エドワード・サイードが1983年の拙書『神の道:イスラームと政治力』を批判した。『オリエンタリズム』という題の彼の書を批評した七年後という、かなり長い行程の応答である。
(バーナード・ルイスほど)あまり偽善的ではないが、同様に批評力のないダニエル・パイプスのような、もっと若いイデオローグでオリエンタリストが自著『神の道:イスラームと政治力』で提示した専門知識は、知識にではなく、パイプスが定義を助ける、攻撃的で干渉的な合衆国の権益に全く役に立つ。イスラームの疎外感、劣等感、防衛性についてパイプスが語ることを許す、知的にスキャンダラスな一般化を我々がひとまず脇に置くとしても、まるでイスラームが一つの単体であるかのような、そして、まるで印象的な証拠が欠如しているか、最も二次的な重要性であるかのようなパイプスの本は、論理あるいは議論のために、ほとんど関係のない主張や肯定をするにつれて、オリエンタリズムの特殊な復元力、文化における他のあらゆる場での知的発展からの隔離、その時代遅れの横柄さを証明していると、私は思う。イスラーム復興についての本は、併行や関連発展を仄めかすだろうと考えたのであろうものの、世界のどこかで、いかなる専門家も、パイプスが自分自身にイスラームについて許している全くの権力と自由の組み合わせで、例えば、レバノンやイスラエルや合衆国の宗教復興のスタイルでユダヤ教あるいはキリスト教について今日語ることを、私は疑う。彼自身の言葉では「噂、風聞、証拠の他の断片」が唯一の証拠であることは、まさに同じ箇所で、噂や風聞を錬金術的に「事実」に変えるだろう。「各々の重要性を縮小する」ために彼が依存する「多数の」資料について書くことは、どこの誰にもあり得ない。これは、高尚なオリエンタリズムにとってさえ、全く無価値の魔術である。そして、パイプスは帝国主義のオリエンタリズムに敬意を払うけれども、正真正銘の学習も、自分勝手な動機から解放されたという見せかけも、修得しない。パイプスにとって、イスラームは揮発性で危険な事業であり、西洋に介在し、他のどこでも反乱や狂信主義を挑発し、邪魔をする政治運動である。
パイプスの本の核は、単純に非常に功利的な感覚ではない。レーガンのアメリカとの関連で、テロと共産主義は、それ自身、政治的なムスリムの射撃手、狂信者や反乱者というメディアのイメージ、しかし、ムスリム自身が自分達の歴史にとって最悪の源泉であるという説に、微かに消えていく。『神の道』のページは、イスラームの自己表明、自己理解、自意識の無能についての言及が、イスラーム理解において、もっと非常に有益で賢明なV・S・ナイポールのような目撃証言の称賛と共に、点在する。そして、もちろんここに、恐らく最も馴染んだオリエンタリストのテーマがあるのだろう。東洋は自らを体現できないので、それ故に彼らは、イスラームよりも、それそのものについてもっと知っている他者に体現される。今や、あなたが知っているよりも、異なった方法で他者に知られ、それに応じて洞察が生じるかもしれないという場合がしばしばである。しかし、それは全く異なったことである。ひとりでに、外部者が、まさにそのことによって、内部者としてのあなたについて、より良い感覚を持つという不変の法律として、事実上、言明するのだ。イスラーム見解と外部者の見解の間の交換という問いが、全くないことに留意せよ。対話もなく、議論もなく、相互認識もない。西洋の政策形成者、あるいは、彼の忠実な僕、彼が西洋人で白人で非ムスリムであるという美徳の所有である特徴の、平板な主張がある。
今これを私は提出するが、科学でもなく、知識でもなく、理解でもない。それは権力の声明であり、比較的絶対権威のための主張である。人種差別主義から構築されており、力強い真実に耳を傾ける前に、用意のできた読者にとって、比較的受容できるようにさせている。イスラームは文化ではなく、厄介なものとしての大きな常連のために、パイプスは語りかける。パイプスの大半の読者達は心の中で、彼がイスラームについて言うことは、60年代と70年代の他の厄介者を連想するだろう。ユネスコや国連のような場で、合衆国に対する均衡を予想した黒人や女性、脱植民地化した第三世界諸国の痛みのために、モイニハン上院議員とカークパトリック夫人の譴責を誘い出してしまった。それに加えて、一様に似たような考えのオリエンタリストや専門家達を共通分母として、パイプスは代表する。プログラムに基づいた無知を表象する。馬鹿げた復讐だが、内部的に非常に多様な人間性を区切り、帝国主義の文脈でイスラームを理解しようとするどころか、イスラームに関する最近の印象的な仕事を利用するどころか、異なった歴史と社会における批判理論や社会科学や人文学の研究や解釈の哲学における、計り知れない前進に幾らか留意を払うどころか、幾らか少しの努力をするどころか、イスラーム世界で生み出された巨大な想像力ある文学に精通する国務省と国家安全保障会議の高巣から、自由自在にイスラームを調査して判断するように、パイプスは強情を張って、明白に、スヌーク・ヒュルフローニエのような植民東方学者やV・S・ナイポールのような恥知らずの親コロニアルの変節者と、自身を提携する。
パイプスについて語るのにこの多くの時間を費やしてしまったのは、オリエンタリズムの大きな政治設定に関して幾ばくか主張するために、ただ彼が有益に役立つからである。その設定は、欧州帝国主義との200年のパートナーシップからオリエンタリズムを解き放ち、代わりに現代の古典哲学や古代ギリシャ・ローマ文化の研究と関連させる厚かましさを持つ主なスポークスマンのバーナード・ルイスに提案される種の主張において、定期的に否認され、抑圧される。