・ダニエル・パイプスの序文
デンマーク語の"Truslen fra islamismen"からの本翻訳は、匿名でなされ、インターネット上に投稿されました。私のデンマーク語翻訳者であるメッテ・トムセン氏が、テクストを編集し改善してくれたことに感謝いたします。
ダニエル・パイプス氏によれば、ムスリム世界は目下、三度目として、西洋との関連で自己定義を行なおうとしているところです。最初の二つの試みは、西洋の多様な側面を模倣するという目的(あるいは結果)でした。三度目はファシズムや共産主義に比例する、全体主義のイデオロギーを表明しています。
フィラデルフィア―ドアには表札がなく、鍵がかかっている。訪問者は、住所が合っているか確かめるのに、隣の人のドアを叩かなければならない。確かにそうだ。中東フォーラムとダニエル・パイプス氏は、匿名の摩天楼の10階にいる。1787年、この国の礎を置くために国父達が集まった建物から、ちょうど石を投げたほどの距離だ。通りに降りると、二、三人の中年女性達が、ジョン・ケリー向けの投票ポスターを剥がしている。町では、彼のキャンペーンの終わりを蹴って追い払うべきなのだ。ペンシルヴェニアは、次の火曜日の大統領選の結果を決定するのももっともな、いわゆる「どちらに転ぶか予測できない州」の一つである。
ダニエル・パイプス氏自身にとっては、どこに彼の共感があるかは疑いもない。ジョージ・W・ブッシュに投票するだろう。自らを保守派だと述べている。54歳の歴史家は、中東と中世に特別の関心を持つのだが、1994年以来、シンクタンク「中東フォーラム」を率いてきた。その目的は「中東におけるアメリカの権益を定義し促進する」ことである。パイプス氏は、9.11の前からイスラーム主義者の脅威について、語り、書いてきた。既に1995年には、彼らが米国と欧州に不宣告の戦争を開始したと観察した。
パイプス氏の声はあまりにも静かなので、控えめな造りのオフィスにあるエアコンのブンブン鳴る音でほとんど消されてしまう。だが、それにもかかわらず、ビロードのように穏やかなこの声は、学界や左翼やあるムスリムの間では騒動の原因となってきた。パイプス氏が戦闘的イスラームについて大学で語る時、彼の批評家達は騒動やボイコットで脅した。ブッシュ大統領によって、昨年、米国平和研究所という政府のシンクタンクの理事に指名された時は、大きな喧噪を引き起こした。それで、シンクタンクのオフィスの正面ドアに表札がないことは、偶然ではない。
全体主義的イデオロギー
20年間、パイプス氏は ファシズムや共産主義に比例する、全体主義的なイデオロギーとしての戦闘的イスラームについて、書き、語ってきた。見解や歴史や政治についての認識は、かけ離れたところから生じているのではない。ダニエル・パイプス氏の父親は、リチャード・パイプス氏で、ロシアとソヴィエト史の20世紀主流の専門家の一人だった。1960年代と1970年代の精神に反対して、ソヴィエト政権の全体主義的な本質と、西洋のリベラルな民主主義に対する敵対的な態度を主張した。
息子は父親の影響を認識している。「イスラーム主義者の行動計画は、共産主義者やファシスト達とそれほど変わりません。それは、共産主義やファシズムに対するものとしての、信念についてです。彼らの背後には、ソヴィエト連邦やドイツのような大国がありませんが、もし彼らの手法や目標を見るならば、驚くべく程似ているのです」と、ダニエル・パイプス氏は語る。「三つのイデオロギーすべては、その核において過激なユートピアで、どのように人類が改良されうるかについての理論を持っています。それ以上でもなく、それ以下でもありません。三つともすべて、実体を大きな考えへともたらす、小さな選ばれたエリートによって支配されています。ありとあらゆる考えられる手段に訴える準備ができています。彼らは真の信仰者、狂信者で、彼らのプロジェクトを達成するためには、力や暴虐に訴えることも躊躇しません。他の知見を尊重せず、人生のあらゆる分野を管理することを望みます。ひとたび彼らがある国で成功したならば、彼らの野心は、他(の国々)へ自分達の統率を拡大することです」と彼は付け加える。「共産主義とファシズムとの二つの早期の対立という光に照らして、文明化した世界と戦闘的イスラームとの間の現在の紛争を見れば、意味をなします。一つは、比較的短期間におよぶ全体の戦いで何とか打ち負かしましたが、もう一つの対立である冷戦は、何十年も続きました。この第三の対立における戦闘的イスラームは、難関です。戦闘的イスラームのイデオロギーの核は、"al-Islam huwwa al-hall"という表現の中に隠されています。その意味するところは、『イスラームは解決だ』です。文脈が何であれ-教育、育児、恋愛、仕事、公的あるいは私的事項であれ-イスラームが回答なのです。これが、全体主義のイデオロギーの秘訣なのです」。
テロよりも
ダニエル・パイプス氏がイスラームと中東に魅せられたのは、1970年代初頭にエジプトで暮らした時からだ。当時、イスラーム主義を脅威だとは認識しなかった。1979年にイランでイスラーム革命が起こり、エジプト大統領アンワ―ル・サダトが2年後に暗殺され、あの地域でアメリカの権益への侵害が波打つまでは、そうではなかった。
パイプス氏は、イスラーム主義者との現在の衝突を、対テロ戦争として語るのは誤導だと考えている。誤った定義や用語が、解決にとって大間違いの提案へとつながっていると指摘する。ブッシュ大統領が、対テロ戦争がどれほどうまくいっているかを述べるのに、殺害されたアル・カーイダの指導者の人数を引用する時、ポイントを外している。「何も言ってはいません―もしくは、少なくともほとんど何も。'テロの脅威'とか'対テロ戦争'というのは、婉曲法、言い換えです。テロは戦術であって、敵ではありません。ここ合衆国では、第二次世界大戦が奇襲に対するものだったとは、何も言っていないのです。対ファシズム戦争でした」と、パイプス氏は論ずる。
穏健派を支持する必要
彼が強調するのは、その対立は、個人の信仰としてのイスラームに向けられるのではなく、世界中にイスラーム法であるシャリーアを打ち立てるために懸命になっている戦闘的イスラーム、攻撃的な政治イデオロギーに向けられるものだということである。この相違は、紛争解決の種と関係がある。「もし戦闘的イスラームが問題ならば、その反対の、つまり穏健なイスラームは解決でなければなりません」と、ダニエル・パイプス氏は結論づける。「そのまま進めば現代世界と衝突すると、決定的な方法でイスラームが非難されることを、私は意味していません。ムスリム多数派は、アフガニスタンのタリバン下のような暮らしを送りたいとは望んでいません。私達の側にいる何百万人ものムスリムがいます。この問題を深く調べるならば、現在の対立は、ムスリム世界の中で戦われなければならず、勝利されなければならないものなのです」。ダニエル・パイプス氏によれば、戦闘的イスラームとの戦いを取り上げる代替の指導者や見解を見つけることが今重要だという。「ファシズムや共産主義との対決のうちに、私達は勝利しました。なぜならば、多数派の目には胸が悪くなるように見せながら、敵のイデオロギーを何とか周辺化したからです。1991年、ソヴィエト指導者達はもはや自分達の制度を信じてはいませんでした。私達もまた、イスラミスト達は誤っているという事実を彼らに確信させる義務があります。イスラーム世界で代替となる指導者達を見つける必要があります。コンラード・アデナウアーがドイツで、ボリス・エリツィンがロシアで浮上したのと同じやり方によってです。二つの手段があります。一方では、武器の力と教育やメディアや情報手段によって、そのイデオロギーを打ち負かさなければなりません。他方、反イスラミストのムスリム達を支援しなければなりません。信仰を守りたいが、イスラーム法の下では暮らしたくないという人々です。それぞれ、ソヴィエト連邦やドイツで、反共産主義者や反ナチを支援したのと、かなり同じ方法です。結局、世界におけるムスリムの場所という二つの概念の間の戦いなのです」。
イスラームの真の本質ではない
ダニエル・パイプス氏は、現在の状況は、必ずしも楽観主義を起こすものではないと認めている。だが彼は、それにもかかわらず、早かれ遅かれ、ムスリム世界は現代世界との関係において肯定的な方法で自らを定義するだろうと、確信している。「現在の状況は、イスラームの真の本質に基づくものではありません。原則としてユダヤ教もまた、ちょうどイスラームのように律法で形作られた宗教ですが、現代生活と何とか共存してきました。イスラームの現在の状況は、歴史的な発展の結果なのです。もしも、1930年代にあなたと私がこの会話をしていたならば、現代生活とドイツや日本の諸問題を指摘したでしょう。ですが、それらは一時的でした。私達はまた、イスラーム世界にとっての代替的な世俗モデルをつくるというトルコ指導者のケマル・アタチュルクの試みに焦点を当てたかもしれません。残念なことに、この考えは、目下、中東ではあまり魅力的だとは考えられていません。イスラーム主義者達の見解は、もっとずっとタイムリーで魅力的に聞こえるのです」と、パイプス氏は説明する。
第三の試み
パイプス氏は引き続いて、イスラーム世界の歴史の詰め込み講義を行なう。「イスラーム史の最初の600年間は、ムスリムであることは、勝ち組で試合をしているようなものでした。精神的にも物質的にもうまくいった発展した社会でした。豊かで力に満ちて健全な世界でした。次の600年間、イスラーム世界は自らを閉ざし、他のどこでも起こったこと、特に欧州で発生したこととの全てのつながりを喪失したのです。19世紀のムスリムが西洋の富と権力を発見した時、自問し、戸惑い、衝撃を受けました。何が間違っていたのだろう?どのように修正するのだろうか?最初の120年から130年の間、つまり1930年代まで、彼らはリベラルな西洋を模倣しようとしました。フランスと英国のほとんどすべてを、です。次の60年間、それとは反対に、非リベラルな西洋を模倣しようとしてきました。 例えば、ファシストや共産主義運動です。第三期にある今日では、彼らは西洋の挑戦に応答しようとしています。そして、この度は初期の非リベラルなイスラームに回帰してしまったのです。これもまた、その時間と失敗を持つでしょう。そして、再び何か違ったことを試みるでしょう。次の試みは、最初のものと似ているだろうと私は思っています。つまり、他の二つよりももっと密接な、リベラルな西洋の模倣です」と、パイプス氏は穏健な楽天主義で語る。
欧州の困惑
だがこれは、反り返り、自ら事が起こるのを待つ理由を与えるべきではないと、パイプス氏は考えている。出生率の急落や自らの歴史文化についての弱体化した知見を考えて、イスラームが提起する挑戦に関して、欧州があまり警戒していないことに彼は驚いている。「これは、私達の時代の最大の物語の一つです。欧州での反応は、不可解な程のんびりしています。影響があるのに非常に否認するのです。経済や政治的な面でもっと弱い諸国からやって来るムスリムが、豊かで強い欧州で、ヨーロッパ人自身よりももっと文化的野心を示すことはパラドックスです。アメリカ人として、私には不可解です。欧州は過去500年にわたって、歴史の原動力であったのですが、今やその時代が終わりに来たかのように見えます。ここ合衆国では、その状況は遙かにあまり劇的ではありません」。ダニエル・パイプス氏によれば、ムスリムは(合衆国の)人口の約1パーセント以上を占めていない。300万から400万人ぐらいである。そして、彼らの社会的地位は欧州とは異なっている。「学校でイスラームを要求する集団があり、言論の自由に対する権利を主張する政治家やムスリムを怖がらせています。戦闘的イスラームは拡大した非暴力の項目も持っています。合衆国のムスリム達は二つの集団から構成されています。移民とイスラーム改宗したアメリカ人です。ムスリム移民達は、欧州のムスリムよりも、もっと高い社会経済的地位にあります。高額を稼ぎながら、医者やエンジニアその他の専門職の教育と関わっているのです」。
失敗した研究
ダニエル・パイプス氏は学界の大部分と仲違いをしてきた。彼は、中東研究でなされる調査の多くに批判的であり、他の分野では、近代化や民主化の効果をあまりにも素早く原理主義者達に帰してきた一方で、重要な動きを軽視あるいは無視してきたと考えている。彼が思うには、左翼の曲解という強い好み(の傾向)で、しばしば政治化してきた。「左翼は、西洋で形成された社会に不満です。反面、保守派は満足しています。左翼にある不満や罪悪感が、しばしば敵対者達との同調において、あまりにも遠くに行き過ぎさせています。彼らは理解や妥協を求めますが、一方で保守派達は、もっと対立という立場を取る傾向にあります。中東研究に従事する人々は、過激なイスラームにおける敵対的あるいは暴力的な要因を認めませんでした。サッダーム・フセインの暴虐な政権、反セム主義の広がり、スーダンにおける奴隷制、北アフリカにおけるベルベル人の文化的抑圧を無視してきました。そして彼らは、'ジハード'という語について、イスラーム領域を拡大するための軍事的努力よりも、全く違った何かを意味するという印象を伝えようと試みてきたのです。'ジハード'とは、よりよい人になることについてだと信じている人さえいます。あたかも、パレスチナ人のイスラーム・ジハードが、よりよい人間になるという意味でその語を使うかのように、です」。
経歴としての事実(『紳士録』)
ダニエル・パイプス氏は54歳。ハーヴァード大学で歴史学を専攻した。国務省と国防総省を歴任した。1994年以降、シンクタンク「中東フォーラム」の運営に専念してきた。同時に、年に200万以上のヒットを持つ異常なほど人気の高いウェブサイト(www.danielpipes.org)も並行している。ウェブ上の無料ニューズレターの読者は2万人である。二人の友人と自宅で中東フォーラムを立ち上げたが、今日では、フィラデルフィアの中心地にオフィスを構え、100万ドル以上の予算で、15人の従業員を有している。12冊の著書があり、新書は『ミニアチュア:イスラームと中東政治をめぐる見解』である。