジャニは、アヤトラ・ホメイニ以上に、西側の利益を直接的かつより深刻な形で脅かす人物かもしれない
選挙結果と経済改革が示すように、確かに国内政治の穏健化は進んでいる。しかしイランの外交政策は依然として(西側に)敵対的なままである。(イスラム原理主義者に加え)イランの穏健派もまた攻撃的なナショナリズムを標榜しており、これによって今後問題が引き起こされることになろう。彼らはイスラム原理主義、また復活したイラン・ナショナリズムというフィルターを通した世界観をもっており、イラク、トランス・コーカサス地方、中央アジア、アフガニスタン、ペルシャ湾を自らの勢力圏に組み込みたいと考えているのである。
イラン政府は、一九九二年も引き続き西側に敵対的な政策をとった。次に指摘する五つの政策からもそれは明らかである。
第一に、彼らはいまだにテロリズム支援策をとっている。六月五日財団(June Fifth Foundation)は、小説家サルマン・ラシュディが出版した『悪魔の詩』を問題視し、彼の暗殺を呼びかけているが、十一月には、その報奨金をさらに引き上げた。また四月に起きたブエノスアイレスのイスラエル大使館爆破事件は、イランの民間人による犯行と伝えられている。イランの秘密諜報員は海外の反体制派の暗殺を依然画策しており、実際九月にはベルリンでクルド人指導者四名が暗殺されている。
第二に、イラン政府は、西側と同盟関係を結んでいる中東諸国を不安定化させようと、各地でイスラム革命勢力を支援している。実際、ヨルダン、エジプト、アルジェリア政府は、政府転覆をねらう国内のイスラム主義過激派勢力はイランの影響下にあるとみている。とくにエジプト政府は、エジプトで頻発している外国人観光客襲撃事件は、スーダンにおけるイランの革命軍事組織によって訓練された一団の犯行だと主張しており、すでに動かぬ証拠を押さえていると発言している。
第三に、イラン政府はアラブ・イスラエル和平交渉に強く反発している。彼らはパレスチナの交渉拒否勢力やイスラム原理主義を標謗するパレスチナ人集団ハマスに対して二〇〇〇万ドルを与えたばかりでなく、テヘランに彼らの「大使館」を開設させたのである。イランはハマスにイスラエル攻撃用の兵器を供与したが、実際、それから数週間もたたないうちに、カチューシャ型ロケットがレバノンから発射され、和平交渉は混乱した。
第四に、イランは昨年、湾岸地域で意図的に軍事行動を起こした。イランのナショナリスト勢力は、この軍事活動を通じて、湾岸地域の一部を自国領土として組み込もうとしたと考えられている。またイランは、湾岸戦争中にイラク人パイロットが操縦して飛来したクウェート航空旅客機の「保管料」と称し、クウェート側に七八〇〇万ドルもの金額を請求した。
彼らはおもにカタール近海の石油・ガス資源をめぐる十七億ドル規模の開発計画に強引に着手した。さらにイランは、アラブ首長国連邦と共同で管理していたペルシャ湾の三つの島のなかで、もっとも大きなアブムサ島に居住していたアラブ首長国連邦側の住民数百名を追放し、九月には、これらの島をめぐるイラン側の主権を宣言したのである。
ホルムズ海峡近くに位置するこれら三島は戦略的要地である。というのも、石油タンカーは、これら三島から一〇マイル、ないしはイラン本土領土から一〇マイルの至近距離を航行しなければならないからである。イランはアラブ首長国連邦の人口密集地帯からわずか五〇マイルの距離に位置するこれら三島に、すでに軍隊を駐留させており、これはイラン側の脅し以外の何ものでもない。
第五に、イランは、一九九二年に軍備計画を再スタートさせ、旧共産主義諸国から大量の兵器を買い付けようとしている。実際、彼らは潜水艦三隻、ミグ29型戦闘機、大量のスホーイ24型、Su-22型ミサイル、戦車、装甲車、大砲などをすでに発注している。イランの五ヵ年計画(一九八九-一九九三)は一〇〇億ドルを軍事予算として計上している。もちろん、こうした軍備増強計画が自国の安全保障上の正当な考慮にまったく基づいていないというわけではないし、彼らはとくにイラクの脅威に神経を尖らせている。またイラン・イラク戦争によってイラン側が兵器をかなり消耗してしまったのも事実である。しかしテヘラン政府は、周辺海域に対する他の勢力のアクセスを退けるような兵器、たとえばキーロフ級の潜水艦や、空母攻撃用のソビエト製長距離戦闘機を発注しているのである。
しかし、より懸念されるのは、イランが核兵器開発計画に乗りだした可能性があることである。イランは核施設を自ら建設するほどの資金はもっておらず、また天然ガス資源が潤沢であるため、電力生産のために何も核施設を導入する必要はない。
にもかかわらず、彼らは何とか核エネルギー施設を海外から導入しようとしており、彼らが核兵器開発の意図を持っていると考えたほうが妥当である。パキスタン当局は核兵器の開発に必要なノウハウや技術を、すでに入手していることを認めているが、彼らがイランと核技術をめぐる交流を深めている、と指摘する信頼にたるレポートも存在する。
したがって、イランが国内問題や経済問題をめぐり現実主義路線をとっているにせよ、それがただちに近隣諸国や西側諸国との外交面における協調を意味するわけではない。むしろイランは、近隣諸国やアメリカといずれ衝突するコースをとっていると考えるべきかもしれない。
実際、ラフサンジャニはアヤトラ・ホメイニ以上に、西側の利益を直接的、かつより深刻な形で脅かす人物なのかもしれない。ホメイニ時代のイラン政府は、個人をターゲットとするテロ戦術や他国の政府転覆を画策する一方で、メッカへの巡礼の旅のような宗教的行動を奨励した。だが、ラフサンジャニはこれらのすべてを奨励するだけでなく、さらに、イラン軍の増強を行ない、隣接する広大な地域への影響力を確立させようとしているのである。
こうしたさまざまな傾向からみても、イランが今後、中東の火薬庫となる可能性は十分ある。イランは今後短期間に重装備国家に生まれ変わり、世界で最も裕福な近隣の小国や、周辺地域への支配権を主張するようになるだろう。しかし、彼らがこの地域に繁栄をもたらすのは不可能である。いずれにせよサダム・フセインのケースに、イランが予期せぬ形で国際秩序を乱す可能性は十分にあるといえよう。
ペルシャ湾は世界の石油埋蔵量の四分の三が存在する地域である。ワシントンは、イランがこの重要な地域でアメリカの死活的利益を脅かす可能性があるのを十分認識し、それに備えなければならない。かつてのアメリカの対ソ政策同様、今後の対イラン政策にもデタント政策と封じ込め政策というオプションが存在する。デタント政策とは、イランの反西欧的行動が弱まることを願いつつ、イラン内の穏健派と協調することである。一方、イラン封じ込め政策とは、軍事的な対立を避けながらも、確固たる姿勢をとり、イランの国内問題悪化によって、その体制が内側から切り崩されるのを待つというやり方である。
デタント政策にも、それなりの妥当性は存在する。もし西側諸国の間に、イランに対しては飴と鞭を使い分ける必要があるという点でのコンセンサスが存在するのであれば、デタント政策を採用する余地も十分ある。しかし、サダム・フセインのケース同様、イランの急進主義の穏健化をはかろうと努力しても、それが失敗に終わる危険がある。
イラン・コントラ事件からも明らかなように、外国政府のイランに対する影響力はきわめて限られている。さらに、これまで長年にわたりアメリカ・イラン関係が悪い状態にあることを考えた場合、イラン・アメリカの双方が、そうした繊細な政策をとるのは心理的に無理かもしれない。またアメリカが貿易をめぐりイラン側に多くを約束するのもほぼ不可能である。というのも、対イラン・イラク輸出に関する相当厳しい貿易制限を規定した、一九九二年のイラン・イラク核拡散防止法をアメリカ議会が見直す可能性はほとんどないからである。だがこの点についてイラン側が、レバノンにおける西側人質の解放に尽力したのに、アメリカは手のひらを返したように立場を硬化させた、と批判するかもしれない。
またヨーロッパ諸国や日本が、テヘラン側の批判に同意する可能性もある。したがって、アメリカが同盟諸国に対してイランがある程度の基準を満たすまでは、穏健化の促進を目的とした援助も見合わせるべきだと提案したにせよ、彼らはそれを受け入れようとはしないかもしれない。実際、アメリカの同盟国のほとんどは、すでに対イラン・デタント政策を採用しており、毎年数十億ドル規模の政府保証ローンを与え、先端技術へのアクセスを認めている。一部には軍事転用可能な技術移転さえ認めている諸国もある。
アメリカ政府が、単独でイラン封じ込め政策を実施するというオプションもないわけではない。イランの経済基盤が脆弱であり、イラン国民が政府に失望しつつあるという現状を考えた場合、封じ込め政策が成功を収める可能性は十分ある。実際、イスラム革命が次の世代においても引き継がれていくかどうかはまったく分からない状態なのである。むしろ国民は、革命以来の生活レベルの低下傾向を何とか阻止し、逆に向上させたいと望んでいる。一九九二年には四つの年で暴動が起きたが、これらの暴動は経済的不満や政府の腐敗に対する国民の怒りの反映だったのである。とくに数日にわたって鎮静化することのなかったマシュハッドでの公然たる反政府暴動はきわめて大規模で、うまく組織されていた。
しかし、封じ込め政策を長期にわたり継続させられるのは簡単ではない。というのも、それが効果をもたらすまでには、数年、いや数十年という時間がかかり、それだけにアメリカ国内での広範な支持が必要になるからである。また、封じ込め政策をとった場合、イランが再び石油生産大国となったにしても、アメリカはその商業的機会にも目をつむらなければならないことを意味する。
さらに、アメリカだけで効率的な封じ込め政策を実施するのは不可能である。現在、すでにそうだが、イランがヨーロッパや日本からの融資や技術支援を確保している限り、アメリカの封じ込め政策もうまく機能しないだろう。したがって、政策の成功は、現在のとこと封じ込め政策に積極的でないイギリス、フランス、ドイツ、日本を説得し、共通の対イラン政策を実施できるかどうかにかかっている。皮肉なことに、こうした諸国の支持確保という点では、イランの穏健化促進のための微妙な飴と鞭政策よりも、道義にもとづいた対イラク封じ込め政策のほうが、協調を取り付けやすいのも事実である。
イラク問題
アメリカは、これまで国際法を無視してきた人物が権力の座にある限り、イラクは国際社会から追放されたままであるという宣言を発表し、サダム・フセインの追放を対イラク制裁措置解除の条件に加えるべきである
一九九一年は、イラクにとって湾岸戦争をめぐる敗北の年であり、一九九二年はイラクが最悪の事態を何とか回避した年だった。確かにイラクは停滞したままだったし、彼らにとって状況は不満足なものだったかもしれない。しかし、最悪の事態を回避できたこと自体、彼らにしてみれば大きな成果だったはずである。イラク国民の多くが、飢餓、疫病、国内治安の不安定化などの犠牲になることはなかったのである。イラクが石油輸出の大幅な改善や再軍備に成功したわけではないが、イランやシリアがイラクを侵略したわけではないし、石油価格も安定していた。
アメリカにしてみれば、一九九二年にイラクの状況はより好ましいものになった。バクダッドの支配層は内輪もめを始め、バース党はかつてのような政治力を失い始めた。イラクの兵器体系は、国際的制裁措置や国連査察チームの活動により弱体化し、サダム・フセインも、多国籍軍がイラク南部のシーア派を保護するために設定した「飛行禁止区域」の導入にも強く反発したわけではなかった。イラク側はこれまで、アメリカ側の決意をテストするような行動を何回かとったが、これに対しアメリカは毅然たる対応をみせた。十二月二七日、アメリカのF-16戦闘機は多国籍軍監視地域に侵入してきたイラク空軍機を撃墜したのである。こうしたアメリカの毅然たる対イラク姿勢は、サダム・フセインのシーア派弾圧を阻止したのみならず、彼の権限が及ぶ地域を次第に狭めていった。
しかし、湾岸戦争の大勝利によって多くを望むようになっていたアメリカ国民は、こうした繊細な分野でのアメリカの成功を評価しようとはしなかった。むしろアメリカ国民は、サダム・フセインがいまだ権力の座にあることを目の当たりにして、不満を募らせていた。「サダム・フセインはいまだに職についているけど、あなたには仕事がありますか?」というバンパー・ステッカーは、アメリカ国民の釈然としない気持ちの反映でもあった。
さらにアメリカ議会は、一九九〇年八月以前の段階でのブッシュ政権とイラクとの結びつき(イラク・ゲート)をめぐる調査を行ない、当時のアメリカの政策が長期的展望を欠き、悪くすれば犯罪に近いものだったことを暴き出した。一九九二年の国内状況に対する不満と一九八九年当時のアメリカ政府の対イラク政策の実態が暴露されたことによって、湾岸戦争の勝利の構築者としてのブッシュの名声も失墜してしまった。世論調査でみても、イラク・ゲート問題は、他のいかなる外交要素にもまして再選失敗の大きな要因だった。
新政権の対イラク政策上の選択の余地は限られている。確かに、新政権は人権問題と民主主義の促進を対イラク政策における重要要素とすることはできるかもしれない。しかし、ブッシュ政権と大きく異なる政策を実施するのは不可能である。ブッシュ政権は、サダム・フセインに常に圧力をかけ、一方でイラク国内政治へのアメリカの介入を最小限に抑えるという政策をとってきたわけだが、新政権もおおむねこの路線を踏襲しなければならないだろう。
むしろ選択肢は、サダム・フセインのほうにあるのかもしれない。彼はブッシュの敗北を対米関係改善の機会とみなすかもしれない。実際、イラクの新聞はクリントンの勝利に対し、イラク側も「バランスのとれた政策をもって応える」というコメントを発表したのである(Al-Qadisiya, Nov.5, 1992)。
これをイラク側の関係改善への意図を示唆するものと解釈することもできる。一〇年前と同様に、サダム・フセインが外国に対する敵意に満ちたレトリックを使用するのをやめ、国内での残虐な政策をやめるのも可能なはずである。また、たとえば国連の査察チームに協力することで、国連決議の一部を受け入れることもできる。サダム・フセインは、こうした協調と引き換えに西側が経済制裁をやめ、彼の政権を受け入れることを要求するかもしれない。だが、彼がこうした懐柔策をとった場合、クリントン政権はジレンマを抱え込むことになる。つまり、彼にもう一度チャンスを与えるべきなのかという問題が浮上してくるのである。
新大統領はいまのところ、サダム・フセインの追放をアメリカの政策目標に据えているわけではない。したがって、アメリカが対イラク関係を改善させる余地がまったくないわけではない。しかしアメリカは、サダム・フセインを認めるような行動をとるべきではない。彼はもう一度チャンスを与えたところで、どうにかなるような人物ではない。しかし、サダム・フセインにチャンスを与えないとしても、アメリカが直ちに彼の追放を画策するというわけでもないだろう。
まずアメリカ政府は、それを実現するための手段を欠いている。さらに、権力者の追放にともなうイラクの混迷や権力の空白は、状況をさらに複雑にするだけである。というのも、もしサダム・フセイン追放に成功したとしても、アメリカは政治権力の空白を埋めるために、数ヶ月、あるいは数年にわたり同地に物理的なプレゼンスを維持しなければならなくなるからである。
秩序を回復させた後も、占領軍当局はアメリカのイメージに合致する新体制の樹立という厄介な仕事を手がけなければならないことになる。一九九一年二月時点でさえも支持されなかったこのサダム・フセイン追放、イラク占領というシナリオを、現在実施するのはおよそ非現実的としかいいようがない。むしろアメリカの利益をうまく確保するには、イラクに対する悪感情を抑えた政策をとる必要がある。
その場合、アメリカの政策は、どのようなものになるだろうか?現在われわれは、恒久的な停戦を求める国連安保理決議第六八七号とクルド人の保護を求める第六八八号の完全な実施を要求している。クリントンも選挙期間中にアメリカの対イラク政策の継続性を強調し、「サダム・フセインは、共和党、民主党のいずれが政権をとろうとも、アメリカ政府が今後も強い決意をもって、イラクに安保理決議の尊重を求めていくことを、認識すべきである」と語っている(クリントンとのインタビュー、"Ce que je crois,"Politique Internationale, Fall 1992, p.15.)。
国連安保理決議は、イラクがクウェートとの国境問題を解決し、すべての化学・生物・核兵器生産施設とその兵器を破棄し、テロリズム支援策をやめ、非通常(核)兵器を永久に保有しないことを宣言し、クウェート側の財産を返却するとともに賠償金を支払い、クルド人やシーア派の人権を尊重することを求めている。サダム・フセインがこうした要求のすべてを満たさないかぎり、安保理がイラクに対する制裁措置を解除することはありえないわけである。
アメリカ政府は、こうした安保理決議に盛られた要求に加え、これまで国際法を無視してきた人物が権力の座にあるかぎり、イラクは国際社会から追放されたままであるという宣言を発表し、サダム・フセインの追放を制裁措置解除の条件に加えるべきであろう。
湾岸地域
もし、サウジアラビアで国民の広範な政治参加が認められるようになれば、(ヨルダンやアルジェリアがそうであったように)よりイスラム原理主義者が力をもつようになる可能性がある
湾岸の石油産出国は裕福で現状に満足しているというイメージが一般にもたれているが、そうしたイメージとは裏腹に、彼らは政治経済的に困難な状況に直面させられている。一九九二年、クウェート、サウジアラビア両国は懸案とされている問題を解決できなかった。両国の支配層である王族たちは、いまだに同族支配を続けており、富を国民に分け与えるという政策をとり続けている。しかし、お金だけで政治的支持を長期的に確保することなど不可能である。予算をめぐる国民の要求は増大する一方であるにもかかわらず、歳入は増えておらず、次第に教育のある中産階級の市民たちは、社会における発言権を求めだしている。
クウェートでは、戦争と戦後再建策によって国家資産が減少しつつある。戦争前には一〇〇〇億ドルと評価されていた国家資産も(対外債務を差し引いた場合)、いまやわずか一五〇億ドルまでに減少してしまった。財政政策上の失敗もこの資産減少の一因である。スペインへの投資は、五〇億ドルの損害をだし、さらに湾岸戦争後の銀行再建のために、実際に必要とされる以上の額を投下してしまったのである。クウェートの財政状況をバランスのとれたものにするには、一日あたり二〇〇万バレルという戦前並みの原油輸出を行なわなければならないが、この目標の実現を左右するのは、クウェートの石油産出力よりも、むしろOPECの決定や世界市場の動向なのである(実際、クウェートの油田の復旧はおおむね完了しており、現在の生産能力は一日あたり一五〇万バレルに達している)。
一九八一年におけるサウジアラビアの国家資産は約二二五〇億ドルだった。しかし、いまや五〇〇億ドルと見積もられる海外資産のすべてが六〇〇億ドルの国家債務(そのほとんどが財政赤字)によって相殺されているにもかかわらず、歳入に占める税金の割合は相変わらず微々たるものである。サウジアラビアは湾岸戦争において六〇〇億ドルの出費を余儀なくされた。一九九二年度の八〇億ドルの財政赤字は国内総生産の八%に相当し、この比率はアメリカと比べてもその二倍に達している。
サウジアラビアはすでに財政赤字削減策を採用しており、一九八二年に八三〇億ドルだった政府支出も一九九二年には四八〇億ドルへと低下している。しかし、現在のような状況が続けば、サウジはいずれ債務国になってしまうだろう。サウジは経済的に豊かな国家と考えられているが、その経済基盤は実際には大きく揺らいできているのである。
実際、OPEC諸国が現在の生活レベルを維持するためには、海外からの借り入れを行なわなければならない。OPECの石油生産が最大レベルにありながらも、イラクのクウェート侵略前の石油の高価格が維持されているのは、イラクが一時的に市場から姿を消し、旧ソビエトでの石油生産が低迷しているからで、現状が長続きするとはあまり考えられない。もし市場の需要が低下し、今後生産状況が変化していけば、今後三年から五年の間には、OPEC諸国もこれまでのような協調を維持できなくなり、むしろ競合するようになるだろう。
石油価格の低下をもたらす主な要因としては、次の四つが考えられる。イラクの市場復帰、旧ソビエト地域におけるかつての生産レベルの回復、世界経済の低迷、そして、(財政、あるいは環境上の理由による)産業国家における石油関連税の引き上げである。世界市場における石油の過剰供給と需要の停滞は、サウジアラビアとクウェートの財政状況をさらに悪化させ、OPECを弱体化させる可能性がある。またOPEC内部で、イランの強気の価格設定と生産増大策をめぐり、湾岸諸国とイラン間の緊張が高まっていく可能性もある。
政治領域に目を移してみよう。国境論争が大きな問題に発展することはなかったが、問題は解決されぬままである。昨年秋にサウジアラビアとカタールの国境問題が顕在化した。また、サウジアラビアはイエメンに対しては従来どおり敵対的な姿勢に終始した。旧来のライバルであることに加え、一九九〇-一九九一年にイエメンがサダム・フセインを支持する態度をみせたことに憤慨したサウジアラビアは、その後、国内で働くイエメン人五〇万人以上を国外に追放したのである。これにともなう両国間の関係悪化に加え、サウジ側は、イエメンが複数政党制の下で選挙を実施したことを脅威と感じた。
湾岸地域の王族たちは、権力の座をしっかりと維持する一方、一九九二年には、小規模であるとはいえ国民の政治参加の実現へ向けた政策を実施した。クウェートの反政府勢力は十月の選挙で予想外の健闘をみせ、国会の五〇議席のうちの三一議席を確保した。しかし、反政府勢力が勝利を収めたとはいえ、首長は依然としてサバハ家の人物を、防衛、外務、内務大臣などの要職に任命している。
一九九二年、オマーンとバーレーンの支配者は、それぞれ国家諮問評議会と国民議会の再活性化・復活へ向けた措置をとった。オマーンは国家諮問評議会のメンバーの増員を行ない、一方のバーレーンは、一九七五年以来解散されたままとなっている国民議会の再開を約した、一九八八年の詔勅を再確認し、選挙の実施を約束した。一九九二年三月一日には、サウジアラビアのファハド国王も、政治権力の分散化と一部の個人の権利保障を目的とする一連の布告をだした。この「政府基本法」は、それまで王族の気まぐれによって支配されてきた政府のシステム化と規制化を図るものだった。国王はさらに、諮問会議(議会)を設立する意向を表明した(もっとも、彼は自ら設定した期限をこれまでも幾度となく破っているが)。
だがサウジアラビアで国民の政治参加が認められるようになれば、(ヨルダンやアルジェリアがそうであったように)よりいっそうイスラム原理主義者が力をもつようになる可能性があり、そうなれば政治的安定が脅かされることになる。実際、一〇七名の宗教指導者たちは、その意見表明書において、西側文化の悪影響(たとえば、西側の退廃したライフスタイルを助長するテレビ番組)を指摘し、さらにサウジアメリカラビアが西側との同盟関係を結び、(無神論者の軍隊を国内に招き入れたため)「ユダヤの敵」と戦えなくなってしまったと批判している。
サウジアラビアは湾岸地域に民主主義が浸透することに、きわめて神経質になっている。イエメンでの議会選挙の実施を不愉快に感じていたサウジアラビアは、石油会社に対し、イエメン領土と考えられている地域での油田の発掘を行なわないよう圧力をかけたのである。
かつてカーター大統領は、イラン革命が起きるわずか1週間前、イランは中東という「世界でもっとも混乱した地域における安定した島」であると評したが、アメリカはサウジアラビアを見る際に、こうした認識違いを繰り返さないように十分注意しなければならない。アメリカはリヤドとの同盟関係の構築を対湾岸地域政策の根本とすべきではない。サウジアラビアとアメリカの間に多くの深刻な相違点が存在する以上、われわれはかれらを単なる一時的な同盟国とみなし、むしろ他の可能性に対し門戸をあけておくべきであろう。
トルコ
トルコとイラクに居住するクルド人は、それぞれの政府に対する反乱を起こし、その一方で、他の勢力との共闘関係を構築しつつある
トルコは、アメリカが中東における選択肢の一つとして考慮すべき国家である。トルコは、中東地域においてアメリカが公式の同盟関係(NATO)をもつ唯一の国であり、また同国は、イスラエルとともに中東における数少ない民主国家の一つである。しかし、いまやトルコは大きな課題を抱え込んでしまっている。
トルコは、この五〇年来、紛争に巻き込まれないことを国是とし、なんとかこの姿勢を維持してきた。第二次世界大戦における巧みな中立維持に始まり、対ソ政策における低姿勢、さらには中東問題に対する一線を画した態度にいたるまで、トルコ政府は問題から一定の距離を置く政策をとってきた。しかしトルコは、この原則を維持できないような状況に目下直面させられている。ソビエトの崩壊、砂漠の嵐作戦は本質的にトルコにとっても好ましい出来事だったが、これによって、トルコは危険な外交関係に直接的に巻き込まれる羽目になったのである。
これまでは他国の紛争を傍らで見守る存在にすぎなかったトルコも、いまでは彼ら自身がきわめて危険な状況に直面させられているのを認識している。彼らは、現在国境を接する三つの地域での紛争問題に直面させられているのである。トルコ南東部、そして国境を挟んだイラク北部ではクルド人の反乱という問題がある。国境の北東部では、アルメニア・アゼルバイジャン間の紛争が続いており、また国境を挟んだ北西に位置する旧ユーゴスラビアでも、イスラム系民族の虐殺が行なわれている。これに加え、トルコの中央アジア地域への関与を求める国内圧力も存在するし、一方でキプロス、ギリシャとの問題は、いまだに解決しないままである。
クルド人は、トルコに一〇〇〇万人、イランに五〇〇万人、イラクに四〇〇万人居住し、これほどの規模ではないとはいえ、シリアや旧ソビエトのトランス・コーカサス地方にも多くのクルド人が生活している。こうした複雑な状況を解決するため、トルコとイラクに居住するクルド人は、それぞれの政府に対する反乱を起こし、その一方で、他の勢力との共闘関係を構築しつつある。
たとえば、シリアやイランの支援を得たイラク政府は、トルコ国内において反政府活動に従事しているクルド系最大組織のクルド人労働党(PKK)に近づき、彼らは共闘関係を結びつつある。一九九二年、PKKは他のクルド人勢力に対してかなり暴力的な戦術をとり、現在はトルコ南東の一部を掌握している。さらに悪いことに、一方ではトルコ軍がPKKに対する攻撃を始めている。スレイマン・デミレル首相は、すでに一九七〇年と一九八〇年の二度にわたり、軍部による反乱を経験しており、目下のところ軍部と対決するつもりはなさそうである。
トルコのクルド人問題は、アメリカの対イラク政策をも複雑にしてしまっている。トルコはアメリカのイラクに対する民主化促進策がクルド人地域にも影響を与えること、さらにそれが、イラク北部におけるクルド人独立国家樹立の呼び水になりはしないかと懸念している。つまり、そうなった場合、トルコ内のクルド人が刺激され、彼らが同じ戦術をトルコにおいて用いるのではないかと心配しているわけである。これが現実のものとなれば、それはトルコのナショナリズムに対する挑戦にほかならず、国家主権そのものが危機にさらされることになる。トルコ国内では、イラク北部におけるアメリカ軍の救援活動(オペレーション・プロバイド・コンフォートⅡ、あるいはオペレーション・ポイ・ストハマーとして知られる)を今後も認めるかどうかについて活発な議論が行なわれているが、それが熱を帯びたものになっているのは、ここに指摘したような複雑なクルド人問題が存在するためなのである。
PKK勢力は、イラク内のクルド人勢力への支援補給路を攻撃し、北部イラクへの救援活動を妨害している。これに対しトルコ側が、PKK対策としてイラク領内にまで攻撃を行ない始めたため、今度はイラク側が、トルコ軍は北部イラクを併合することで、クルド人問題を解決しようとしているのではないかと懸念しだしている。クルド問題をめぐる緊張はかなりのレベルにあり、暴力傾向も高まっている。危機が発生するには、そう時間はかからないかもしれない。
さらに国境の東側での紛争も、いまだに続いている。まだソビエトが存在した一九八八年初期に発生したアゼルバイジャンとアルメニア間の紛争はいまだに終結していない。ソビエト帝国の余命が幾ばくもないことを察知していたアルメニアの指導者たちは、アルメニア人が多く居住するアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフを自らの管理化に置こうとした。アゼルバイジャン側がこれに対抗したため、軍事的包囲、経済制裁、殺戮へと紛争は激化していったのである。
トルコ人は、アゼルバイジャンにいわば本能的に同情している。トルコ人とアゼルバイジャン人はほとんど同じ言語を使用しており、シーア派であるアゼルバイジャン人との宗教的立場もほぼ同じである。さらにトルコは、アゼルバイジャン同様、歴史的にアルメニアと対立してきた。また、アゼルバイジャン側もトルコを好意的にみている。実際、多くの中央アジア諸国が、(ソビエト崩壊後の)自国の外交代表権をロシアに委ねたのに対し、アゼルバイジャンはトルコを頼みとしたのである。
アゼルバイジャンの政治家たちは、「トルコの敵はわれわれの敵」、(逆にいえばわれわれの敵はトルコの敵)なのであり、トルコはアゼルバイジャンの独立を「一丸となって」支援してくれるだろうと発言している。トルコ国内でも、アゼルバイジャン支援の声が高まった。たとえば、ナショナリストのネカチ・オズファラは、トルコは、「アルメニアの冒険主義を牽制すべく、必要であれば、アゼルバイジャン側に立ってアルメニアと戦争することも辞さないとその立場を表明すべきだ」と主張した(Türkiye, Sept. 11, 1991.オズファラはこの見解をTürkiyeに発表したわけだが、他のトルコの新聞同様、同誌はアゼルバイジャンでも入手可能であり、彼の主張は、明らかにこの点を配慮したものである)。一方、アゼルバイジャンの指導者たちも、国家としての独立性を強化するため、すなわち争われている地域を自国の管理下にとどめておくために、トルコ側の支援を求めた。
この中央アジアでの紛争は、トルコ市民の感情に強く訴えかけるものだった。しかしトルコ政府は、アルメニアとの関係を悪化させたくなかった。トルコ政府は、もし同国がアゼルバイジャンを支援する政策をとれば、これまで最新の配慮をもって構築してきたアメリカやヨーロッパとの関係を悪化させる可能性があることを重視し、トランス・コーカサスでの紛争には一線を画す政策をとったのである。(しかし、トルコはアゼルバイジャンの士官を訓練していると認めており、また、アゼルバイジャンは、トルコから軍隊の戦闘服の生地の支給を受けていることを認めている。)
デミレル首相は、「イスラム教徒とカトリック教徒間の対立は相当長期化する」危険があり、紛争に慎重な態度をとる必要があると主張した(TRT Television, May 2, 1992)。しかし、アゼルバイジャンへの攻撃が今後も続いたり、アルメニアがナゴルノ・カラバフを攻略した場合には、トルコとしても一線を画した態度をとり続けるのは困難になるだろう。一方で、トルコが紛争に対する関与を慎めば、トランス・コーカサスでの問題に巻き込まれることもないし、現在西側に居住するアルメニア人のトルコ批判を沈静化させ、西側における立場を改善させることもできる。
一方、アルメニア側にしてもトルコは外部世界との接触を図るための重要な国家であり、トルコとの良好な関係を維持したほうが得策なのである。ロシアという伝統的な保護者を亡くしたアルメニアは、いまやトルコ語系のイスラム諸国に周りを取り囲まれている。つまり、アルメニアは近隣の最強国であるトルコと良好な関係を維持していくほかに道はないのである。実際、トルコからの食糧輸出の継続を条件に、アルメニア政府も、海外に居住するアルメニア人に対し反トルコキャンペーンを緩和させるように指導している。
ボスニア・へルツェゴビナもまた、トルコ介入の可能性が昨年とりざたされた地域である。ボスニア政府は、セルビアの略奪と「民族浄化」キャンペーンの阻止に手を貸してくれるようトルコ政府に依頼した。しかしデミレルは、トルコが傍観を決め込むことなどありえないと発言したにもかかわらず、実際には何もしようとはしなかった。トランス・コーカサスのケース同様、トルコは外交上の配慮を働かせ、介入を断念したのである。しかし、ボスニアの状況悪化はトルコの国民感情を強く刺激した。トルコ人は一連の事態の展開を通して、ヨーロッパがイスラム教徒を敵対視していると確信するようになった。
異なる理由によってではあるが、中央アジアもまた、トルコの政治的安定を揺るがす可能性がある。旧ソビエトの崩壊によって、カスピ海を取りまく五つのイスラム系共和国(そのうち四つはチュルク語系である)が新生国家として誕生した。こうした状況のもと、トルコは自らを頂点とする七つのイスラム国家によるイスラム・ブロックの形成という考えに興味を抱き始めている。実際、一部のトルコ人は、地域ブロックの形成という遠大な概念を誹謗している。オザール大統領も、「現在の歴史的状況は、一六八三年にオスマントルコ帝国のウイーン包囲軍が撃退されて以来続いてきたトルコ帝国の弱体化がいまや終わりを告げたこと」を意味していると発言した(Der Spiegel, Dec.23, 1991)。
また国務大臣の一人であるカムラン・イナンも、「トルコは二〇一〇年以降には、西側でも最強の国家となっている可能性がある」と発言している(Milliyet, March 30,1991)。こうした幻想が将来問題を引き起こす可能性は十分ある。というのも、トルコ人が自らの力を過大評価し、海外で大きな過ちを犯すことも考えられるからだ。しかし一方で、トルコが中央アジアにおいて建設的な役割を果たす可能性も十分あり、この点に関しては、われわれはむしろ奨励すべきであろう。
アメリカはトルコをポルトガルやギリシャとおなじ南ヨーロッパの一国家と捕らえがちであり、それゆえにトルコをめぐる諸問題へのアメリカの対応能力は著しく制限されてしまっている。確かに、トルコ社会はさほど宗教的ではなく、彼らはラテン・アルファベットを主に用いている。さらに、トルコの政府高官たちは皆西側に友好的である。だが、それだけにトルコの政治生活におけるイスラム的、あるいはチュルク語的側面をアメリカは見落としがちなのである。
実際、アメリカの国務省は、トルコがイラン、イラク、シリアと国境を接する国家であることを、あたかも忘れたかのように、同国を旧ソビエト、東西ヨーロッパ、カナダを担当するセクションにカバーさせている。また軍部や諜報部も、トルコをNATOの枠組みで判断しがちである。その結果、トルコ・シリア間の緊張よりも、キプロスにおけるギリシャとの紛争のほうがアメリカでは重視されてしまっている。一九九二年にイラクは、トルコを戦略上の潜在的敵対勢力とみなすという不気味な声明を発表したが、アメリカ議会はこの事実よりも、むしろ一九二五年のトルコによる大量虐殺事件を糾弾するアルメニアの決議のほうに関心を示しているというのが現実なのである。〔訳注:第一次世界大戦の開始とともに、当時のオスマン・トルコは国内のアルメニア人を危険視し、シリアやメソポタミアへ移住させたが、その際に、多くのアルメニア人をトルコ軍が殺戮したといわれている〕。
アメリカがトルコをヨーロッパの一国とみなしがちなため、アメリカとトルコの関係はひどくいびつなものになってしまっている。トルコはヨーロッパの一員であるとともに、また中東の一員なのである。トルコを中東担当局の管轄とすることは、同国を正しく理解するための、小さくとも重要なステップである。
さらに、アメリカ政府がトルコとの協調策をとれば、アメリカにも利益がもたらされる。つまり北部イラクのクルド人地域に対する政策面での協調を行い、中央アジアからの呼びかけによって、トルコ人が大国になったと思い込まないようにし、さらにトランス・コーカサスでの紛争に巻き込まれないように働きかけるのである。さらにアメリカは、自らの行動をイスラムに対するキリスト教徒の戦いと自己規定している内外のアルメニア人に対して、アメリカが彼らの考えを完全に否定していることを明らかにすべきである。
中央アジア
カザフスタン領土には、一〇四基のSS-18ミサイルと四〇機の核兵器搭載爆撃機が存在する
歴史的にはアメリカとは縁の浅かった中央アジアであるが、いまやアメリカは、二つの点において同地域の動向に関心をもっている。第一が、カザフスタンにおける長距離核の存在、第二が、中央アジア全域におけるイスラム主義の台頭による社会の不安定化という問題である。
カザフスタンの民族構成は、われわれにレバノンを思い起こさせるほど複雑なものである。カザフ人、ロシア人がそれぞれ人口の四〇%、三六%を構成し、これに加え数多くのウクライナ人、ドイツ人、朝鮮民族などが居住している。ナルスタン・ナザルバエフ大統領は、(ロシア系住民への懐柔策を通じて)民族問題をなんとか調和させようと試みているが、このやり方自体、ロシアとの緊密な関係を維持しなければならないことを意味し、状況はカザフスタンの国家としての独立性が損なわれるほど危険なものになっている。積極的な政策の採用を求めるカザフのナショナリスト勢力は、(ロシア民族への懐柔策を中心とする)ナザルバエフの民族調和政策を不満に感じており、大統領はカザフ民族への懐柔策もとらなければならない状況に追い込まれている。
例えば、カザフスタン政府は、カザフ人を中心とした民族間のバランスを実現させるため、国外に居住するカザフ人の帰国を奨励する政策をとっている。政府は、帰国するしないは別として、彼らに無条件でパスポートを発行するとさえ申し入れている。この政策の結果、モンゴルに生活していた十五万のカザフ人のうちの多くが、昨年カザフスタンへとすでに移住しており、中国に居住する九〇万のカザフ人も、今後このこの動きに続くと考えられている。もし、カザフのナショナリスト勢力が今後も力を増大させていけば、政府もより民族主義的な路線を強め、国内のロシア人勢力を差別する政策をとるようになるかもしれない。そうなれば、カザフスタンとモスクワの関係も悪化し、大規模な民族紛争が引き起こされる可能性もある。また逆に、モスクワに極度にナショナリズム色の強い政府が誕生すれば、彼らはカザフスタン政府との対立路線をとることで、自国内の政治的立場を強化させようとするかもしれない。
アメリカ政府がもっとも懸念するのは、こうしたシナリオが現実化することである。何よりもカザフスタン領土には、一〇四基のSS―18ミサイルと四〇機の核兵器搭載爆撃機が存在するのである。
こうした兵器は、現在CISの指揮系統下に置かれているが、今後の状況次第ではカザフ側がどのような態度にでるか予断を許さない状況にある。ロシアとカザフスタンの対立が先鋭化すれば、カザフ側はロシアに対抗すべく、通常兵器戦力を充実させなければならない。しかし現実には、彼らの保有する通常戦力は限られており、また結成されて間もない国軍士官のほとんどはロシア系である。さらにカザフスタン北部は、ロシア系住民が多く居住する地域であり、彼らはロシアの介入をむしろ歓迎するかもしれない。つまり、カザフにとっての最善の防衛策は、国内にある核兵器に対する自らの管理権を確立させ、モスクワとの間に抑止状況を作り出すことなのである。
したがって、カザフは非核国となるというこれまでの立場を積極的には推進しようとはせず、非核化の条件として西側による大幅な援助や、安全の保障を要求するかもしれない。カザフスタンは核兵器の廃絶交渉には常に積極的に関与するという立場をとっているが、それを先送りする抜け穴はいくらでもある。いずれにせよ、戦略兵器削減条約においても、一九九九年まではカザフスタンが核兵器を保有することが認められている。したがってワシントンは、カザフスタン側の核兵器をめぐる決定が、西側に好ましいものとなるような方策を考えていくべきである。
中央アジア、それもとくに人口の密集するフェルガナ盆地でのイスラム主義運動の高まりは、アメリカ側の心配材料の一つである。すでに中央アジア地域では、この一〇年来、イスラム主義運動が高まってきている。これに加えソビエトの崩壊によって、イスラム運動に対する規制がすべて取り除かれたため、イスラム急進派台頭の素地が生まれ、実際に彼らの力は飛躍的に増大している。現在のところ、イスラム主義の復興は、アラブ文字、コーラン教育といった文化、教育、宗教分野に留まっているが、一部勢力は、イスラム的価値観やシャリア(イスラム法)を政府が法体系の基本とすることを要求している。ただ認識しておくべきは、反西欧主義を強めている同地域のイスラム主義運動が、あくまでも彼ら独自のものであり、イラン、パキスタン、サウジアラビアといった外部勢力の影響は二次的なものにすぎないという点である。
タジキスタンでは、一九九一年十一月の選挙で、ブレジネフ時代にタジク共産党第一書記だったラフモン・ナビエフが大統領に選出されて以来、人口の三分の二を占めるタジク人(ペルシャ語系)はすでに内戦に突入していたが、さらに一九九二年三月には約五〇の民間武装勢力を含む反政府勢力が、反乱を起こした。ナビエフが交渉を申し出たため、五一日間で反乱は鎮静化したが、9月にはナビエフも武力によって辞任を余儀なくされた。ナビエフに忠実な勢力が十月にその首都を奪回し、彼の後任者イスカンドロフ大統領代行は、ソビエト軍の介入のおかげで、なんとか政権を維持している。
こうした混乱の裏で、イランが糸をひくイスラム原理主義者が争乱を画策しているのではないかという懸念がもたれている。しかしタジキスタンの混迷は、基本的には同地域の民族問題や政府エリート間の対立が原因であり、(ウズベキスタンの指導者たちが指摘するような)外部勢力の影響や、イスラム原理主義の影響はあまり大きくない。
タジキスタンと同様に、中央アジアの他の地域でも内乱が勃発する可能性は十分にある。これまでの旧共産主義エリートとこれに対抗する者たちの対立、そして地域的・民族的対立は、暴力的な紛争を引き起こしてきた。旧共産主義勢力に対抗する勢力は、より早いペースでの経済改革と民主化の実現を主張している(もっとも彼らの経済改革計画は曖昧で、彼らが民主化という言葉をどのように理解しているかもはっきりとはしない)。
アメリカ人にとって中央アジアは、はるか彼方に位置するなじみの薄い地域であり、それだけにアメリカが中央アジアに直接的に関与する可能性は低い。したがってワシントンにとっての現実的なオプションとは、彼らにトルコかロシアのいずれかとのつながりを強化させるよう働きかけることでしかない。ブッシュ大統領はトルコを「中央アジア地域の新生独立国家が範とすべきモデル国家である」と発言し、彼らにトルコとの関係を強化させるよう働きかけた。しかし、このアプローチには限界があった。
というのもトルコは中央アジア地域とかなり離れているばかりでなく、直接的なつながりももっていないからである。またトルコは、中央アジア諸国がそのモデルにできるほど進んだ地域でもない。当初、中央アジア諸国は、イスタンブールを「トルコ人のメッカ」と呼び、トルコをモデルとすることに積極的だったが、その後は同国をモデルとしたり、その政治的リーダーシップに従うことにはあまり興味を示さなくなった。
一方、中央アジア地域とモスクワの絆は深く、今後長期にわたりそのつながりは維持されていくだろう。ロシア語は、今後も中央アジア地域の共通語として存続するだろうし、ルーブルもそうであろう。同地域の軍隊を指導しているのはロシア人だし、政治を支配している旧支配層は、いまだにモスクワの指導を頼みにしている。また最近では、これまでにはなかったような現象もある。例えば、ウズベキスタンの反体制派はロシアのマスコミを通じて彼らの立場を発言しており、彼らはロシアを頼みにしているのである。さらに広い点からみれば、七〇年代に及ぶ共産主義支配体制からの離脱をリードしたのもロシア人だった。これらすべての要因から判断しても、アメリカの政策決定者は、中央アジア諸国がロシアとの強い結びつきを、今後も維持するよう働きかけるべきである。
さらに注意すべきは、中央アジア地域のモデル国家としてロシアに代わり得る国が、トルコではなく、むしろイランだという点である。それだけに、アメリカは早急な対策を練る必要がある。
イランはトルコよりも財源豊かだし、よりダイナミックなイデオロギーも備えている。そればかりではない、地理的にもより近くに位置し、貿易ルートにしても、イランはバンダル・アッバースという良港を備えており、中央アジアとこの港は比較的平穏な道路で結ばれている。したがってアメリカの石油会社や投資銀行は、イランではなくロシアの石油パイプラインシステムの整備に投資すべきである。アメリカの利益を考えた場合、ラフサンジャニに新たな戦略的な手段を与えるよりも、ロシアのボリス・エリツィンの政治的生き残りを助けるほうが賢明なのである。
流動的な今後
アメリカはこれまで中東問題といえば、まずアラブ・イスラエル問題を考えてきた。しかし、少なくともイラクのクウェート侵攻以来状況は変化し、中東の東半分の重要性が次第に高まりつつある。実際、昨年の中東での出来事もこうした状況の変化を物語っている。いまや、経済・安全保障の両面において、アラブ・イスラエル問題よりも、トルコや湾岸地域における問題のほうがより重要になって来ている。
イランとイラクは特に問題である。このアメリカ政治にとっての疫病神たちは、アメリカの三人の大統領に抜き差しならぬ問題を突きつけてきた。ジミー・カーターは、シャーの失脚、アメリカ大使館人質事件という外交的な痛手からついに立ち直ることはできなかったし、イラン・コントラ事件は、ロナルド・レーガンの政権基盤を揺るがした。さらに砂漠の嵐作戦というジョージ・ブッシュの成功も、イラク・ゲート事件と、サダム・フセインがいまも権力の座に留まっているという事実によって、その価値を著しく低下させられてしまったのである。
何人といえども、ビル・クリントンが今後どのような問題に直面するのかを予見することはできない。しかし新大統領が、早い段階でその政策の重点を移動させていくのはほぼ間違いないであろう。それがいかなる問題であれ、事前に対策を準備しておくほうが賢明であるのはいうまでもない。●
ダニエル・パイプスは、フィラデルフィアにある外交政策研究所および同研究所付属の中東問題研究所のディレクター。
パトリック・クローソンは、外交政策研究所およびワシントン・近東政策研究所の外部研究員である。
Reprinted by permission of FOREIGN AFFAIRS, April 1993. Copyright 1993 by the Council on Foreign Relations, Inc. www.ForeignAffairs.com and Foreign Affairs, Japan. www.foreignaffairsj.co.jp