どの参考書で預言者ムハンマドを調べても、彼の人生の概略は確信に満ちて陳列されている。紀元570年にメッカで生誕、成功した商人としての経歴、610年に最初の啓示、622年にメディナへ逃避、630年にメッカへ凱旋、632年に死去である。しかしながら、この魅力的な評論集で説明されているように、この標準的な伝記には二つの主要な問題がある。第一に、ムハンマドに関する大量の記録は、どの事例も、最初期が彼の死後一世紀半を端緒とするアラビア語で書かれた資料―伝記、預言者の言行録など―から引き出されていることだ。第二に、預言者の人生に関する初期の資料は、標準的な伝記とは大いなる矛盾が残存していることだ。部分的には、これらはアラビア語以外の諸言語(アルメニア語、ギリシア語あるいはシリア語)による文字資料である。部分的には、それらは(パピルス、碑文、硬貨のような)物質的な遺物である。
一世紀の間、アラビア語の文字資料の非信頼性が理解されてきたものの、最近になってようやく、学者達がその充分な意味合いを調査し始めた。彼らはアラビア語で書かれた資料を懐疑的に見て、信徒達による利己的で信頼できない説明という「救済史」の一形態であると結論している。その詳細の巨大な主要部は、修正主義の学者達が考えるには、ほとんど全くまがい物である。例えばローレンス・コンラードは、碑文やギリシア語の説明によって、ムハンマドの誕生を570年ではなく552年に修正する。パトリシア・クローネは、ムハンマドの経歴はメッカではなく、数百キロ北方で起こったと結論づけている。イェフダ・ネヴォとジュディス・コーレンは、今日のサウジアラビアではなく、レヴァントで古典アラビア語が発展し、初期カリフ達のうち一人の植民化の努力を経由してのみ、アラビアに到達したと考えている。
ここから驚くべき結論が続く。ジュディス・コーレンとイェフダ・ネヴォによれば、七世紀に領土の大牧草地を征服したアラブ部族は、ムスリムではなかった。恐らく多神教徒達だっただろう。クルアーンは「ムハンマドの創作あるいはアラビアの創作でさえ」ないと、ジョン・ワンズブローは示唆するが、後の時代の必要性を満たすために、綴じ合わせられた初期ユダヤ・キリスト教礼拝資料の集成である。最も広範には、イブン・アル・ラワンディが結論づけているが、伝統版の二、三百年後まで(630年よりも830年のように)「我々が知っているようなイスラームというものはなかった」。アラビアの遠い砂漠ではなく、アラブ征服者達や、もっと文明化した臣民との交流を通して発展したのだ。ムハンマドの存在さえ疑いつつ、パトリシア・クローネとマイケル・クックはもっと先を行っている。
純粋な学究的追求で着手されたものの、『史的ムハンマドの探求』で利用可能とされた調査は、ムスリムにとって、倫理的模範としての預言者の役割、イスラーム法の源泉、神が与えたクルアーンの性質に関する基本的な問いを提起する。